第2話
「……なっ、なんだ、その態度は!」
わたくしの予想外に落ち着き払った返答に、エドワード殿下は一瞬、言葉を失い、それから顔を赤くして声を荒らげた。
きっと、わたくしが泣いてみっともなく縋り付くか、あるいはヒステリックに喚き散らすとでも思っていたのだろう。
(残念でした。あなたの望むような悪役令嬢には、なって差し上げられませんことよ)
「喜んで、だと? 不敬だぞ、クラウディア!」
「いいえ、殿下。心からの言葉でございます」
わたくしは淑女の笑みを崩さずに、ゆっくりと頭を下げた。
「これまで、出来損ないのわたくしが殿下の隣にいることで、どれほど殿下にご迷惑をおかけしてきたことか。これで殿下が真に愛する方と結ばれるのでしたら、わたくしにとっても、これ以上の喜びはございません」
完璧な建前。
非の打ち所のない、貴族令嬢としてのお手本のような回答だ。
周囲の貴族たちの一部が、「まあ、殊勝なこと」と囁くのが聞こえる。
殿下はぐっと言葉に詰まり、面白くないといった表情でわたくしを睨みつけた。
彼の隣で、イザベラが「クラウディア様……」と潤んだ瞳を伏せる。その仕草一つで、彼女は『婚約者を奪った悪女』から『王子の愛を受け入れてしまった、心優しき悲劇のヒロイン』へと立場を変えるのだから、大した役者だ。
「……ふん。分かっているのならいい。イザベラ、行こう。こんな女の相手をするだけ、時間の無駄だ」
エドワード殿下はそう吐き捨てると、イザベラの腰を抱き、わたくしに背を向けた。
まるで、勝利宣言のように。
これで、茶番は終わり。
わたくしは、この場にいる理由もなくなった。
誰に咎められることもなく、静かにこの夜会から去ることができる。
それは、わたくしにとって何よりの解放のはずだった。
ドレスの裾を翻し、彼らが去ったのとは反対の方向へ、テラスに続く扉へと歩き出す。
背中に突き刺さる好奇と嘲笑の視線が、ちりちりと肌を焼くように痛い。
動くたびに、左手首の腕輪がひんやりとした感触を主張する。
幼い頃から、ずっとわたくしを縛り付けてきた銀色の枷。
魔力を抑え、感情を抑え、クラウディアという人間そのものを閉じ込めてきた檻。
(これさえなければ、わたくしは……)
そこまで考えて、自嘲気味に笑みが漏れた。
今さら、だ。
もしも、などという仮定に意味はない。
わたくしは、この腕輪と共に「出来損ない」として生きていく。それだけのこと。
テラスへと続くガラス扉に手をかけようとした、その時だった。
キィ、と重々しい音を立てて、ホールの巨大な扉が開かれた。
ざわついていた会場が、水を打ったように静まり返る。
そこに立っていたのは、一人の男性だった。
夜の闇を溶かし込んだような黒一色の軍服。そこにしつらえられた銀の刺繍だけが、蝋燭の光を反射して鋭く輝いている。
月光を思わせる銀色の髪は、寸分の乱れもなく整えられ、彫刻のように美しい顔立ちは、感情というものを一切感じさせない。
そして、見る者を射竦める、凍てつくような蒼氷の瞳。
「――カイゼル辺境伯様……!」
誰かが、畏怖の念を込めてその名を呟いた。
カイゼル・フォン・リントヴルム辺境伯。
国土の北端、一年中雪と氷に閉ざされたリントヴルム辺境領を治める若き当主。
強大な魔力を持ち、数々の武功を上げているが、その冷徹で無慈悲な性格から『氷の辺境伯』と呼ばれ、王都の社交界では遠巻きに恐れられている存在だ。
めったに夜会に姿を見せない彼が、なぜここに?
カイゼル辺境伯は、ホールの中を一瞥すると、何の興味もなさそうに歩を進め始めた。
彼が通る道が、まるでモーゼの海割りのように、自然と開けていく。誰もが彼と視線を合わせることを恐れ、息を殺していた。
その足が、ぴたりと止まる。
わたくしの、すぐ目の前で。
「……」
蒼氷の瞳が、真っ直ぐにわたくしを捉える。
それは、エドワード殿下や他の貴族たちが向けてきたような、侮蔑や好奇の色を一切含まない、ただ静かで、底の知れない色をしていた。
まるで、魂の奥底まで見透かされているような感覚に、思わず息を呑む。
「……その茶番は、もう終わりか」
低く、静かな声が鼓膜を揺らした。
茶番。
彼は、先ほどの婚約破棄をそう言い切ったのだ。
「……ご挨拶申し上げます、カイゼル辺境伯様。わたくしは……」
「ヴァインベルク伯爵令嬢、クラウディア。知っている」
わたくしの言葉を遮り、彼は淡々と告げた。
知っている? この、社交界の厄介者であるわたくしのことを?
カイゼル辺境伯の視線が、わたくしの顔から、ゆっくりと左手首の腕輪へと移される。
その瞬間、彼の眉が僅かに、本当に僅かに動いたのを、わたくしは見逃さなかった。
「……なるほど。ひどい歪みだ」
「え……?」
歪み?
何のことだろうか。聞き返そうとしたわたくしに、彼は再び視線を戻した。
その蒼氷の瞳の奥に、ほんのわずかな光が宿ったように見えたのは、気のせいだろうか。
「エドワード王子は、見る目がないらしい」
それは、誰に言うでもない、独り言のような呟きだった。
けれど、静まり返ったホールでは、その声は驚くほど明瞭に響き渡った。
王子への、明確な批判。
会場が、先ほどとは違う意味で、再びどよめきに包まれる。
カイゼル辺境伯は、そんな周囲の反応など意にも介さず、ただじっとわたくしを見つめている。
他の誰もがわたくしを「出来損ない」として見る中で、この人だけが、何か違うものを見ている。
そんな、あり得ないはずの予感が、胸をざわめかせた。
彼の瞳に映るわたくしは、一体、どんな姿をしているのだろうか。
凍てつくような静寂の中、わたくしは、目の前の氷の辺境伯から、どうしても目を離すことができなかった。




