最終話
目が覚めた時、最初に感じたのは、柔らかな陽の光と、清潔なリネンの香りだった。
重いまぶたをゆっくりと持ち上げると、見慣れない天井が目に入った。豪華だが華美ではない、落ち着いた装飾。ここは、ヴァインベルクの屋敷ではないらしい。
「……気がついたか」
すぐそばから、低く、穏やかな声がした。
はっとして横を向くと、ベッドサイドの椅子に、カイゼル辺境伯が腰掛けていた。
彼は、窓の外に視線を向けたままだったが、その横顔はどこか憔ेंとして見えた。
「カイゼル、様……? わたくしは……」
「三日、眠っていた」
彼は短くそう言うと、こちらに視線を戻した。
その蒼氷の瞳には、今まで見たことのない、深い安堵の色が浮かんでいた。
「ここは、王都にある俺の屋敷だ。お前が倒れた後、ヴァインベルク伯爵は体面を気にしてお前の身柄の引き渡しを拒んだが……力ずくで連れてきた」
淡々とした口調だが、その言葉の裏にある強い意志を感じて、胸が熱くなる。
わたくしは、ゆっくりと自分の体を見下ろした。
左手首には、もうあの忌まわしい腕輪はない。その代わり、若葉の紋様が、肌の上で淡い光を放っている。
体の中を流れる魔力は、嵐が過ぎ去った後の湖のように、静かで、温かかった。
「あの後……王都は、どうなりましたか?」
「お前の力で、魔物は一体残らず浄化された。負傷者も全て回復し、街も元通りだ。……まるで、悪夢でも見ていたかのようだ、と誰もが言っている」
彼は、静かに立ち上がると、窓辺へ歩いて行った。
「魔物の暴走の黒幕も、判明した」
「……!」
「男爵令嬢イザベラだ。彼女は、古代の禁術を使い、魔物を操っていた。彼女の一族は、かつて魔物を兵器として利用しようとして、国を追われた呪術師の末裔だったらしい。王城に残っていた彼女の部屋からは、その証拠が山のように出てきた」
やはり、彼女の仕業だったのだ。
「彼女は、お前に嫉妬していた。そして、お前が持つ『浄化』の力を、本能的に恐れていた。だから、エドワード王子を唆し、お前を排除しようとした。今回の暴走も、王子に手柄を立てさせ、同時に、お前と、お前の力の正体を知る俺をまとめて葬り去るための計画だったようだ」
「イザベラは……どうなりましたか?」
「……自滅した。自らの魔力に飲み込まれ、部屋ごと塵と化したと報告があった。因果応報、というやつだ」
カイゼル辺境伯の声には、一片の同情もなかった。
「では……エドワード殿下は?」
その名を口にした途端、彼の表情が、すっと氷のように冷たくなった。
「あの愚かな王子は、生き残った騎士たちによって、全ての愚行を暴露された。敵前逃亡、指揮権の放棄、そして、イザベラの甘言に乗り、国を滅ぼしかけた大罪。……今は、地下牢にいる。王家も、もはや彼を庇いきれん」
王命により、正式な裁判が開かれることになったらしい。
婚約破棄を言い渡されたあの夜会が、まるで遠い昔のことのように感じられた。
彼が望んだ英雄の座。その結末が、断罪台の上だとは、なんという皮肉だろう。
「クラウディア」
不意に、彼がわたくしの名を呼んだ。
振り返った彼の瞳は、真剣そのものだった。
「お前は、この国の救世主だ。人々は、お前を『光の聖女』と呼び、称えている」
「聖女、だなんて……わたくしは、ただ……」
あなたを、失いたくなかっただけ。
その言葉は、喉の奥で消えた。
「ヴァインベルク伯爵夫妻も、今や手のひらを返したように、お前を『我が家の誇り』だと言って憚らない。お前を迎えに来るだろう」
その言葉に、心がずきりと痛んだ。
両親の元へ? あの、冷たい屋敷へ?
もう、戻りたくない。
わたくしの表情から心を読み取ったのか、彼は、ゆっくりとわたくしの元へ歩み寄ってきた。
そして、ベッドの前に跪くと、わたくしの右手を、そっと彼の両手で包み込んだ。
氷の辺境伯と呼ばれる彼の掌は、驚くほど温かかった。
「クラウディア」
彼は、わたくしの目と、真っ直ぐに視線を合わせた。
その蒼氷の瞳に映るのは、紛れもない、わたくし一人の姿。
「俺は、初めてお前に会った時から、分かっていた。お前が、偽りの仮面の下に、誰よりも強く、美しい魂を隠していることを」
「……え……」
「お前が解放した光は、魔物だけではない。俺の、凍てついていた心をも、溶かしてくれた」
彼の指先に、力がこもる。
「だから、誰にも渡したくはない。両親にも、この国の誰にも」
「カイゼル、様……?」
「俺と共に、北の地へ来てはくれないか。そこには、王都のような華やかさはない。厳しい冬と、静寂があるだけだ。だが、お前が本来の姿で、心から笑って生きられる場所を、俺が必ず用意する」
それは、今まで聞いたどんな言葉よりも甘い、愛の告白だった。
「偽りの仮面は、もういらない。ありのままのお前を、俺は、愛している」
涙が、溢れて止まらなかった。
それは、悲しみや悔しさの涙ではない。
生まれて初めて知った、温かい喜びの涙だった。
わたくしは、泣きながら、それでも精一杯の笑顔を作って、こくりと頷いた。
言葉は、いらなかった。
ただ、彼の温かい手を、ぎゅっと握り返す。
それだけで、わたくしの全ての答えが、彼に伝わったはずだから。
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あれから、一年。
わたくしは今、カイゼル――愛する夫となった彼と共に、リントヴルムの地で暮らしている。
エドワード元王子は、国を危機に陥れた大罪により王籍を剥奪され、国境の砦へ幽閉された。二度と、彼が王都の土を踏むことはないだろう。
わたくしの両親は、世論とカイゼルの圧力に屈し、結局、わたくしたちの結婚を認めざるを得なかった。彼らは今も、「聖女の父」「聖女の母」として、王都で得意げに暮らしているらしいけれど、もう、どうでもいいことだった。
ここリントヴルムの地は、彼が言った通り、冬が長く、厳しい。
けれど、わたくしにとって、この場所は世界のどこよりも温かい。
「クラウディア、冷える。これを」
温室で薬草の手入れをしていたわたくしの肩に、ふわりと温かい毛皮のケープがかけられた。
振り返ると、心配そうな顔をしたカイゼルが立っている。
「まあ、カイゼル様。わたくしはもう大丈夫ですのに」
「油断は禁物だ」
彼はそう言うと、わたくしの隣に屈み込み、芽吹いたばかりの薬草を愛おしそうに眺めた。
この一年で、わたくしは自分の力を完全に制御できるようになった。
今では、この凍てついた大地でも、薬草や美しい花々を育てることができる。
『生命樹の巫女』の力は、リントヴルムの厳しい冬に、ささやかな春をもたらしていた。
領民たちは、最初はわたくしを遠巻きに見ていたけれど、今では『春を呼ぶ奥方様』と慕ってくれている。
「見てください、カイゼル様。この花、王都では見たことのない、青い花が咲きました」
「……お前の瞳の色と同じだな。美しい」
彼は、花ではなく、わたくしのことだけを見つめて、そう囁いた。
その甘い言葉と、熱のこもった視線に、頬がカッと熱くなる。
一年経っても、この無愛想だったはずの夫の愛情表現には、なかなか慣れそうにない。
「……からかわないでくださいませ」
「からかってなどいない。本心だ」
彼は、わたくしの左手を取ると、若葉の紋様が浮かぶその手首に、そっと口づけを落とした。
その仕草に、心臓が大きく跳ねる。
かつて、この腕には、わたくしを縛り付ける呪いの枷が嵌められていた。
けれど今は、愛する人の、温かい唇が触れている。
「クラウディア」
彼が、わたくしの耳元で、愛おしげに名を呼ぶ。
「お前を見つけられて、よかった」
わたくしは、彼の首に腕を回し、そっと身を寄せた。
窓の外では、雪がしんしんと降り積もっている。
けれど、この温室の中は、春の陽だまりのように温かい。
「いいえ」
わたくしは、彼の蒼氷の瞳を見つめ返して、微笑んだ。
「見つけてくださって、ありがとう存じます。わたくしの、愛しい旦那様」
出来損ないと蔑まれ、全てを諦めていた令嬢は、もういない。
ここにいるのは、ありのままの自分を受け入れ、真実の愛を知った、一人の女性。
偽りの仮面を脱ぎ捨てたわたくしの人生は、今、始まったばかり。
この、世界で一番温かい氷の地で、愛する人と共に、永遠の春を紡いでいくのだ。
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