船幽霊(ふなゆうれい)【裏】~一夜目~
「いよいよ、明日が決戦でしょうか」
清子が幼い息子を胸に抱き、目を伏せて私に問いかけた。
その声は波間のさざめきのようにかすかで、どこか諦めを含んでいた。
ここは壇ノ浦の沖合。
源氏に追われ、ここまで逃げてきた。
最初はすぐに京へ戻れると思っていた。
だが現実はどうだ。
地位も尊厳も仲間も失い、残されたものは恐怖と疲労だけ。
もはや平家に勝ち目などない。
それでも――私は闘わなければならない。
この愛しい二人を守るために。
夜明け。
法螺貝の音が重く空気を震わせ、決戦の幕が上がった。
波を切り裂くように敵船が迫る。
私は刀を振るい、次々と斬り伏せた。
この先には清子と子がいる。女や子どもたちがいる。
捕らわれれば、末路は火を見るよりも明らかだ。
だから退くわけにはいかぬ。
だが、刃は容赦なく私を捉えた。
額に一閃、視界が赤に染まる。
振り返れば、仲間たちの旗――あの赤旗が次々と薙ぎ倒されていく。
海風に揺らめき、やがて海へと沈む。
平家の命運もまた、そうなのだろうか。
さらに肩を深く突かれ、力が抜ける。
身体は重りのように揺らめき、海へと落ちた。
冷たい海水が口を塞ぎ、胸を締めつける。
暗い海の底へ沈みゆく中、必死にもがくが、掴めるのは泡ばかり。
水面を見上げれば、赤旗が広がっていた。
それは血のように滲み、やがて闇に飲まれていく。
――だが、だが、ここで終われぬ。
愛する者を守らねばならぬ。
たとえこの命果てようとも、一人でも多くの者を海に引きずり込まねば!!!!!
***
……それから幾年。
夜の海を渡る船のもとに、我らは現れるようになった。
赤旗の影を背負い、柄杓を手に。
一杯、また一杯と、海水を汲み入れては囁くのだ。
――「我らと共に沈め」
荒れる波間に響くその声は、壇ノ浦に散った平家武者の怨念。
そして、人々はその姿をこう呼ぶようになった。
船幽霊 と。