カウンター席のお肉ができるまで
「いいかい、肉の味というのは、その生物が何を食べて、どう生きたかで決まるんだ」
古びた洋食店のカウンターの奥で、店主の久瀬は銀色のナイフを丁寧に研ぎながら言った。客は私一人。深夜、路地裏に迷い込んだ私を、この店は温かいオレンジ色の灯火で迎え入れてくれた。
「なるほど、こだわりがあるんですね」
私は差し出された赤ワインを口に含んだ。芳醇だが、どこか鉄のような重みがある味だ。
「こだわり、なんて言葉じゃ足りない。私は、世界で最も『純粋な肉』を探し求めてきた。家畜として育てられた牛や豚は、どこか濁っている。ストレスや配合飼料、そして死への恐怖が肉を硬く、卑しくさせるんだ」
久瀬は、まな板の上に置かれた布包みをおもむろに解いた。
現れたのは、淡い桃色の、見事なサシが入った肉の塊だった。それは驚くほど瑞々しく、店内の照明を反射して真珠のように鈍く光っている。
「これは……何の肉ですか?」
思わず身を乗り出した。見たこともないほどにきめが細かく、毛穴の一つも見当たらない。
「特別な個体ですよ。徹底的に管理された環境で、純度の高い食事だけを与え、外の世界の汚れを一切知らずに育った。そして何より、本人が『自分が肉になる』という自覚を持たないまま、幸福の中で処理された……いわば、究極の箱入りです」
久瀬は手際よく肉を切り出した。フライパンに乗せると、弾けるような音とともに、甘く、それでいて脳を直接痺れさせるような濃厚な香りが立ち上る。私は生唾を飲み込んだ。
「さあ、召し上がれ。味付けは岩塩だけです」
目の前に置かれた皿には、絶妙な焼き加減のステーキが鎮座していた。
ナイフを入れると、抵抗がまったくない。まるで熟しきった果実のように、刃が吸い込まれていく。一切れを口に運んだ瞬間、私は言葉を失った。
溶けた。
脂が舌の上で甘い液体へと変わり、喉の奥へと滑り落ちていく。それは単なる食欲の充足ではなく、何か神聖なものと一体化するような、恐ろしいまでの恍惚感だった。
「……信じられない。こんなに……こんなに柔らかくて、温かい味の肉があるなんて」
「そうでしょう。それは、愛されていた証ですから」
久瀬は満足げに目を細めた。
「その個体はね、死ぬ直前まで歌を歌っていたんですよ。自分が誰かの血肉になり、永遠に記憶の中に生きることを、至上の喜びだと教え込まれてきた。恐怖は一切ない。あるのは、純粋な献身だけだ」
ふと、私は違和感を覚えた。
これほど贅沢な肉を供する店にしては、厨房の隅に置かれたゴミ箱が、奇妙に清潔すぎる。骨の一本も、内臓の破片も見当たらない。
「久瀬さん、このお肉……まだありますか? 次回は友人も連れてきたい」
「ああ、残念ながら、こればかりは一頭からわずかしか取れない部位でしてね。それに、次の『仕込み』には時間がかかるんです」
久瀬は、カウンターの下から一冊のアルバムを取り出し、私に見せた。そこには、真っ白な部屋で微笑む、一人の若い女性の写真が貼られていた。彼女の肌は、先ほど私が口にした肉と同じ、透き通るような桃色をしていた。
「この子はね、私にとっての最高傑作でした。名前を呼ぶと、尻尾こそありませんでしたが、本当に嬉しそうに目を細めたものです」
私は咀嚼していた最後の一切れを、飲み込むべきか吐き出すべきか迷い、結局、そのあまりの美味さに抗えず飲み下してしまった。
胃の腑が、ずしりと重い。まるで、彼女の人生の重みがそのまま私の中に移ったかのように。
「……ごちそうさま。素晴らしい夜でした」
私は震える手で会計を済ませ、店を出ようとした。
「お客様」
久瀬の声に呼び止められ、振り返る。
彼は、私の体格を品定めするように、上から下までゆっくりと眺めてから、穏やかに微笑んだ。
「あなたも、なかなか良い『素質』をお持ちだ。もしよろしければ、明日からここで働きませんか? 食事と寝床は最高のものを用意します。何も心配いりません。ただ、毎日私と楽しく話し、穏やかに、幸福に過ごしてくれればいい。……いつか、最高の味が仕上がるその日まで」
外に出ると、夜風が冷たかった。
しかし、私の腹の底だけは、いつまでも嫌なほど熱を持っていた。
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