そんな事を言われましても
無表情。
その一言に尽きるわねと、フロレンティーナは思った。
フロレンティーナ・エルダ・ザルツは、由緒ある四大侯爵の一つザルツ家の長女として生まれ、十六歳となったこの日、婚約者となる第三王子であるハルトヴィン殿下と顔合わせとなった。
ガチガチに緊張してしているようにも見えず、これは前途多難だわと、ハルトヴィンに気付かれないようにため息を吐いた。
そもそもハルトヴィンとフロレンティーナは八歳も離れており、しかもフロレンティーナが年上なので、家柄的に釣り合っても婚約者候補としては順番的にかなり後ろの方。むしろあり得ない相手だった筈である。なのにフロレンティーナの元にハルトヴィンが来たのには理由があった。
最有力候補であるブラント侯爵の長女エミーリエとの顔合わせの時に、事件は起きたのだ。
ハルトヴィンが挨拶をした瞬間、絶叫し卒倒したのである。しかも三日程熱を出して寝込み、目を覚ましたかと思えば、ハルトヴィンとの婚約は嫌といって泣きじゃくる。そしてどうしてもというのならブラント侯爵家を出て修道院に行くとまで言い出したのである。
そうなると、挨拶の時にハルトヴィンが何かしたのではという疑いが掛かった。その頃のハルトヴィンは、母親である王妃が弟を生んだばかり。そちらに掛かりきりであった為、構ってもらえない寂しさから、ちょっとした悪戯をしでかしていたのだ。割と有名な話で、誰もが知っている事だった。
大人からしてみれば他愛のない悪戯でも、大事に育てられた令嬢には相当堪えたのかもしれないと、悪戯好きの悪童という噂が王宮に溢れてしまった。いくらハルトヴィンがやっていないと訴えても、誰もがそれを信じない。
そんな状況を良くは思っていなくとも、ハルトヴィンが嫌だと泣くブラント侯爵令嬢がいるわけで、父親である王は対応に困り果てていた。なにせブラント侯爵は娘を溺愛しており、ハルトヴィンとの婚約はあまり乗り気ではなかったのだ。
どうしたものかなと王が手を拱いている間に、ハルトヴィンは人間不信に陥ってしまったようなのだ。今まで元気よく王宮内を走り回っていたのに、それがなくなった。そしてあまり喋らなくなり、表情も変わらなくなっていった。
しかもだ。
ハルトヴィンの変化を心配するどころか、気味が悪いと嫌悪した母親である王妃が、離宮の一室にハルトヴィンを追いやってしまったのである。王が気付いて離宮から連れ出した時には、ハルトヴィンは完全に無表情、反応も薄い子供になってしまっていた。
そんな王子を哀れんだフロレンティーナの父親であるザルツ侯爵が、ハルトヴィンを引き連れて領地へと戻ってきたのだ。
どうせブラント侯爵の娘であるエミーリエとの婚約は、無かったことになってしまっているので、フロレンティーナの婚約者としてならザルツ領で暮らせるだろうというわけで。
どうしたものかしらねぇと、フロレンティーナはカップのお茶を飲みながら思案した。このだいぶ年の離れた婚約者の接し方について、どうするのが正しいのか。
「ねえ、殿下」
ハルトヴィンの顔立ちは整っており、王妃譲りの輝くような金髪で、しかもくるくるとした癖毛なものだから、無表情さと相まってお人形のようである。そんなハルトヴィンは、感情のこもらぬ目で、フロレンティーナを見たのだった。
「ちょっと、一体どういう事よ!!??」
いきなり話しかけられた為、フロレンティーナは食事の手を止めて、何事かしらと顔を上げた。場所は王都のカフェである。知り合いかと思ったが、フロレンティーナは基本的にザルツ領から出ないし、親交のある令嬢は王都に来ているとは聞いていない。そもそも、唐突にこんなふうに話しかけられる事などあり得ない。
視線を向けると、薄紫色の煌めく髪に吊り目がちな女性が、フロレンティーナを睨みつけていた。着ているものを見る限り、裕福な貴族令嬢である事はわかるのだけれども。同年代でもなさそうだしと首を傾げつつ、名前を訊ねた。
「とぼけないで、あなた転生者でしょう!」
「……あの、一体何の事でしょう。人違いをしているのでは……?」
「人違いも何も、アンタがザルツ侯爵令嬢でしょう。その丸く肥えた体」
「まあ、そうですけれども」
フロレンティーナは、その貴族令嬢から指摘された通り、丸く肥えた体の持ち主である。
とはいえそれは、王都の令嬢に比べてのことだ。
ザルツ領ではコルセットでくびれを出した体より、豊満な体こそが尊ばれる。ザルツ領ではそれが、裕福であり繁栄の証と見られるのだ。王都の流行とは真逆である。
王都で社交をするなら痩せていた方が良いかもしれないが、ザルツ領は貿易港があり貴族とではなく王家と直接やりとりする事が多いので、それほど貴族同士の交流を密にするわけにもいかない立場にある。
そして付き合いがあるのは、そういったザルツ領の風土を好む人間たちであるため、フロレンティーナはザルツ領の繁栄の象徴として、コルセットなどを使うこともなかった。
なので王都での社交は、王都に住んでいるザルツ一族の親戚に任せきりである。
そんなフロレンティーナが王都に来ていたのは、それなりの理由があった。
「アンタのせいで、ハルトヴィンが……!」
「……主人がどうかなさったのかしら?」
フロレンティーナが王都に来た理由。
夫であるハルトヴィンの用事に付き合ってのことである。
ハルトヴィンは十五歳になった時に、王都にある貴族の学校の入学通知が届いたのだが、ザルツ領の仕事を手伝っていたため、入学など無理な話であった。ほぼ婿入りが確定し、もう王家には帰らないという契約が取り決められていたからだ。
ただその契約は内々のものでもあったので、余計な火種にならないようにと話し合い、卒業までは領地から定期的にレポートを送り単位を取得することになった。
この国では十八歳が成人とされており、卒業式は成人のお祝いを兼ねている。ハルトヴィンがザルツ領から出されたのは、誕生日が来て十八歳となり、フロレンティーナと婚姻したからである。正式にザルツ家に婿入りしたハルトヴィンには、もはや王位継承権はない。
元々火種なんかなかったが、面倒な人間はそういうところにも火をつけるので、警戒しすぎなくらいがちょうど良い。そういうわけでようやく、ハルトヴィンはフロレンティーナと王都へやってきたのである。
そして初めての王都というわけで、フロレンティーナが素敵なカフェを見つけて楽しんでいたところに、唐突に話しかけられたのであった。
「ところであなたはどなた?」
「……私はっ、私はエミーリエ・ミリアム・ブラントよ」
ああこの方がと、フロレンティーナはまじまじと見た。
彼女の噂は聞いていた。
ハルトヴィンの元婚約者候補、というものだけではない。
様々な事業を手掛け、さらには様々な人々の模範となるべき人物で、彼女こそ聖女ではないかというエピソードが山ほどある。
特に関係のないフロレンティーナは、すごい人もいるものねと思ったくらいだ。ハルトヴィンに至っては、そんなすごい才能を持った人と婚約しなくて良かったとまで言っている。
きっと隣に立ったら、自分の未熟さに嘆いて潰れてしまうだろうとも。その気持ちはわからなくもないので、フロレンティーナはハルトヴィンのために、腕によりをかけて料理を振る舞ったものだ。
それにしてもそんな才女が、なんの用事だろうか。
「あんた、一体ハルトヴィンに何をしたの!?」
「何をとは、本当に先ほどからおっしゃってる事がわからないのですけど」
「卒業式にようやく顔を見せたかと思ったら、あんたと結婚してるだなんて!!!」
「私との婚約は十年前に決まった事ですわ。主人が成人したので結婚しましたけど、そこになんの問題もないのでは?」
首を傾げながらも、フロレンティーナは目の前に置かれたケーキを頬張った。今更、文句を言われてもフロレンティーナにはどうしようもない。
ハルトヴィンとの婚約が惜しくなったのなら、十年前に突っぱねなければよかったのに。
もしくはフロレンティーナと結婚する前に、異議申し立てをすればよかったのに。まあその異議が通るかどうかは知らないけれども。
あらこのケーキ美味しいわ。夫にも食べさせてあげましょうかしらなんて思っていると、ちょっと聞いてるのと怒鳴られた。
さっきからいきなり来て怒鳴ってばかりの彼女は、本当にあのエミーリエ侯爵令嬢なのかと疑ってしまいそうになる。けれどもカフェの外に護衛らしき人物がいるので、高い身分であることは間違い無いだろう。
「なんなのよ、一体どうして! 私は、断罪を回避するために必死で……! なのにどうして!?」
イライラとした様子で、エミーリエはフロレンティーナを睨む。
「どうして、王妃になれないのよ!!!」
現国王の妻になりたい、わけではなさそうだ。なら皇太子殿下の妻になりたいのかしらと、フロレンティーナは思った。
エミーリエがハルトヴィンとの婚約を嫌がった時には、皇太子殿下の婚約者は不在であったけれど。今現在はすでにご結婚されていて、お妃様がいる。友好国から迎えたお姫さまだ。
王家にはハルトヴィン含め男児が四人。第二王子は皇太子殿下が何かあった場合の為に、王宮にとどまって政務を手伝っている。そのうち公爵領を賜るだろう。第三王子であるハルトヴィンは侯爵家に婿入りし、第四王子はそのうち貴族の位を貰い王宮を出ることが決まっている。ザルツ侯爵家がハルトヴィンを婿入りさせているから、王家と貴族の結びつきはある意味強化されたと言えるので、王妃を再び侯爵家から取る必要もない。
それに、だ。
「皇太子殿下が友好国からお妃様を迎え入れたのは、あなたの功績ですわよ」
「どういうことよ!?」
「……おうちの方は誰も教えてくださらなかったのですか? あなたが様々な事業に尽力なされた結果、我がザルツ領は大忙し。新たな輸出先が増え、友好国との強固な協力関係が必須となったのですよ。そうなると一番手っ取り早いのは、王族同士の結婚でしょう」
「……私の、私のせいだっていうの? 私はただ、断罪されるのが嫌だっただけなのよ?」
「その、先ほどから言われている断罪とは、どういう事でしょうかしら」
エミーリエの話を聞くと、彼女は未来で一度死に、そして目が覚めたら八歳に戻っていたのだという。それとともに、この世界とは別の世界で生きていた記憶、というものを手に入れたのだとか。
「気が付いたら、八歳に戻っていたの。……だから、だから、断罪されるなんて嫌だった。絶対に回避したかったから、婚約をしないように必死でお願いしたの」
それはあの、ハルトヴィンがザルツ領へ引き取られるきっかけとなった事件のことだろうか。
「私は、その断罪を回避さえすれば、優秀さを見せつけていれば、……皇太子殿下と結ばれるはずだったのに」
「なぜそうなるのです。そもそも、あなたのそれが本当の事であったというのなら、冷遇された時点でご両親に相談なさったらよろしいでしょうに。あなたへの過度な甘やかしは、どこでも有名でしょう。まさか気付いていらっしゃらないの?」
「だって、あの時は、お父様に迷惑をかけちゃいけないかと思ってたのよ」
「結婚直前に婚約破棄を突きつけられる方が迷惑でしょう。それから、子爵令嬢の方にハルトヴィンが懸想されるそうですけど」
フロレンティーナはため息をひとつ吐いて、エミーリエに訊ねた。
「あなた、婚約者との仲を深めるのに、一体どのような努力をなさったの?」
「……それは、淑女として模範となるように、それから、領地経営について学んで、他にもハルトヴィンの力になれるように、有益な者たちとの交友を……」
「私は、婚約者との仲を深めることについて聞いたのだけれど」
「だから言ったでしょう!」
フロレンティーナは呆れた表情を取り繕うこともなく、エミーリエを見た。
「あなた、それ本気で言っているのだったら、少し問題がおありなのでは? 親しくなるには、そんなこと必要ないでしょう。その断罪されるとかいうあなたのお話の中で、ハルトヴィンとはどのような会話をされたの? 好きなものは訊ねた? 一緒に出掛けたりされたの? ねえ、一度たりとも、ご自分の気持ちや考えを、伝えたのかしら?」
「……それは」
伝えなかったんでしょうねと、フロレンティーナは思った。
自分はこんなに努力しているのだから理解しろと、そう相手に押し付けている節がある。だからエミーリエは、自身の優秀さを見せつければ、たいして面識のない皇太子が求婚してくるだろうという妄想を抱いたのだろう。
優秀なのも、結婚したいのも、悪いことじゃないけれど。
そもそもの努力の方向性が間違っているわねと、そう思った。
彼女のいうことが本当なら、最初の人生も、今回も。
「私、彼とは八歳も離れているから、いつも思いやりを持って接しているのです。私には特別な才能もございませんけど、それこそが、一番大事ではございませんこと?」
エミーリエの断罪とかいうものが本当なら、婚約破棄というものだけならば。そうなるまで耐え忍ぶ必要などどこにもないというのに。
彼女は彼女を愛する両親にすら、何も話さなかったことになる。
黙っていては、何もわからないのにね。
「まあ私は失礼致しますわ。あなたのお話は面白いかもしれませんけれど、私は興味ありませんので」
待ちなさいよと叫ぶエミーリエを無視して、フロレンティーナは店を出た。
日傘をさして歩きながら、フロレンティーナはハルトヴィンと出会った時のことを思い浮かべる。
ザルツ侯爵家のガゼボで対面したあの時。
お人形のようなハルトヴィンに話し掛けても、ろくな反応はなかった。けれどもハルトヴィンの事情を聞いていたし、子供にあまり求めるものではないわねと思っていた。
だから殊更優しく話しかけてあげたのだ。
「殿下のお好きな食べ物はなんですか?」
「……?」
首を傾げてフロレンティーナを見上げてくるが、それだけだ。
「甘いものはお好き? 私はこの胡桃と種子類をパイ生地で包んで焼いたものに、さらに蜂蜜とお砂糖をたっぷりかけて、さらにスパイスが効いてるこのお菓子が今のお気に入りでしてよ。一口食べるだけで、こう天上の世界に舞い上がるかのような気分になってしまいますわ」
ザルツ領は貿易港があり、様々な食材が集まる宝庫である。フロレンティーナは令嬢でありながら料理上手で、自身でも食べるのが大好きな娘であった。なので今日のこの顔合わせのお茶会は、フロレンティーナがすべて作ったものである。
「甘いものがあまりお好きでないなら、フルーツは? それともお肉? お魚?」
「……あっ、あの」
「はい、なんでございましょう?」
「ぼ、僕は、マナーが出来ていませんから…、見苦しい食べ方しか……」
「ふふふ、ここでのマナーは、美味しいものを美味しいと言って食べる事ですわ。さあどうぞ」
ハルトヴィンはそれでも遠慮がちに、小さな焼き菓子に手を伸ばし、小さな口でモゴモゴと食べ始めた。そしてほんの少しだけ目が開き、頬が赤くなって、美味しいと小さな声で溢したのである。
まあ、なんて愛らしいの。
フロレンティーナは人が美味しそうに食べているのを見るのが、大好きだった。
だからハルトヴィンがもっともっと元気になって、美味しそうに笑って食べてくれれば良いなと思った。
なのでそれからというもの、フロレンティーナは塞ぎ込みがちなハルトヴィンの手を引いて、港町で食べ歩きしたり食材を山程買っている姿が度々目撃されたのだった。
そうして、愛らしいお人形のようだったハルトヴィンは成長し、 ザルツ領の豪快な人々、特に船乗りたちに揉まれて、今や立派な青年となった。
「フラン! さっき君が好きそうなお菓子のお店を見つけたんだ、一緒に行こうよ」
健康的な日に焼けた肌に、バキバキに割れた腹筋、たくましい上腕二頭筋。
豪快な言葉遣いなのに、笑顔が爽やかな、魅力的な海の男となっていた。繊細だった頃の面影は、もはやどこにもない。
子供の頃のハルトヴィンを知る身としては、全くの別人である。もしかしてエミーリエは、それで文句を言ってきたのかしら。
フロレンティーナを見つけると、満面の笑みを浮かべ手を振りながら嬉しそうに駆け寄ってくる姿は、大型犬のようにしか見えない。
「まあありがとう、貴方。いつも私の為に、とても嬉しいわ」
「君の為ならいくらでも喜んで探すさ。……ここのカフェ、気に入らなかったの?」
「ええ、ちょっとうるさい客がいたので。味は美味しかったわ。今度一緒にいきましょうね」
「うん!」
年下の夫と仲良く手を繋いで王都の街を歩くフロレンティーナにとって、エミーリエの話など本当に興味はなかった。
何せ愛らしい年下の夫の心を繋ぎ止めておくために、美味しい料理や甘い言葉など、彼を愛するということで忙しかったので。