第1話 エモさと眠さ
通りを挟んで反対側には独身寮が建っている。そこの住民であろう若い男は、いつも外に出て電話をする習慣があった。おそらく独身寮が安普請で、室内だと話が丸聞こえなのだろう。
男は日本語ではない言葉を話していた。顔つきや言葉のイントネーションから、東南アジア系の出身と推察。マイクをスピーカーにして、何やら楽しげに話し込んでいる。男の声もそうだが、このスピーカーからの声がまあやかましい。
なにやらまくし立てるような勢いのある喋りで、映画や舞台の登場人物ならまだ絵になるが、それが電話越しにスピーカーからひたすら垂れ流されるとなると話が違ってくる。
電話をする時間も、時差の関係なのか日付を跨ぐ辺りから始まることが多い。次の日が仕事の時はたまったものではなく、何度か外へ出て直接注意しに行った事があるくらいだ。
その日もいつものように夜遅くから電話で話し始め、本人と、相手のスピーカー越しの声をやかましく思いながら、ベッドの上でのんびりと過ごしていた。
最初は、ただいつもより盛り上がっているなとしか感じなかったが、よくよく聞くといつもの声とは違うものが混ざっている。耳をそば立てると、小さな子どもの声、年老いた女性のしわがれ声、そのほか複数人の雑多な話声が聞こえる。
「なんだなんだ、母国の家族とでも話しているのか?」
なんてぼんやりと思いながら聞いていたが、ふと置き時計に目をやると午前1時半を回っていた。さすがに注意しに行こう重い腰を上げ、玄関扉を開いて通りまで出ると、俺が想像していた場所より幾分目線が下になる辺りに電話の男の姿を見て取った。
男は地べたに膝をつき、さらには両手も肘から先を地面にしっかりを付けながら、かつ頭を垂れている状態……他国に“土下座”という概念があるのか分からないから持って回ったような表現になったが、いわばそれに近いような体勢を取っていた。
両手の先にはスマホが置かれ、そこからは先ほどからのやかましい人達の声がスピーカーで垂れ流されている。男は土下座のような姿勢のまま、何やら金切り声のようなものを発している。
暗がりで当初は見えていなかったが、目が慣れてくるとなにやら男の頭がある辺りの地べたが濡れている。もしかして、泣いているのか?
スマホからはスピーカー越しのぎやかな声が一時的に消え、少し威厳のある低い声が聞こえていた。異国の言葉で意味は全く分からないが、滔々と話す声と男が小刻みに頷く様子で何となく諭されているような印象だ。
俺が困惑したまま男の様子を見下ろしていると、彼はおもむろに上半身をあげ膝立ちの状態になった。かと思えばいきなり両手を真横に広げて、体を再度地べたの方に倒した。
「パパ! パパ!」
男は、まるでスマホの向こうにいる相手を抱きしめるみたいに地面を抱いたまま、そう叫んでいた。スピーカーからも、何やら感極まった声が聞こえてる。何やら感動の瞬間がそこでは繰り広げられているようだった。
あまりに素っ頓狂な一部始終を目にして、注意することすら忘れてそのまま立ち尽くしていた。
「アンタらはエモいかもしれないけどこっちは眠いよ」
この状況をどう解釈していいのか分からないまま、俺は頭の中でとりあえずそう突っ込んだ。しばらくして部屋に戻り、再び置時計に目をやると、針は午前3時過ぎを指していた。