(9)
かわしきれなかった。カルパの槍がかすめた頬がザシュッと切れ、遅れて痛みがくる。
「ソール、大丈夫か!?」
駆け寄るカルパに「ああ」とうなずき手でぬぐうと、けっこうな量の血がついていた。周りの反応からもかなりの傷らしい。
「治療室へ行ってこい。それから、この時間はもうここへ戻ってこなくていい」
父でもあるピュール・ドムス教官がそっけなく指示する。今日何度怒鳴られても集中力が欠けたままだった自分に、ついに見切りをつけたようだ。
「ソール……」
「悪い。後は任せた」
心配そうなカルパに告げ、ソールは「すみませんでした」と父に頭を下げてから闘技場を出た。
一人になったとたん、力が抜ける。ほっと息をついたものの、しばらく動けなかった。
父は息子だからと特別厳しくもしないし、甘くもない。他の生徒と同じようにほめ、同じように叱る。その一貫した態度をソールは尊敬していた。平等にというのは、実践しようとすると案外難しい。
ディックたちには試合前どれだけ嫌なことを言われても揺らがなかったのに、ずっと脳裏にちらついているリリーはどうしても消すことができない。抑制の仕方がわからないのだ。
今朝、登校時に姿を見たものの、リリーはふり返ることなくキルクルスと去ってしまった。とても声をかける勇気はなかったのでよかったが、明らかに避けられているのが悲しかった。
リリーを傷つけたのは自分なのに、ずいぶん勝手だと思う。
本心を偽れば偽るほど、距離が遠くなる。カーフの谷から連れ帰った小鳥も、リリーも。
まだ玉を持っていないのは自分とオルトだけだから、もしこれが試練なのだとしたら、この苦しみに耐えれば玉を手に入れることができるのかもしれない。
だが、別名『幸福の地』と呼ばれている虹の森に無事行き着いたとして、そこで得られる幸せがリリーから向けられる好意より価値があるとは、今は思えなかった。
翌日の昼休憩が終わる時分、ケローネー教官からの配布物を水の法専攻一回生に渡していたセピアは、漏れてきた内緒話にリリーとソールの名前があったことに反応した。
「何の話?」
尋ねたセピアに同専攻の女生徒たちは「あ、ううん、何でも……」とごまかしてから互いを見合い、すすっと寄ってきた。
「ねえ、セピア。リリーがソールに振られたって本当なの?」
「…………は?」
唖然としたセピアに、「ほら、やっぱり違うんじゃない?」「え、でもキルクルスと話してるのを見た人がいるって……」と二人が言い合う。それにつられて他の生徒も集まってきた。
「僕も聞いた。ずっとセピアに確認したかったんだけど、切り出しにくくて」
副代表のトニー・ソワフの言葉に皆がうなずく。
「……ちょっと待って。何よそれ」
「セピアが知らないなら嘘かなあ」
「なんかね、リリーがソールに振られて、放課後にキルクルスと抱き合ってたんだって」
「接吻もしてたって」
誰もがしゃべりたくてうずうずしていたのか、だんだん声が大きくなる。わんわんと耳に響く内容がまったく頭に入ってこず、セピアが呆然としていたところで、予鈴が鳴った。
これから大会堂でダンスの練習だが、それどころではない。
確かにリリーは元気がなかった。無理やり笑顔を見せているといった感じで、食欲もなさそうなのが気にはなっていたものの、神法学科一回生の代表者たちは休み時間も学院祭の準備に追われていて、リリーだけでなくレオンやルテウスとも打ち合わせ以外ではほとんど話す時間がなかったのだ。
武闘学科生も同様に、交流戦の配属希望のとりまとめなど慌ただしくしているので、三人とは顔を合わせていない。その、接触の薄い時期を狙いすましたかのような衝撃的な噂に、セピアはすぐさま大会堂へ向かった。
もうけっこうな人数が集まっていたが、リリーの姿はない。しかし風の法専攻生はいて、レオンとルテウスがエラルドと話していた。
セピアが加わると、レオンがにこりともせず言った。
「その様子だと、セピアも聞いたみたいだね」
「リリーはどこ?」
そういえばキルクルスもいない。
「一度はここへ来たんだけど、みんなにじろじろ見られるのが耐えられなかったみたいで、気分が悪いから治療室に行くって……キルクルスが付き添って出ていったんだ」
エラルドが心配そうな顔で答える。
「あの噂、本当なの?」
「僕が悪いんだ」
セピアの追及にエラルドはうつむいた。
「エラルドが最初のダンスの相手を交換しないかってソールに持ちかけたんだけど、ソールは断ったらしい。それを聞いていたリリーがソールを追いかけていったそうだよ」
レオンの補足にセピアは首をかしげた。
「まさか、それが真相なの?」
確かにリリーは傷ついたかもしれないが、それだけで『振られた』とここまで騒ぎになるだろうか。
「わからない。ただ、噂の出どころがまだつかめていないんだ。僕がチュリブから聞いたのは、放課後にリリーがキルクルスに、ソールに振られたからなぐさめてと言って抱き着いて誘惑してたって」
「あり得ないな。逆ならまだしも」とルテウスもうなる。
「……リリーに確認しなきゃ」
セピアはこぶしを口に当ててつぶやいた。リリーとソールのやりとりについては具体的に伝わってきていない。つまり、二人が何を話したか誰も知らないのだ。
ダンスの件ではなく、もし本当に告白して拒まれたのだとしたら――。
そのときざわめきが広がった。ソールが大会堂に入ってきたのだ。
ソールは自分が注目されていることに気づいたようで、びくりと肩を揺らした。それからセピアたちを見つけて気まずげな様子になり、さらに一度周辺を見回して表情をくもらせた。
黄赤色の双眸は明らかに誰かを捜していた。おそらく、リリーを。
隣のカルパにうながされ、ソールがようやく隅に移動していく。たくさんの視線がソールの動きをたどるのにあわせ、セピアも踏み出そうとしたが、そこで本鈴が鳴り、教官が現れた。
ダンスの練習は二回目なので、カルタ教官の説明も短い。今日は先走る生徒はいなかったが、噂のせいで全体的に落ち着きがなかった。そして自由行動になったところで、オルトがいないと女生徒たちがわめきだした。
場が騒然となる中、セピアは大会堂の扉が開くのを目にした。リリーに付き添っていたはずのキルクルスはカルタ教官のもとへ行き、言葉を交わしてからセピアたちのほうへこそっとやってきた。
「キル、リリーは?」
「早退したよ。オルトが家まで送るって」
「え、それまずくない?」
皆に知られたらますますこじれそうだとレオンが眉根を寄せる。
「僕が一緒に行くって言ったのに、オルトが譲らなかったんだよ」とキルクルスはため息をついた。
セピアとレオンとルテウスはキルクルスを連れ、大会堂の端で小さな輪を作った。あちこちから刺さる視線を無視し、今日は踊らないという空気を全員で醸し出す。
フォルマは四人をちらりと見たものの、レオンに目で合図されてうなずき、寄ってこなかった。代わりに最初のダンスを踊るソールに声をかけ、二人で練習に入る。周囲の詰問を回避できるからか、ソールも幾分ほっとした容相をしていた。
「いったい何があったの? なんかとんでもない噂が飛びかってるんだけど」
念のため声を落として尋ねるセピアに、「一つずつ話すよ」とキルクルスは言った。
「まず、リリーがソールに告白して振られたのは事実だ」
悲鳴を飲み込むセピアの隣で、レオンが頭をかかえた。
「なんでそんなことに? 誰が見てもあの二人は両想いじゃないか」
「……あいつ、まさかオルトに遠慮したってことはないよな」
ルテウスの意見にセピアははっとした。
「それだわ。そうとしか考えられない」
冒険中に盗み聞きしたこと、そして模擬戦前にソールが語ったことをセピアが報告すると、レオンとルテウスは宙に向かって嘆息した。
「いくらソールが仲間内で一番の気づかいの人でも、そこまで我慢する必要がある?」
「さすがに優しいのを通り越して異常だろう」
二人とも手厳しいが、セピアも同感だった。先に好きになったのはオルトでも、大事なのはリリーがどちらを選ぶかではないのか。間違いなく相思相愛なのにわざわざ自分の気持ちを殺すソールが理解できないと憤ったセピアはふと思いついた。
「ちょっと待って。ソールの試練が始まった可能性は?」
三人からの視線を受け、キルクルスは唇を引き結んだ。
「ソールだけじゃないかもしれない」
「オルトも同時ってこと?」
セピアたちは瞠目した。
「オルトもそうなら、オルトが乗り越えるべきものは何となく想像がつくけど、ソールはやっぱり謎だわ」
「後でカルパに聞いてみようか。彼なら何か知ってるかも」
レオンの提案にセピアとルテウスはうなずいた。
「じゃあこれはひとまず置いといて、キルがリリーから話を聞いたのはいつ?」
セピアの質問に「昨日だよ」とキルクルスは答えた。
「あのときリリーが先に帰ったって言ったのは嘘なんだ。ごめん。リリーが一日ずっと頑張って『普通に』過ごしてるのを横で見てたから、僕一人で声をかけた。あまり大勢だとリリーも弱音を吐けないと思って」
確かに、こんな大事なことをリリーに真っ先に話してもらえなかったことは残念だし悔しいけれど、それでよかったのかもしれないとセピアは考え直した。もし相談されれば冷静に受けとめ切れず、すぐさまソールのもとへ乗り込んでいっただろう。
「泣いてるリリーに肩を貸してなぐさめたんだけど、どうもあのとき誰かがのぞいてたみたいなんだよね」
帰るとき、隣の教室に隠れている気配がいくつかしたからとキルクルスが腕組をする。
「肩を貸して? 抱きしめたんじゃないのね?」
「……見方によるかな」
ほんの少し逃げ腰のキルクルスをセピアは半目で見つめた。いつも人目を気にせずリリーにしがみついているキルクルスなら、自分から抱き寄せるくらいのことはしそうだ。
「接吻したっていう話もあがってるけど」
レオンの追及に「それは誓ってしてない」と今度はきっぱりとキルクルスは否定した。すきがあればしたかったけど、と余計な一言も添えて。
「じゃあ、その人たちが噂をばらまいたのね」
傷心をかかえ一人で耐えていたリリーに追い打ちをかけた人間をセピアは許せなかった。これほど噂が広まっていると知れば、リリーが大会堂から逃げたのも納得できる。
いつも誰からも容姿をほめそやされるリリーがうらやましかった。でも、その裏では必ず悪意も増殖していた。欠点や非を探してあげつらおうと躍起になっている者は決して少なくない。はたから見れば恵まれているリリーが不幸な目にあって泣くのを喜びたいのだ。
今回もきっと、リリーによくない感情をもつ生徒の仕業ではないかとセピアは予想した。ただ正直なところ、当てはまる存在が多くて絞れない。
わがままも言わないし、人を見下すこともない。ほんの少し警戒心が強くて、慣れた相手にはよく笑い、よくしゃべる。かわいいのに気取らないところが魅力で――だからこそ自分も嫉妬したのだ。どう頑張ってもリリーにはかなわなかったから。
苦しさに悩んであふれた憎しみの底にあったのは、大好きという想いだった。爆発したことで再確認できた、大切なものだ。
オルトもきっと自分と同じつらさを味わうのだろう。距離が近いだけに、気持ちの整理をつけるのは本当に難しい。
それでも、吹っ切れてしまえば楽になる。一度平らにしたところから新しい感情が芽生えることもあるからと、セピアはルテウスを横目に見た。今度も手ごわい相手ではあるけれど、と胸の内で小さく笑う。
リリーもオルトも、自分にとってはかけがえのない幼馴染だ。二人とも必ず救い出してみせる。
まずはダンスの練習が終わったらカルパを捕まえよう。ソールを励ますか一発殴るかは事情がわかってからだとセピアが視線を巡らせると、マイカと一緒にいるカルパと目があった。
マイカは変わったとリリーは言っていた。先日も昼食をともにしたがとても楽しかったと。そのマイカは真顔でカルパに何かささやき、カルパはこちらを見ながらうなずいている。どうやら向こうも話があるようだ。
今日はダンスの練習をしている生徒は少なめだった。リリーとオルトはいないし、ソールはフォルマと踊っているので、みんなつまらなそうな顔をしている。
オルトはキルクルスとリリーが治療室に行く途中で会ったという。顔色の悪いリリーを心配してついてきたオルトは、リリーが帰宅を選択すると自分が送るといってきかなかったらしい。
もしこれがばれたら、レオンの言うとおりリリーの立場がますます悪くなる。盲目的なかまい方はオルトに余裕がない証拠だと今ならわかる。ソールに渡したくないとあせるあまりおかしな方向に進まなければいいがと、セピアはふうと息をついた。
だらだら過ごす生徒が多すぎたせいか、教官たちがついに注意して回りはじめた。面倒臭いならもうダンスの練習はいっさいしないとドムス教官が怒鳴ると、慌てて皆がそのへんの相手と組んで踊りだし、セピアも練習しようとルテウスを誘った。レオンもチュリブのもとへ行き、キルクルスは飛びついてきた生徒をやはり男女問わず受け入れていた。
そしてどうにか練習を終えて解散したとたん、セピアはカルパを探した。ソールのそばにいるかと思ったが、カルパは一人でセピアのもとへ来た。
「人目につかないところのほうがいいかな」
「ああ、ソールにはマイカとちょっと話してくるって言って別れたんだ」
大会堂を出たセピアとカルパは人波からはずれ、大会堂の脇へと移動した。
「カルパ、マイカとずいぶん仲がいいんだね」
セピアの指摘にカルパの顔が赤くなった。これはまさかとつつきかけたセピアを「それより」ととめ、カルパは周囲を確認してから話しだした。
「俺も噂を聞いてびっくりして、ソールを問い詰めたんだ。このところソールの様子がおかしかったのはこれが原因かと納得したけど……いや、全然納得できないんだけどさ。まさかリリーを振るなんて」
そこへレオンとルテウス、そして今度はフォルマも合流した。
「ソール、どうだった? 練習のとき何か言ってた?」
セピアが尋ねると、フォルマはかぶりを振った。
「特に何も。触れてほしくなさそうだったから、当たり障りのない話をしながら踊ったよ」
気持ちは完全によそに飛んでいるのにダンスは一度も間違えなかったのはさすがだよねと、フォルマが苦笑する。
「で、カルパはどうしてソールがリリーを振ったのか心当たりはある?」
レオンの問いかけに、カルパは赤い髪をぼりぼりかいた。
「あいつ、母親のことをまだ引きずってるんだと思う」
カルパはソールの母親が亡くなった経緯を皆に説明した。ソールが誕生日の贈り物に弟を望んだこと、それをかなえようと頑張って両親は子供をつくったが、もともと体が丈夫ではなかった母親は難産に耐えきれず、母子ともに亡くなってしまったこと、それをソールが自分のせいだと責め続けていること。
「あいつは、ドムス先生とペイアから母親を取り上げてしまったって思い込んでて……だからもう二度と、誰かが大切にしている人間を奪いたくないって言ってた」
「……つまり、たとえ自分の好きな人でも、先に想っている人がいたら譲るってこと?」
セピアの確認にカルパはうなずいた。
「馬鹿だね」
レオンがあきれ顔でため息をつく。
「そういえばあいつ、『死者の日』に小屋を飛び出していったよな」
ルテウスのつぶやきにセピアも思い起こした。ずっと窓外を眺めていたソールが急に出ていったから慌てたのだ。あのときはキルクルスが無事にソールを連れ帰ってくれたので助かったが。
急に死に別れた場合よくあることだとキルクルスは言っていた。ソールはずっと母親に会いたかったのかもしれない。会って、伝えたいことがあったのだろうか。
「これ、解決できるのかな」
死者が絡むなら、またキルクルスに頼まないといけないのではないかとレオンがぼやく。
「それと噂の出どころなんだが、マイカの話ではどうやら教養学科生らしい」
リリーが教養学科に在籍していた頃に一緒にいた生徒が、リリーとキルクルスのやり取りを目撃して皆にばらまいたのだという。
「少し前までマイカも行動をともにしていた連中だそうだ。模擬戦の日、リリーに詰め寄って階段を踏み外させたって」
セピアは顔をしかめた。疑わしい有力候補に入れていたが、大当たりだったようだ。
よりによって一番やっかいな人たちに見られてしまったなと、セピアは額を押さえた。
「わかった、ありがとうカルパ」
後はこちらで対処するわとセピアはお礼を言った。
「頼む。あいつの忍耐力が並でないのは俺もよく知ってるんだが、こんなことに発揮してほしくないんだ。演習でも俺の攻撃をかわせないくらいぼんやりしてて、振った本人があんな状態だなんておかしいだろう」
もうこれ以上、しなくていい我慢をさせたくないと言って、カルパは去っていった。
「どうする?」
レオンがセピアをかえりみる。
「とりあえず、ソールの意識を変えないとだめよね。本人が作り上げた呪縛を解かなきゃ進めないわ」
「今のところ説得に説得を重ねるしかできることはなさそうだが」
「やるしかないわ。こうなったら、ソールがうんざりするくらい毎日張り付いてくどくど説教してやる」
胸の前でこぶしをにぎるセピアにレオンが苦笑した。
「障害はオルトなんだから、決闘でもさせればいいんじゃない?」
「勝敗がつくのか? あの二人、いまだに引き分けてるだろう。というか、オルトはリリーに自分の気持ちを伝えていないのか?」
首をかしげるルテウスにセピアも言いよどんだ。
「それなんだよね……オルトがあれだけあからさまに態度に出してるのに、リリーは気づいてないの」
だからオルトもはっきり告げることができないのだろう。露骨に匂わせても察知してくれないということは、リリー自身がオルトを異性として意識していないからだ。
「オルトも気の毒といえば気の毒だね」
長く一緒に過ごしてきた幼馴染という関係が壁になっているみたいなものだから、とレオンが肩をすくめる。
ソールの母親のことはまたキルクルスに相談しようと決め、四人は下校した。
足音が遠ざかってから、大会堂の内側で壁にもたれて会話を聞いていたピュール・ドムス教官は、かがみ込んで足元の小窓を閉めた。
「ピュールさん、こっち終わりました」
反対側の窓を確認していたトルノス・カルタ教官がやってくる。ようやく『大地の女神が微笑む月』に入り、朝晩は涼しくなったが、日中はまだまだ暑い。こんなときに大会堂に大勢が集まってダンスの練習などすれば倒れてしまう生徒もいるので、面倒でも全部の窓を開けておかなければならない。
「ああ、あとは俺がする。ご苦労さん」
「じゃあお願いします。お疲れ様でした」
トルノスが笑顔で先に出ていく。ピュールは自分の担当側だった窓をすべて閉め、念のために一度大会堂内をざっと見回ってから、出入口の扉の鍵を閉めた。
気晴らしに寄り道するかと誘われたが、リリーはかぶりを振った。ただ早く家に帰って休みたかった。
朝、登校してからちらちら見られている気配はあったものの、まさか自分の失恋が知れ渡っているとは思わなかった。
エラルドは誰にもしゃべっていないという。ソールとキルクルスも自分から漏らすとは考えにくい。となるとキルクルスになぐさめられた日、誰かがこっそり見ていてばらしたのだ。
昼休憩のときにはもうはっきりと自分の耳にも届くようになった。すれ違いざまに「自分が振られるわけないって思いあがってたんだって」「いい気味よね」と馬鹿にされ、嗤われた。だから午後からのダンス練習に行くのが怖かったが、自分を気づかって何も聞かない同専攻生に囲まれる形で向かった。
大会堂に入ったとたん、その場にいた生徒がいっせいにふり返った。そしていたるところで内緒話をし、くすくす笑う声がさざなみのように広がっていくのを目にし、限界に達したのだ。
治療室へはキルクルスが付き添ってくれた。ソールに振られてすぐキルクルスにすり寄ったと悪し様にささやかれていたので申し訳なかったが、キルクルスは全然気にしていなかった。「このまま僕たちの仲を認めさせようよ」とにんまりされ、その明るさに凝り固まっていた心身が少しほぐれかけたとき、オルトが来た。
オルトも噂を聞いたようで自分を捜していたらしい。そして具合が悪いので治療室に行くと告げるとついてきた。今日はもうダンスの練習しかないので、ケローネー教官に早退の許可をもらって一足先に下校することにしたら、自分をどちらが送るかでキルクルスとオルトが揉めた。今度はオルトまで噂になりそうだからと断ったのに、オルトに押し切られた。
仕方なく、人目に触れないよう一回生の集団が大会堂に消えるのを待ってから学院を出たが、オルトと話す気にはなれなかった。思考がぐるぐる回って結局ぼうっとしていたリリーは、同じく無言で隣を歩いていたオルトのぼそりとした問いかけに我に返った。
「ソールのどこが好きなんだ」
『だった』と聞かないあたり、オルトはまだ自分の想いが継続中だと判断したらしい。
「いろいろあるけど……気がついたら好きになってたって感じかな」
オルトとこんな話をするのは初めてだからか、違和感があった。
「まだまだ一緒に冒険するのに、気まずくなっちゃった」
無理やり笑おうとして中途半端になり、リリーはそのままうつむいた。本当に、なんて馬鹿なことをしてしまったのだろうと後悔しかない。
受けとめてもらえるかもとどこかで期待していたから、悪口はよけいに刺さった。ソールの優しさを履き違えて、ソールにも迷惑をかけてしまった。
「噂なんてそのうち消える」
オルトは前を向いていた。付き添いを強引に決めてしまったのでもっとあれこれ言われるかと警戒していたが、オルトも口にする言葉を選んでいるのだと気づき、リリーは「うん」とようやく少し顔をほころばせた。
それからは家に着くまでぽつぽつと話した。誰も傷つけない、たわいない内容でゆるゆると間をつないだ。
家の門柱を過ぎようとしたとき、不意に腕をつかまれた。
「オルト?」
「……ソールじゃないとだめか?」
真剣な、差し迫った様子で尋ねられ、リリーはとまどった。
「ソール以外に目を向けられないか?」
「……どうかな。いつかは……でも今はまだ、先のことは考えられないから」
きっとそのうち、何も感じなくなるはずだ。告白した事実は消えなくても、告白前のような親しさには戻りたい。このまま関係を断ち切る選択は頭になかった。
「ごめんね、心配かけて。送ってくれてありがとう」
ゆるんだオルトの手からするりと抜け、リリーはオルトと向き合った。
「明日は、今日よりもっと平気になってると思うから」
日にち薬だと微笑すると、オルトは何か言いかけた口を閉じ、「また明日な」と言って去っていった。
次回投稿は水曜以降の予定です。






