(5)
昼食後、ロードン教官から一回生に配布する課題の紙を受け取ったリリーは、午後最初の授業である植物学教室へ向かっていたところで、階段を下りてくるソールとカルパに出会った。
今日は朝から模擬戦があったし、昼食は別々に食べたので、まだ一度も話をしていない。正面から視線があい、ドキリとして足をとめたリリーに、ソールより先にカルパが手を振った。
「リリー、お疲れ。なんか、大活躍だったみたいだな」
カルパはソールとは別の隊にいたので、リリーの法術を直接見ていない。後で聞いたというカルパは悔しさと尊敬のにじんだ笑みを浮かべていた。
「模擬戦の結果より、リリーの噂でもちきりだぞ。俺たちに協力してくれた炎の法専攻三回生副代表も、完敗だってしょげてた」
自分のことが話題になっているのは知っている。模擬戦が終わってから、たくさんの人に囲まれたのだ。
風の法専攻生の立場向上に貢献してくれたと同専攻生たちからは感謝されたものの、風の法は恐ろしいという印象もまた少なからず与えてしまったようで、中には警戒心丸出しで遠巻きにする生徒もいた。たいした威力がないと今まで見下していた法術が実はそうではなかったという驚きが、恐怖を引き起こしてしまったらしい。
防御のための『砦の法』は全力でいったが、『嵐の法』は手加減したのだとは言えなかった。三回生ならまだしも、一回生で出すにはあれでも強力すぎたと気づいたが、もう遅い。
「……ちょっと、頑張りすぎちゃった……かも」
冒険仲間はそろいもそろって優秀だから、自分が飛び抜けているという自覚はなかった。でも学院内では悪目立ちすることもあると意識したほうがいい。
居心地の悪さをごまかすように笑い、リリーが二人と別れて数段上がったとき、「あ、リリー!」と上から声が降ってきた。
かつて教養学科で友達だった女生徒たちだ。マイカもいる。魔物の襲撃事件以降、ずっと疎遠になっていたはずなのに、彼女たちは「久しぶりーっ」とにこやかに近づいてきた。
「模擬戦見たわ。リリー、すごいね。みんなほめてたよ」
「あ、うん……」
たじろぐリリーを見て、「ねえ、やめようよ」とマイカが友人たちの袖を引いてとめている。しかし同期生たちはますますリリーに詰め寄った。
「あんなに優秀なら、最初から神法学科に行けばよかったのに」
「教養学科にいた時間がもったいなかったんじゃない?」
「私たちとは格が違うって感じ」
「だよね。私たちはリリーみたいな才能はないし」
称賛ではない。目が笑っていない。
「リリー、相変わらずオルトと仲いいのね。同じ隊だったし」
「まさか自分から売り込んだの?」
「えー、リリーはそんな自信家じゃないわよねえ?」
「でもなんだか騎士に守られるお姫様って感じだったよね」
「上から見下ろすって、気分がよかったでしょうね」
一つ一つが心をえぐるようで、リリーは唇を引き結んだ。
何も変わっていない。距離をとっても、壊れた関係は勝手に修復などされないのだ。
たまらずうつむいたリリーはつい後ずさり、階段を踏み外した。
課題の紙が舞う中、周囲で悲鳴があがる。ぐらりとあおむけで倒れるリリーを背後から支えたのはソールだった。
落下の勢いをとめようとリリーを抱き寄せながら手すりをつかむ。踏ん張ったはずみで体が回転し、ソールは背中と腰を手すりに打ちつけたが、それでもリリーを放さなかった。
どうにか階段を転げ落ちるのを免れたリリーは、耳に触れたソールの安堵の息に混ざる痛みを感じ取り、自分の状況を理解した。
「ソール!? ごめん、大丈夫?」
慌てて抱擁を逃れてソールをふり返る。「心配ない」と答えるソールの顔はけわしい半面、なぜか惜しげな色を浮かべていた。
「わ、私たちは何もしてないわよ」
「リリーが勝手に落ちたんだから」
言い訳とともに逃げていく足音にかまわず、リリーはソールの腕にそっと触れた。
「歩ける? 治療室に行かないと」
リリーがうながすと、ソールはのろのろとついてきた。浅い呼吸を繰り返しているので、相当痛いのだろう。
自分のせいでソールにけがを負わせてしまった。幾多のざわめきと視線にさらされ、泣きそうになるのをこらえながら、リリーは治療室までソールに付き添った。
今日の治療室の当番は運よくセピアだった。セピアは治療ではなく雑談目的で来ていた男子生徒を追い出し、すぐにソールの手当てをおこなった。
「――はい、これでもう大丈夫よ」
腫れかけていた背中と腰が癒え、「すまん」とソールが長大息をつく。隣で縮こまっていたリリーもようやく肩の力を抜いた。
「いったい何があったの?」
ソールの名前を来室記録に書いたセピアがかえりみる。リリーは一度目を伏せてから説明した。教養学科にいた頃に友達だった人たちに話しかけられ、動揺して足を滑らせてしまったところをソールに助けられたのだと。
「あー、あの人たちね。まだオルトを追い回してるそうだから、きっとオルトのいる隊にリリーが参加したのが気に入らなくて、嫌なことを言ってきたんでしょ」
情報通のセピアは、すでにリリーへの陰口を耳にしていたらしい。本当に懲りないよねと怒り顔のセピアに、リリーは少し救われた。それでもソールを巻き込んでしまったことには変わりない。申し訳なくて謝罪したリリーに、ソールは微笑した。
「気にするな。たまたま後ろにいただけだ」
お前一人を捕まえるくらい訳ないと、本当に何でもないことのように言われ、鼓動が速まる。
「そうだよ、ソールがいなかったら、リリーは大けがしてたかもしれないじゃない」
ここはあやまるのではなくお礼だよとセピアに勧められ、リリーはうなずいた。
「うん。助けてくれてありがとう、ソール」
しっかり目をあわせて笑ったリリーに、ソールは「ああ」ともごもごつぶやき、顔をそらした。
もうじき予鈴が鳴る時間になり、二人で治療室を出る。ソールはこれから模擬戦の反省会だという。
「ドムス先生、三回生も泣かせちゃうくらい怖いってカルパが言ってたけど」
「あー、まあ……負けたこと自体はたぶん叱らないと思う。もし指摘されるとしたら、戦の進め方についてだろうな」
それは隊を動かす上級生の責任なので、三回生はびくびくしていたなとソールは苦笑した。
「ただ、理不尽なことを求めたりはしないから、父さんの言うことは全部納得できるんだ。日によって指導が違うということもないし」
過去に、厳しいドムス教官に反発して言うことをきかなかった生徒がいたという。彼は一回生代表で、どれだけ逆らっても代表を下ろされることがなかったので、ますます付け上がったらしい。しかし一回生の合同野外研修で事前に教官が注意したことを無視して動き、班員の意見も聞かなかったことで人食い沼にはまり、身動きがとれなくなった。班員も逃げていき絶望したところを救助に来たのはドムス教官だった。一回生だけでは対処しきれないと判断した班員が教官を呼びにいったのだ。
自分を沼から引き上げる代わりにドムス教官があやうく足を失いかけたことを知り、生徒は心から反省し、卒業する頃には人望のある代表へと成長したという。
「今は騎兵隊に所属していて、たまに訪ねてくるんだ。こないだも、口達者で生意気な新人がいて困っていると相談してきたから、父さんが大笑いしてた」
想像してリリーも吹き出したとき、階段のほうからマイカとカルパがやってきた。
「リリー、これ」
マイカがおずおずと差し出したのは、先ほどまでリリーが抱えていた課題の紙だった。散らばったままにしていたのを拾ってくれたらしい。
「ありがとう、マイカ」
リリーがお礼を言うと、マイカはほっとした表情になり、それからきゅっと眉根を寄せた。
「ううん……ごめんね。本当はもっと早くにあやまりたかったんだけど、絶対に嫌われてるって思ったから怖くて……」
ひどい態度を取ってごめんなさいと頭を下げるマイカはかすかに震えていた。
当時とてもつらかったという記憶は消えていない。だから廊下で会っても目もあわせないようにしていたし、関わるつもりもなかった。
実際、彼女たちはまだリリーに悪感情をもっていたのだ。
でも先ほど、マイカはとめようとしていた。一人だけ違うことをするのは勇気がいるのに、ずっと気にしてくれていたのが嬉しくて、リリーは瞳をやわらげた。
「もういいよ。私も気づかないことがたくさんあったと思うし……こうしてまた話ができてよかった」
リリーの言葉に嘘がないことが伝わったらしく、マイカは涙目になった。
「うん……リリーに聞いてほしいことがいっぱいあるの。よかったら一回、お昼を一緒に食べない?」
あの人たちは誘わないからと言われ、それならとリリーも承知した。マイカは最近、彼女たちと別行動をとっているという。流行にも悪口にも興味のない女の子たちの輪に入れてもらい、刺激はなくても穏やかに過ごしていたのに、今日はリリーをからかいにいこうと無理やり引っ張られたのだと。
約束の日を決め、マイカがうきうきしたさまで去っていく。今のマイカなら、前よりずっと仲良くできそうだ。
嫌なことばかりではないと、あたたかくなった胸に手を置いたリリーに、「じゃあ、俺たちもここで」とソールが言う。
「あ、あの、ソール!」
カルパとともに歩きだしかけたソールをリリーは呼びとめた。
「その……もしよかったら、なんだけど」
胸の前でこぶしをにぎり、リリーは思い切って告げた。
「来年は、槍専攻に協力したいなって思ってるから」
「本当か? やった、来年は勝てるぞ」と両手を挙げて歓迎するカルパとは反対に、ソールは困惑顔でリリーを見つめた。
「……そうか」
ようやくかすかな笑みをこぼし、ソールが背を向ける。もっと喜べよとカルパにどつかれているソールを、リリーは見送った。
マイカに分けてもらった勇気を振り絞ったものの、薄い反応に不安が広がる。
迷惑だったのだろうか。でももう気持ちはとめられない。
もっとソールに近づきたいと正直に言おうと、リリーは心に決めた。
「うわあ、まずいな。来年は槍専攻にリリーを取られるぞ」
少し遅れてリリーがソールたちと同じ方向へ消えていくのを待ち、曲がり角で耳をすましていたグラノが残念そうな容相でぼやく。その横でオルトは呆然としていた。
リリーが階段から落ちたと聞き、慌てて治療室へ駆けつけようとしたところ、リリーがソールと一緒に出てきた。そこへマイカも現れたので、身を潜めて様子をうかがっていたのだが。
「なあ、オルト。あの二人、もしかして両想いなんじゃないか?」
グラノの言葉にびくりと肩を揺らす。オルトは唇をかんだ。
自分から協力したいとリリーは申し出ていた。今回、剣専攻の要請になかなかいい返事をしなかったのは――ソールからの誘いを待っていたのだろうか。
(……リリーは、やっぱり……)
ずっと、そんな気はしていた。認めたくなくて目をそむけていたが、リリーはいつも、ソールがいれば寄っていく。冒険中は特に。
だがソールは、リリーに対して熱量があまり高くない。リリーの危険には素早く対応しているが、今もカルパほど感情豊かに受け入れてはいなかった。
どれだけリリーが想っても、ソールがただの仲間として一定の距離を保ってくれるなら……。
こぶしを額に押し当てて歯がみするオルトに、グラノが瞳を細めた。
「ソールの奴、リリーのお守りを大事に持ち歩いてるんだよな」
合同野外研修でボロボロになったものを見たというグラノの報告に、オルトははっとした。
「リリーにもらったって、すげえ自慢してたんだぜ。オルトはまだだけど自分にはくれたって」
ソールがリリーからお守りを渡されたことは、以前冒険中に盗み聞きした二人の会話で察しがついた。その場にいたセピアに確認すると、誕生日の贈り物だと言っていた。
リリーなら、誕生日が過ぎていてもあげることはしそうだ。ソールも仲間にもらったら冒険のときは身につけるだろう。
ただ、すり切れるまで使い続けていたとは知らなかった。いらないお守りは町の礼拝堂におさめればいいと教えてくれたのはソールなのに、どれほど古びて汚れても手放さなかったということは。
(好きなのか……お前も)
いつからだ。
自分が尋ねたとき、ソールは答えなかった。否定も肯定もしなかった。
自分の目を避けてリリーに接近していたのか。
助けるふりをして、油断させて、距離を詰めていたのか。
考えてぞくりとする。憤りと衝撃のあまり震えがきた。
もしソールがリリーに想いを告げれば、リリーはきっと応じるだろう。
そうなれば、自分は。
自分は――……。
予想どおり、父は敗戦については何も言わなかった。それどころか、敵本陣へ攻め入った勢いをほめていた。では撤退を余儀なくされた自分たちの隊はというと、無様だったわりにこれもこっぴどく叱られることはなかった。
ただ、風の法専攻生の実力を見誤っていたことだけはがっつり注意された。上級生たちがリリーの術力をなめていたのはたしかなので、来年はもう少し警戒して作戦を立てるようにとのことだった。
次は味方になるとリリーが約束してくれたと言いふらすカルパを、ソールはとめた。まだリリーが希望を告げただけで確約ではない。思い直して、あるいは口約束など忘れて剣専攻側につく可能性もあるのだ。
「リリーはそんなことしないだろう」とカルパはあきれていたが、先のことはわからない。そもそも、オルトが手放すはずがない。
本当は、カルパのように感情をあらわにしたかった。来年は槍専攻に協力したいと言われたとき、めまいがするほどの高揚感に満たされたのだ。
リリーの強さは半端ない。だが、欲しい理由はそれだけではない。
抱きとめた感触がいつまでも残る手をぎゅっとにぎりしめる。けが一つさせなかったことにほっとして、自分の痛みよりそのぬくもりがすぐ離れてしまったことが苦しかった。
『オ帰リ、ソール』
物思いに沈みながら帰宅して部屋に入ると、くすんだ緑色の小鳥に声をかけられた。
「ただいま。腹は減ってないか?」
カバンを置きながら、鳥籠の中にいる小鳥に尋ねる。フォルマは仮の名前をつけたと言っていたが、自分は結局決めなかった。
緑は彼女を連想させる。どうしてもその名前が浮かんでしまうのであきらめたのだ。
『今日ノ模擬戦ハ、ドウダッタ?』
「負けた」
『剣専攻、強イ?』
「ああ、強かったな。ほぼリリーに押されたみたいなものだが……オルトとも勝負がつかなかったし」
本当に、自分を高めてくれるよき好敵手だ。オルトがいるから技を磨くことに価値を見出せる。できればこの先もずっと、武闘館に入学しても互いに総代表として武器を交えていけたらと思う。
『リリー……リリー』
着替えていたソールは、同じ言葉を何度も繰り返す小鳥をいぶかしみ、ふり返った。
「リリーがどうかしたか?」
『一緒ニ冒険シテイタ女ノ子ダヨネ?』
「……ああ」
『風ノ神ノ守護ヲ受ケル女ノ子。髪ガ長クテ、食ベルコトガ好キ』
「そうだな」
『受ケ入レル“力”ノアル子。“器”ノ子』
ソールは目をみはった。リリーが『アペイロンの心臓』の代わりになり得る存在であると、この小鳥も知っているのか。
『彼女ヲ支エル者ガ必要。ドコマデモトモニアル者。ツナギトメル者』
「何の話だ」
『ソールガナル?』
小鳥からの問いかけにソールは息をのんだ。
『ソールハ、リリーガ好キ?』
夕暮れに陰る部屋で沈黙が落ちる。くすんだ緑色の小鳥を凝視したまま、ソールは動けなかった。