第3話
時が止まったかのようなホールで、わたくしはただ、カイゼル・フォン・リントヴルム辺境伯の蒼氷の瞳に見入っていた。
エドワード殿下は、予想外の人物からの批判に顔を真っ赤にしているが、相手が『氷の辺境伯』では反論もできないらしい。悔しそうに歯噛みする音が聞こえてきそうだ。
「……失礼」
カイゼル辺境伯は、周囲の動揺などまるで存在しないかのように、短くそう言うと、わたくしのすぐ横を通り過ぎていく。
その時、彼の軍服の袖が、わたくしの腕に嵌められた銀の腕輪に、微かに触れた。
チリッ、と静電気が走ったような、鋭い感覚。
いつもはただ冷たいだけの腕輪が、その一瞬、灼けるように熱くなった気がした。
「っ……!」
思わず腕を押さえる。
カイゼル辺境伯は振り返ることなく、人々の間を縫って歩き去っていく。
彼の興味は、もうわたくしにはないようだった。
(今の、は……)
気のせいだったのだろうか。
けれど、腕に残る痺れるような感覚は、あまりに鮮明だった。
結局、あの後わたくしは誰に声をかけられることもなく、夜会を後にした。
ヴァインベルク家の馬車に乗り込んでも、出迎えた侍女は気まずそうに目を伏せるだけで、慰めの言葉一つもない。
まあ、慣れている。
自室に戻り、重たいドレスを脱ぎ捨てて、一人になる。
窓の外は、静かな夜の闇が広がっていた。
左手首の腕輪に、そっと指で触れてみる。
もう熱は感じられない。いつもの、肌の温度を奪っていく無機質な冷たさに戻っていた。
だが、あのカイゼル辺境伯という男の、底の知れない瞳が脳裏に焼き付いて離れなかった。
『ひどい歪みだ』
『エドワード王子は、見る目がないらしい』
彼の言葉が、静寂の中で何度も反響する。
歪みとは、何のことだったのだろう。
そして、見る目がない、とは。
(まさか……)
あり得ない考えが、頭をよぎる。
このわたくしに、エドワード殿下が見抜けなかった価値があるとでも言うのだろうか。
魔力の制御もできず、両親にすら見放された、この出来損ないのわたくしに?
「……くだらない」
自嘲の言葉が、唇から漏れた。
少しばかり同情的な言葉をかけられたからといって、何を期待しているのか。
あの辺境伯は、きっと気まぐれに、王子への当てつけでそう言っただけだ。
そうに違いない。
そう言い聞かせて、思考を打ち切ろうとした、その時。
コン、コン。
控えめなノックの音と共に、扉の外から侍女の声がした。
「お嬢様、カイゼル・リントヴルム辺境伯様より、お届け物でございます」
「……え?」
思わず、素っ頓狂な声が出た。
カイゼル辺境伯から? なぜ?
扉を開けると、侍女が小さな木箱を恭しく差し出してきた。
差出人の名を示す紋章は、間違いなくリントヴルム辺境伯家のものである『氷竜』の印だ。
礼を言って受け取り、侍女を下がらせる。
どきどきと、落ち着かない心臓を抑えながら、木箱の蓋を開けた。
中に入っていたのは、一冊の、古びた本だった。
革の表紙は擦り切れ、ページは黄ばんで変色している。けれど、丁寧に扱われてきたことが分かる、不思議な温かみのある本だった。
本の間に、一枚のカードが挟まっている。
そこには、氷のように怜悧で美しい筆跡で、短い言葉だけが記されていた。
『偽りの姿で生きるのは、息苦しくないか』
息が、止まった。
その一文は、まるで鋭いナイフのように、わたくしが何重にも固めてきた心の鎧を貫いた。
息苦しいに、決まっている。
感情を殺し、力を殺し、ただ微笑むだけの人形として生きることが、楽なはずがない。
言いたいことも、やりたいことも、すべて胸の奥に押し込めて、諦めて。
そうやって生きてきた。
けれど、それを誰かに指摘されたのは、初めてだった。
両親でさえ、それが当たり前だと、お前のためだと言って、この腕輪を嵌めたというのに。
わたくしは、震える手で、本のページをめくった。
それは、古代語で書かれた魔術に関する専門書だった。今の時代ではほとんど研究されていない、魔力の根源について記されたものらしい。
読めない文字も多いけれど、そこに描かれた挿絵を見て、わたくしは再び息を呑んだ。
そこに描かれていたのは、銀色の腕輪によく似た、魔力具の数々。
だが、その説明書きの横には、例外なく『呪具』という単語が添えられていた。
『……過剰な魔力を抑制するのではなく、魔力の流れそのものを乱し、歪め、所有者の生命力を糧として霧散させる呪われた道具。長期にわたる使用は、魂そのものを蝕む……』
「……呪具……?」
呟いた声が、震えていた。
わたくしが、物心ついた頃からずっと身につけてきたこの腕輪が?
両親が、わたくしのためだと言って与えたこの腕輪が、呪いの道具?
だから、彼は『ひどい歪みだ』と?
全身から、血の気が引いていくのが分かった。
足元が崩れ落ちていくような、めまいがする。
今まで信じてきた、いいえ、信じるしかなかった世界のすべてが、ガラガラと音を立てて崩れていく。
カイゼル辺境伯。
あの人は、夜会でのほんの数秒の邂逅で、そのすべてを見抜いたというのか。
この腕輪の正体も、それをつけさせられているわたくしの苦しみも。
カードに書かれた言葉が、再び頭の中で響き渡る。
『偽りの姿で生きるのは、息苦しくないか』
それは、問いかけではなかった。
わたくしという存在の、本質を突いた断言だった。
わたくしは、知らず知らずのうちに、左手首の腕輪を、右手で強く、強く握りしめていた。
まるで、忌まわしい何かを、引きちぎろうとするかのように。




