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第1話

磨き上げられた大理石の床が、天井画をぼんやりと映している。

どこからか軽やかな弦楽四重奏が聞こえ、貴婦人たちのドレスが擦れる衣擦れの音と、甘ったるい香水の匂いが混じり合って、私の鼻腔をくすぐった。


王宮で開かれる夜会。

それは、着飾った男女が己の家柄と富と、そして腹の探り合いを披露する社交という名の戦場だ。


(……ああ、つまらない)


内心で何度目になるか分からないため息をつきながら、わたくし、クラウディア・フォン・ヴァインベルク伯爵令嬢は、壁際に置かれた長椅子の隅で、グラスの中の果実水を揺らしていた。


わたくしの婚約者であるこの国の第二王子、エドワード殿下は、今宵もわたくしを放置して、愛らしい男爵令嬢とダンスに興じている。

まあ、いつものことだ。


彼らに向けられる周囲の視線は、様々だ。

眉をひそめる者、面白そうに扇の陰で囁き合う者、そして、羨望と嫉妬の眼差しを向ける令嬢たち。


その視線の一部が、突き刺すようにこちらへ飛んでくるのにも慣れてしまった。


『ご覧になって? ヴァインベルクの……』

『まあ、お可哀想に。でも、自業自得ですわよね』

『あんな〝怪物〟が殿下の隣にいるなんて、不釣り合いも甚だしいもの』


ひそひそと交わされる声が、音楽の合間を縫って耳に届く。

怪物。

出来損ない。

魔力制御もろくにできない欠陥品。


それらが、社交界におけるわたくしの評価だった。


わたくしには、生まれつき膨大な魔力があった。

けれど、その力はあまりに強大すぎて、幼い頃のわたくしには到底制御できるものではなかった。感情の昂りに合わせて魔力が溢れ出し、庭の花を枯らし、窓ガラスを割り、侍女を怯えさせた。


その結果、わたくしは両親によって、この銀色の腕輪を嵌められることになった。

常に冷たい感触を肌に伝える、魔力抑制の腕輪。

それ以来、わたくしの魔力はほとんど霧散し、今では微弱な魔力しか感じられない、ただの令嬢――いや、「出来損ない」の令嬢となったのだ。


力を抑え、感情を殺し、ただ微笑むだけの人形。

それが、ヴァインベルク伯爵家と王家の体面のために、エドワード殿下の婚約者として存在を許されたわたくしの役割。


(……くだらない)


そう、すべてがくだらない茶番だ。

エドワード殿下がわたくしを嫌っていることなど、とっくの昔に分かっている。彼は、魔力の多寡でしか人の価値を測れないくせに、強大すぎる力を持つ者は恐れ、蔑むという、実に分かりやすいお方だ。


だから、彼がか弱く、守ってあげたくなるような令嬢に惹かれるのも当然の帰結だった。


男爵令嬢イザベラ。

儚げな亜麻色の髪に、潤んだ瞳。魔力はほとんどないけれど、その分、健気で可愛らしい。

……と、いうのが世間の評価。


わたくしから見れば、自分の魅力を最大限に利用する方法を熟知した、したたかな女性でしかないのだけれど。


「クラウディア嬢」


不意に、すぐそばで声がした。

見れば、エドワード殿下と、その腕に寄り添うイザベラが、わたくしの前に立っていた。

音楽が、ぴたりと止む。

周囲のざわめきが嘘のように静まり返り、全ての視線がこの一点に集中するのが分かった。


(あらあら、ついに来たのかしら。クライマックスが)


わたくしはゆっくりと立ち上がり、貴族令嬢の完璧な作法でスカートの裾を持ち、優雅に一礼する。


「エドワード殿下。それに、イザベラ嬢もごきげんよう」


「ああ」


エドワード殿下は、不機嫌を隠そうともしない声で応じると、わたくしを値踏みするように上から下まで眺めた。その視線には、あからさまな侮蔑が滲んでいる。


「クラウディア。単刀直入に言おう。俺は、お前との婚約を今この場で破棄させてもらう!」


高らかに響き渡る、婚約破棄の宣言。

おお、と会場がどよめいた。


(やっぱり。予想通りすぎて、逆に少し眠たいくらいだわ)


わたくしの冷静な内面とは裏腹に、隣のイザベラは、まるで今にも泣き出しそうに眉を下げ、殿下の腕にぎゅっとしがみついている。


「で、殿下……! そんな、急に……クラウディア様がお可哀想ですわ!」


健気な彼女の言葉に、エドワード殿下は満足そうに頷き、わたくしをさらに厳しく睨みつけた。


「いいや、イザベラ。お前は優しすぎる。こいつは、お前のような淑女が庇ってやる必要などない女だ」


殿下は、わたくしの右手首――腕輪が嵌められたそこを、忌々しげに指さす。


「魔力の制御もできず、ただ強力なだけの欠陥品! そんな女が、次期国王たる俺の隣に立つなど、国の恥だ! それに比べてイザベラは、魔力こそ微弱だが、清らかで心優しい。これこそが、国母にふさわしい資質だ!」


なるほど。

シナリオは完璧、というわけね。

悲劇のヒロインと、彼女を守る正義の王子。そして、彼らの愛の障害となる、邪悪で出来損ないの悪役令嬢。


(お疲れ様です、殿下。大根役者にも程がありますわよ)


わたくしは内心で盛大な拍手を送りながら、表情には一片の動揺も見せず、ただ静かに微笑んだ。


「……殿下のおっしゃることは、理解いたしました。ですが、王家とヴァインベルク家の間で交わされた正式な婚約です。わたくしの一存では……」


「父上には、すでに話を通してある!」


わたくしの言葉を遮り、殿下は勝ち誇ったように言い放った。

その自信満々な様子に、ああ、外堀はすべて埋められているのだと察する。わたくしの父親も、きっとこの出来損ないの娘を王家から突き返されずに済むのならと、二つ返事で了承したに違いない。


「お前のような女のせいで、俺はこれまでどれだけ肩身の狭い思いをしてきたことか! いつ暴走するか分からない化け物を婚約者だなどと……考えるだけで反吐が出る!」


「まあ、殿下! そんな言い方は……!」


イザベラが悲鳴のような声を上げる。

その声が、まるでわたくしへの同情心を煽るための演出のように聞こえて、吐き気がした。


周囲の貴族たちは、もはや隠そうともせず、わたくしに嘲笑と蔑みの視線を向けている。

誰も、助け舟など出してはくれない。

ヴァインベルク家の人間でさえ、遠巻きにこの茶番劇を眺めているだけだ。


孤独。

ずっと昔から、知っていた感覚。

この腕輪を嵌められた日から、ずっとわたくしの隣にあった感情だ。


だから、今さら傷つくことなんてない。

むしろ、これでようやく、この息苦しい役割から解放される。


そう思った。

そう、思うことにした。


わたくしは、ゆっくりと背筋を伸ばし、婚約破棄を言い渡した目の前の王子を見据えた。

騒がしい夜会の中で、わたくしの周りだけが、しんと静まり返っているような気がした。


「殿下のお言葉、確かに承りました」


凛、と響いた自分の声が、やけに冷静で、自分でも少し驚いた。


「このクラウディア・フォン・ヴァインベルク、本日のこの時をもちまして、エドワード殿下との婚約を、喜んで解消させていただきます」


もう、あなたのお人形を演じてあげるのは、終わりですわ。

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