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恋猫と春を詠って

作者: 今井葉子

1 夜寒に覆われる一室で


 (えぐ)れた傷の周辺は盛り上がり、牙で噛まれた跡はまるく陥没して膿が溢れている。トラ模様の毛並みはところどころ禿げ、ピンクの地肌が痛々しく覗く。

 猫同士の抗争に勝ち残っているのか、飼い主の友基には預かり知れない。夜中に勇んで外に出かけに行く様子をみると、この(あたり)では強い方の猫なのだろう。

 チャンは、夜露で濡れた毛をざらざらの舌で丁寧に舐めとる。茶トラの模様は全身を覆い、口の周りだけぽっかり白く、絵に描いたような美しい猫だ。

 その容姿と裏腹に、気性は荒く、(うな)る鳴き声が毎晩のように家の周辺で響き渡る。そして傷の数を増やしては帰ってくる。何時間も帰ってこないような時にはどこまで遠征に出て行っているのだろう。友基はそんな心配をすることもある。

 チャンは喉を鳴らして友基の毛布を押したり揉んだりして、ちゅうちゅうと吸う。チャンの母親を想う動作は成猫になったいまも続いている。

 友基はその隣で捕られた毛布を自分に引き寄せると、チャンはころんと転がって布団から落ちていった。しかし再びそばまでくると、また毛布に前足を掛けてちゅうちゅうやり出す。友基は諦めたようにチャンと半分にして毛布にくるまり、冬の空気に身を(すく)めた。

 チャンは喉を鳴らしながらいつのまにか眠ってしまったようだ。切れ長の眼を真一文字に(つむ)る。

 昼間の陽光を上下する毛並みに受けて穏やかに温もっている。傷の表面がじゅくじゅくとして、夜の闘争を物語るが、いまは戦士もしばしの休息。眠りは深そうだ。

 友基は毛布から這い上がると、クロッキー帳とペンを引き寄せた。五七五のリズムで歌を一句ひねり出すと、声に出して詠んでみた。

――幼猫の名残かいまも乳慕う

 からからの喉に吸い付くように出されていった歌はチャンがモデルになっている。

 もう一度詠んでから、スマートフォンを片手に取った。

 ツイッターのアイコンをタップすると、いつもの読書アカウントに今作ったばかりの俳句をツイートする。わずか十七文字の羅列を何度も眺めた。そのままスマートフォンに目を落とすと、「♯俳句」で検索をした。

 春の訪れを詠む句、春を待ちわびる厳寒の句などが写真と共に添えられているものが多い。友基はチャンを流し見ると、再びスマートフォンに目線を移した。

 友基は都内の大学の文学部に通う二年生で、俳句の同好会に所属している。高校生の時に授業で詠んだ俳句が俳句コンテストで入賞して、それから度々俳句を作るようになった。大学で俳句同好会があることを知ったときは即入会を決めた。俳句を詠むことを日常とし、ツイッターに投稿しては反応をみる。

 もちろん大学の学友たちとも意見を交わし合う。コロナ渦で年末は忘年会を開かない代わりに、俳句発表会を開催した。優勝者は部長の砂川。友基はチャンをモデルにして今度は春の発表会に力を入れている。

 友基は今日も相変わらずチャンを詠む。発表会で作った俳句は五作品。すべてチャンだ。友基は参加賞として贈られたペンでクロッキー帳に俳句を詠み込む。チャンの画像をツイッター上に載せたことは一度もない。わずか五七五の言葉の羅列をツイートすると、フォロワーのいいねが返った。

 俳句の同好会にこんな都市伝説が広まっていた。

 俳句に季語がないのを無季俳句というが、その無季俳句をたしなむ学生が透明の怪物に夜間襲われるというのだ。

 季語はその句に連想される季節や空気感、暑いのか、寒いのかといった寒暑の体感を感じさせる。無季俳句はそれをすっぱりと切り離す。ないからこそ自分の描きたいものをストレートに表現できるのだ。

 チャンの生きる様子を俳句に詠む友基の句は無季俳句が多い。チャンの前には季節すらかすむのだ。

 友基もこの根拠のない噂話、無季俳句を詠む学生に現れる透明の怪物の話は耳にしていた。しかし噂は噂。どうせ自分の身に降りかかることなどないだろうと、相変わらず無季俳句でチャンを詠む。そうこうして詠み増やしていくうちに、変化を感じたのは年が明けてまもなくのことであった。



 大学から帰って家で手を洗い、あまり得意ではない自炊に取りかかる。

 冷凍室のないワンドアの冷蔵庫を開け、乏しい食材の中、あり合わせの野菜と肉を乱雑に切り分けて、一口しかないコンロに鍋をかけ煮込む。

 今日、同好会の部室で作った俳句は一句。

――喧噪夜侵入拒む猫兵士

 台所に立ちながら首を捻る。

 どうもいまいちだ。小さくため息をつく。

 友基は寒気を感じて背中を震わせ、椅子に掛けてあった厚手のパーカーに袖を通した。しかし寒気は収まらない。

 ワンルームの部屋全体が夜寒(よさむ)に包まれたのだ。

 ワンルームには折りたたみの小さなテーブルと敷きっぱなしの布団がはだけている。

 ホームセンターで買ったカラーボックスが一つ。文庫が前後でひしめくように並んでいる。

 背後を通るチャンの足音に思わずびくつくと、

「チャン?」

とつぶやいてため息をついた。チャンを抱き上げると、膝の上に乗せて首筋をさする。

 温かなチャンは気持ち良さそうに友基の膝に居座り喉を鳴らし始めた。

 友基はなおも強まる寒気を恐れるように部屋を見渡すと首を竦めた。

 部屋の隅にかけられた蜘蛛の糸がエアコンの風にゆらゆらと揺れている。

 その瞬間、首を食らわれたようなするどい牙に噛まれたような痛みが襲った。

 友基は、

「痛っ」

と首筋を押さえる。

 抱いていたチャンを振り払った。

「チャン、痛いじゃないかっ」

と声を荒げると、その瞬間、部屋はしんとした寂静(じやくじよう)に包まれた。

 チャンが噛みついたわけではなかった。

 あとでそう思い直すと、ごめんとでも言いたげにチャンをまた抱き上げた。しかしチャンは友基の腕をするりと逃れて台所を通り、玄関へと走り去ると、ドアを前足でかりかりと掻いて後ろにいる友基を見遣ったのだった。

 友基は玄関のドアを開けると、チャンは友基の足下をすり抜けて外へと駆けだした。チャンのいなくなった部屋に戻ると、なお一層寒さが室内に満ちていく。

 その時、ぶおんと音を立てて、エアコンが止まる。

 何が起こった? エアコンのリモコンの入りのボタンを何度も押す。

 寒気が悪寒に変わる。

「うああ」

 友基は唸るように床に突っ伏した。

 背中を折り曲げて胸を抱く。

 なんだ、この圧迫感は……

 天井から押しつぶされそうな重みに、思わず息も止まりそうになる。

 うう、動けない……

 友基は天井を仰ぐと、首を左右に振って、うなり声を上げ始めた。

 空気が波を作って押し寄せてくるようだった。

 押しつぶされる、そう思いながらも、逃れるように首を左右に振った。

 手足は鉛のように硬く強ばり、ちょっとも動かせそうになかった。

 金縛り。

 ふとそう思うとなお一層体は硬くなる。

 天井から押しつぶしてくる物体のようなものが感じられる。

「うう……」

 やがて。

 ガチャン。

 テーブルの上に置いていたグラスが落ちて、破片が飛び散る。

 かたかたかた。

 揺れるテーブル。

 友基はぞっとして背筋を凍らせた。

 照明が消え、辺りは闇に包まれた。

「ああああ」

 声にならない悲鳴が漏れた。

 みしみしみし。

 首が締め上げられる。

 ぐぐぐ。

「うああああ」」

 首筋が抉られるような痛みが襲った。

 首筋から血が流れ出す。

 暗闇で目を凝らし、カーテンの隙間から差し込む月明かりに助けを請うように祈った。

 助けてくれ……

 すると、

 「げっほげっほ。うっうう」

 首筋に掛けられていた力が解けて、咽せてしまう。

 手で押さえる。

 ぬるりとした触感にぞっとした。

 震える掌を見る。

 暗闇に浮かぶ黒い血。

 血がぽたりぽたりと手からこぼれ落ちる。

 やがて辺りに焦げ臭い匂いが漂った。

 とっさに、

「鍋っ」

と友基は叫んだ。そこで体のこわばりは一旦解けると、急いで体を起き上がらせ、コンロへと走った。

 煮込んでいた鍋からは黒煙が立ち上っていた。友基はコンロに手をかけて消火すると、

「ああ」

とため息をついたのだった。

 友基は首筋に手をやる。

 流れていた血は跡形もなく消え、抉れていた傷はどこにも認めようもなかった……

 それはチャンのいない夜間に幾夜と訪れた。

 家周辺でうなり声を上げるチャンを遠くに聞きながら、化け物に食われる夢に起こされる。

 首筋に牙を当てられ悲鳴に似た声を上げながら、布団から飛び起きるのだ。

 背中に汗をびっしょりとかいて、呼吸を荒げる友基は、ゆっくりと体を横たえらせ、息を深く吐いた。

 結露で窓枠にびっしり生えた黴を見つめながら、青白い月光に身を寄せた。

 湿った空気に汗が蒸発して、肌からその微温が煙って、深閑とした一室に寒さが染みる。

 月夜は一定の光をたたえたまま、友基に恐怖だけを残した。



 眠れぬ夜は幾日も続き、霜も降りる凜たる寒さの中で、次第に友基も弱っていった。大学の講義も上の空で、年度末のレポートも滞りがちだった。

 そんな友基に声を掛けてきたのは同好会の美澄だった。美澄は青白いまでの相貌で「もしかして友基くん、」と口元に手をあてながら遠慮がちに口を開いた。

「もしかして友基くんも?」

 美澄の試すような視線に友基はとまどうと、

「なに? 美澄、なにかあった?」

 サークル棟の一階の一角を借りている俳句同好会は、今日は部長もおらず友基と美澄が向かい合って座っていた。

 美澄は俳句同好会では熱心な会員で、部室に行けば必ずと言っていいほどいる。いつも窓際の机にパイプ椅子を自分で用意して、そこを占拠して粛々と俳句を詠んでいる様が印象的な法学部の二年生だった。

 美澄は長い髪を耳に掛けながら大きく深呼吸すると思い切ったように、

「友基くん、あの都市伝説は知ってる? 同好会の」

「ああ。無季俳句を作ると化け物が出るってやつでしょ?」

「そう」

 美澄は続けて、

「最近、友基くん、元気ないなあって思っていて。それは私もなんだけど。もしかして私と友基くん、同じ目に遭ってるんじゃないかって」

「まさか。化け物のこと?」

「やっぱり」

 友基は驚きで目を見張った。

「実は夜になるとおかしなことが起きる」

 友基は一息で言った。

「私もそう。同じ悪夢にうなされるの。見えない怪物に食べられちゃう夢。丸呑みされて、真っ暗のなかで出ることもできず、私は泣き叫んでいるの。狭くて、暗くて、寒くて。私の声は外に届かない。そこで目が覚めるの。目が覚めると部屋にちゃんと私がいて、すごくほっとするの」

 美澄はちいさなその手で顔を覆うとふうと息を吐いた。痩せぎすな体を震わせる。

「オレは夢なんかじゃないんだ」

 覆い被さる前髪に隠れるようにつぶやくと、

「夢じゃないって?」

「だから透明の怪物に襲われてるんだよ。噛みつかれたり、引っ掻かれたり、オレに乗っかって潰そうとするんだ…なにがなんだか分かんないよ。なにが起こってるんだよ、て感じだよ。見えない奴に襲われてるなんてさ、信じらんないだろ……」

「信じるよ……」

「まじかって感じだよな……」

 友基は吐き捨てるように嘆息する。椅子から脚を所在なさげに投げ出す。

 窓から差し込む斜光は冬の日にしては温かく、暖房の温かな空気と相まって次第に友基の頬にも赤みが差してきた。夜の恐ろしい出来事が信じられないくらい長閑(のどか)な日中だった。

「悪夢を見るようになってから、俳句に季語を入れるようにしてみたの。それまでは自由に作っていたんだけど……季語を意識すると、自然に目が向くようになるっていうか。植物とか空とか山とか……主に恋愛について詠むことには変わりないんだけどね」

――ブランコに揺れる横顔心打つ

 美澄はそう恥ずかしそうに言うと、鞄からノートを取り出してパラパラと捲る。

 友基もクロッキー帳を取り出すと今まで作った歌に目を通してみた。

 特に意識したことはなかったが、季語を入れて俳句を作ってみたらどうなのだろう。見えない怪物は自分のところに現れなくなるのか。考えてみたこともなかった。美澄はどうなのだろう。

「それで? 化け物の夢は見なくなったの?」

「ううん……それが全く変わらず。季語を入れたことは関係なかったのかな……」

「でもまだ分かんないだろ。最近なんだろ。詠み方を変えたのは……」

「これからもっと季語を入れて詠んでいったら違うかな?」

「そうかもな。オレは……そうだな。オレも入れて作ってみよう」

 そういってペンを取った矢先、蛍光灯の灯りがちかんちかんと明滅し、やがてぷつんと照明が切れた。

 暖房もぼうと音を立てて切れると、辺りは静まりかえり、窓から薄日が差し込むばかりの黒みを帯びた室内へと変化すると、

「あああ!」

 とっさに美澄が悲鳴を上げる。

「どうした? 大丈夫か?」

 友基も叫ぶと、

「痛い。痛い。ああ…」

「どうした! ……うっあっ」

 友基も美澄の隣に倒れ込み、首筋を押さえると、ううとうなり声をあげた。

「だいじょうぶ? 友基くん……」

 美澄が友基に手を伸ばす。友基は天井を仰いだまま、首を押さえている。

 美澄の手は友基に届かない。友基は押さえ込まれたように全く動けなくなってしまった。

「ああ。友基くん、首のところ……」

「ううう……」

 友基の首筋に痣が浮かぶ。じゅくじゅくと膿が溢れると首を伝っていった。

 美澄は起き上がるとハンカチを取り出し、痣に押し当てた。

「美澄は……大丈夫……?」

「うん。私はもう、平気。それより、これは……」

 動かない体を無理に動かそうとすればするほど強力な力に縛られるようだった。

「なに? なに、この音……」

 美澄が耳を押さえる。

 空気が震えるように鳴り響く鳴き声。

「……これ、猫じゃないか? ……猫の鳴き声だろう?」

 友基は仰向いたまま声を振り絞る。

 響く鳴き声がおぞましい。

 部屋の一角から冷気が漂う。

 寒々とした空気に身がすくむと、降参するように体が脱力する。もう抵抗もできない。

「いや、この音。なにかが叫んでるみたい……」

「猫だ。化け猫だ……ああ!」

「だいじょうぶ!? 痣が……どうしよう……」

 友基の首の痣は抉れて血と膿とが溢れ出す。

 首筋はどす黒く変色し、友基から嗚咽が漏れる。

 美澄の押さえたハンカチはあっという間に赤く染まり、床にぽたりぽたりと流れ溢れ出す。

「美澄。美澄はこの部屋から出るんだ。帰れ……」

「でも……でも……」

「おいー。あれ?」

 その時、扉が開き、顧問の古林先生が顔を覗かせる。

 先生は息を切らしながら、

「ああ、久保田と左近か。あれ? 久保田は何でこんなところで寝てる?」

 先生は小首をかしげると、

「三井知らないか? 通帳持ってるの、三井だよな。年度末の会計資料作らなきゃいけないのに、三井が見つからなくて。知らない?」

「知りません…」

 友基は金縛りが解けた体を起き上がらせる。

 床に突っ伏していた体を手で払って先生を見た。それから美澄を見て、美澄は小さく頷いたようだった。

「三井は最近来てないですよ……オレ、見てないですもん。コロナもあって自粛でもしてるのかな……」

「学生課に連絡先を教えてもらったらどうでしょう?」

 美澄は先生の横に立つと、見上げてにっこりと笑みを作った。

 友基はとっさに首筋に手をやる。

 しかし気になった血や膿は出ていないようだった。

 美澄のハンカチも友基の血液がついているような様子などない。友基は安堵して頭を掻いた。

 夢見心地のように呆然としてしまう。

「じゃあ、戸締まりよろしく」

と先生が出て行こうとするのを、

「あ。オレらももう出ます。終わったんで」

と美澄を見た。美澄は頷くと、二人揃って部屋を後にする。

 美澄は友基をみつめがらハンカチを振った。なんだったんだろうね、とでも言うように。

 友基は首をかしげて小さく息を吐いた。



 それから部室で美澄と待ち合わせようと思った友基は、なるべく昼間の暖かい時間でと設定して美澄にメッセージを打った。美澄からはすぐに返信があった。

 二人は週末の三限の講義の後に部室に集まることになった。

 部室に行くと先に美澄が来ていた。

 そこには部長の砂川もいた。砂川は事務的な作業があるため部室に寄ったのだと言って机に顔を埋めている。

 初め友基は美澄が砂川に同席を頼んだのかと思っていた。しかしそれは思い違いだったらしい。でもそれは逆にふたりには都合のいいことだった。

 部長にも聞いてもらいたいことがあるんです、と友基は砂川にも同席してもらうことにした。

「え? 都市伝説?」

「そうです」

 友基はゆっくりと頷いた。

「知ってるけど。それが?」

「オレと美澄に不思議なことが起こっているんです。化け物に襲われるっていうあの都市伝説です」

「まさか」

 砂川の口角は引きつると、ねえ、と美澄を見た。

「ほんとうなんです。この部室でも起きちゃいました」

 なおも砂川の顔は引きつっている。

「ふたりともマジなのね」

「マジです」

 友基はごくりと唾を飲み込むと、

「猫の化け物かなってオレは思うんです。猫の鳴き声が聞こえて」

「そう。聞こえました」

 美澄も頷く。

「ところで猫またの話は知ってますか? 『奥山に猫またといふものありて』っていうお話です」

「知ってるわ。徒然草でしょう」

 砂川は眼鏡を中指で持ち上げると友基をまっすぐ見つめて言った。

「私、知らない。徒然草? 私、文学部じゃないから」

「奥山に猫またというものがいて、人を食うんだっていう噂が流れて、あるお坊さんが、一人歩きしているときに猫またに襲われて、助けてくれぇって小川に飛び込んじゃうんだ。でもそれは自分の飼っていた犬が主人と分かって飛びついたんだとさ、ていう笑い話さ」

 友基は一通り美澄に説明してあげると、美澄が、

「で、それで? それがなんなの?」

と友基に返してきた。

「猫またの話では、正体は飼い犬で化け物でもなんでもなかったけど、オレたちを襲っている者の正体は猫またなんじゃないかなって思ったんだ」

「人を食う猫の化け物ね」

 砂川は頬杖をつくと、ううんとため息をついて、

「その正体が猫またなら、久保田たちに身に起こっていることも笑い話として完結するはずよね。徒然草の猫またなら…」

「そうです。そのはずです」

「この悪夢が笑い話? そんな!」

「そうだよ。オレにとってもそんな感じだよ。でももし笑い話でジ・エンドなら…」

「私、毎晩うなされていて。怪物に食べられる夢なんです」

 美澄は砂川に訴えるように叫ぶと、

「いや、美澄。だから笑い話でジ・エンドの猫またの話なら、オレたちも笑い話に持っていってみないか?」

「え? どうやって? そんなことできるの?」

「オレ、猫飼ってるんだ」

 友基がぽつりとつぶやくと、

「猫飼ってるからって? 『ご主人様だあ』って猫に友基くんを襲わせるってこと? そんな! じゃあ、私は? 私は猫も犬も飼ってないわよ」

「そうね……」

 砂川も眉根を寄せる。

「それより、季語を入れて俳句を作ってみようって友基くんにも話したじゃない? それしかないんじゃない?」

 美澄は涙目だ。

「確かに季語のない俳句を書いた学生が襲われるって言う伝説だったわね」

「でしょう! 部長。私のノートを見てください。最近の作ったものはこれ」

――北風にマフラー寄せる君の指

 美澄はぱらぱらとノートを捲ってみせて、

「うん。この辺りの句には季語が入ってる」

 砂川はノートから顔を上げる。

「確かに部室で襲われたときは、美澄は最初痛いと叫んだきりで無事だった。問題はオレだ。オレは首から出血もしたし、金縛りみたいに動けなくなった。それは俳句を変えた美澄とオレの違いかも知れない」

「……友基くんも季語を入れて詠んでみたらいいのに。歳時記を眺めているだけですごくインスピレーションもらえるよ。見てるだけで半日はつぶれちゃうよ」

 これ、と美澄は鞄から歳時記を取り出す。

「もちろん、これから詠むものには季語を入れてみるつもり。なにか変わるかもしれないし。ただ、怪物が猫の化け物なら、徒然草の猫またのような終わり方も考えられるんじゃないかって思うんだ」

 友基は歳時記に目線を落としながらつぶやく。

「オレはやっぱり季語を入れつつ、飼い猫のチャンのことを詠んでみるよ。可愛がっている飼い犬が正体だったってオチだろう? 思い切りチャンを可愛がって、いい句を作って、なにか変化はないかって探ってみるよ」

と、友基は明るい顔を見せた。

 砂川は吐息をつくと、椅子に深く座り直して、

「まあ、久保田が猫を可愛がるのは自由だけどね。それが徒然草のような結末を迎えるとは到底思えないな。まあ、まずは季語を入れて詠んでみよう。それがこの同好会の本来の主旨だからね。同好会としてやれることはそこだな」

「やってみましょう!」

「私も同席していることだし、便乗するわ」

 友基はクロッキー帳を出すと、美澄から見せてもらった歳時記に頭を埋めて、ううん、と唸った。チャンをモデルにしつつ季語を入れてみる。まずは一句出来た。

――雪解けて覗く土の上駆ける猫

 砂川が身を乗り出して友基のクロッキー帳を覗く。

「字余りじゃない」

「字余りと化け猫は関係ないですよ」

「私も出来た!」

 美澄が机にノートを広げる。

――冬の雲見上げる君の息白く

「部長はどうですか?」

「私はこれ」

 砂川がノートにさらさらと書いていく。

――アノラック埋もれる稚児の紅き頬

「アノラックも季語ですか? なんだかノスタルジー感じちゃいます」

「季語なんだよ。他にも、スモッグとかも冬の季語なんだね」

「こうやって見るといろんな可能性が模索できるな。無季語じゃないと詠めないような気がしてたけど、そうでもない」

 友基は歳時記を捲りながら興味深そうに眺めた。

「そういえば、まえツイッターに投稿した俳句が結構いいねがついててさ。残念なことに無季俳句」

「季語を入れて作り直してみたらいいじゃない。同じ題材で」

「そうかな……せっかく作ったものがもったいないような気がして……」

「そんなことないよ、久保田。限定しないでいろんなバリエーションで作ってみるといい」

 友基は頷いてクロッキー帳を数枚戻すと、まえ自宅で作った歌を持ってくる。

――幼猫の名残かいまも乳慕う

 これに季語を入れてみようと頭を捻った。

 調べてみると、猫と別の言葉を組み合わせると猫も春の季語になるらしいことが分かった。猫が発情し、相手を求める様子を詠むのだという。

 春に向けて多くの句を詠むことができそうで期待が持てそうだ。まずは自分の句をもう一度詠んでみる。

――子猫のゆめ乳をさぐりて母想う

 歳時記を熟読すると、猫は冬の季語でもあるらしい。

 寒さが苦手な猫が凍えて温かいところでじっと丸くなっている様子から冬の季語としても使われるのだ。

 チャンの姿が思わず浮かんで友基は微笑した。ウチにはこたつがないが、ウチに一枚しかない毛布はチャンと奪い合っている。そんな様子も詠めそうだ。

「オレ、あとは家で作ってみます。チャンを見ながら」

「え? あたし、まだ帰りたくない。夜、一人になりたくない」

「夜はまだ早いし、まだ夕方にもなってないし。私は、まだ授業が残っているから行くよ。一晩中、俳句を作ってな」

「ええ? そんなあ。」

 友基は鞄にクロッキー帳を詰め込むと、これサンキュ、と歳時記を美澄に返す。美澄はしくしくと愚痴をこぼしながら、美澄も部室を後にした。



 どうやら松尾芭蕉や小林一茶も猫を季語にして俳句を作ったらしい。

 猫の恋と季語にした芭蕉の句は、夜の静寂な闇に吸い込まれていきそうな一室に情趣を感じさせる。友基もこんな句を作ってみたい。

 毛布にくるまりながらスマートフォンを操作する。腕枕の上でチャンは、丸くなって眠る。

 夜になってもチャンは遠征にでかけず、毛布の中で温もっている。

 相棒を得た友基は、なんだか今日は悪い夢も見ないような気がして鷹揚にしている。

 友基は寝返りを打つとチャンは毛布から転がり出て行ってしまった。チャンは寝ぼけ眼の表情でのそのそと友基の胸の中に収まろうとする。

 友基はチャンを抱き上げるとそのまま仰向いて天井を見た。

「痛っ」

 友基は頬をさする。指先を見ると一筋血が伝っていった。

「痛っ」

 友基はまた頬を拭うと、眠ったままのチャンを脇に下ろした。生温かいものが頬を伝うのが分かった。

チャンは一つあくびをすると布団の上で丸くなり硬く目を瞑っている。ひげをヒクヒクと動かして耳がぴくりと空気に反応している。

 チャンが引っ掻いたのでない、友基はチャンを見つめながらため息をつくと、布団から這い上がって辺りを見回した。

「うっ」

 膝を折ってその場に崩れ落ちると、お腹を押さえ呻いた。

「かっ、げほっ」

腹部に鈍痛が続けて二発走り、友基は大きく咳き込み唾液が口から外に流れ出た。

 それから床に倒れ込むと、

「うっつっ」

 お腹を押さえながら背中を折りまげ唸った。

 腹部に感じる鈍い痛みはそれから途切れなく続き、友基は逃れるように机の下に隠れる。

 そんな甲斐もなく、そのままうつぶせに倒れるとふいに涙まで流れ出てしまう。

 温かな息と涙とが解けて、頬を伝うと、涙で傷がひりひりとさせる。袖口で頬を拭うと腹ばいになって手を伸ばし、クロッキー帳に手をかけた。

「子猫のゆめ乳をさぐりて母……うあっ」

 首筋を押さえると、めりめりと音をたてて首筋が抉れていく。

「あああ!」

 血が溢れ出し床にぽたりぽたりと濡らしていく。

 友基は首を押さえながらクロッキー帳を握りしめた。

「子猫のゆめ、乳をさぐりて、母想う、子猫のゆめ……乳をさぐりて…」

「んなあ」

 あくびをあげて鳴くチャンはのそのそと毛布から顔を出すと、そのままするりと抜け出て友基にむかって歩いてくる。

「チャン……」

 チャンに手を伸ばす友基。

 チャンは友基を素通りすると、キッチンの脇に置いてある皿に顔を埋めてぴちゃぴちゃと水を飲み出した。

「チャン……」

 チャンは皿に顔を埋めて水を掬い舐め、

「なあ、なあ」

と鳴いた。

「ああ、チャン。ご飯だな。今、ご飯だしてやるからな……」

 起き上がろうとしたその時、

「あああ!」

 友基は崩れ落ち、床に頬を押し当てうなり声を上げた。

 首筋の血は友基のシャツを赤く染め上げ、胸まで汚した。

「なあ、なあーお」

 チャンは皿のそばで空しく鳴き声を上げ続ける。

「チャン……チャン……」

 台所から玄関へと走り寄るチャンはドアをかりかりと爪で掻きだした。尚も鳴き声をあげ続けるチャンは部屋の奥の友基を見つめている。

 首筋を押さえながら友基は仰向いていた。シャツは湿って、体は体温を奪われ冷え切っていった。

 チャンは鳴くのを諦めると、玄関マットに前足を折って、なにかを我慢するように目を硬く瞑りじっと座っている。時々小さく、

「んなあ」

と鳴いては友基を横目で見遣る。

 友基は涙を拭ってチャンを見つめる。

「子猫のゆめ、乳をさぐりて、母想う。子猫のゆめ、乳をさぐりて、母想う……」

 呪文のように歌を詠みあげる。

めりめりめり。

「んんぐっ」

 抉れた傷は周辺をどす黒く染め上げる。やがてピシッミシッとラップ音が鳴り出し、猫の長く空気を揺らすような鳴き声が部屋中響き渡る。

「うああ……耳が……」

 とっさに耳を押さえるも甲斐なくおどろおどろしい鳴き声は響き渡る。

 その時、

「んなあ」

と小さくチャンの鳴き声が聞こえた。チャンは怯えた様子もなく、部屋に入ってくると毛布の中に入って前足でそれを押し始めた。

 ちゅうちゅうと音を立てて吸い上げるチャンはごろごろと喉を鳴らしている。寒々とした室内に、おぞましい鳴き声はひとつ照らす照明を明滅させる。

 チャンは尚も毛布を吸い続けている。揉み上げるように前足で毛布を押しながら。

 ちかんちかんと音をたてる照明を見上げ、友基は力をなくし、ぐったり倒れ込み息も細くなっていった。呻き声すらあげられず、意識を遠くしながらチャンだけを横目で見ていた。

 床は血で濡れ、乱雑に投げ置かれたクロッキー帳は血で滲んでいる。

 友基は小さく嘆息すると、そのまま気を失っていった……

 


 目が覚めると夜はとうに明けていて、スマートフォンからアラームの音がけたたましく鳴り響いていた。

 友基は起き上がってアラームを切ると、ぼんやりした表情で空を飛んでいく雀の鳴き声を聞いていた。

 カーテンを開けると眩しい程の朝日が友基をしかめ面にさせ、窓の外にはほんのり積もっている雪に驚いて、

「ああ」

と嘆息した。

 首筋に手をやっても抉れた痣は認めようもなく、跡形もなく消えている。血で染めたはずのシャツはただ縒れているばかりである。

 夢のような一夜は今日ばかりではない。慣れたようにため息をつくと、開かれたままになっているクロッキー帳を拾い上げた。

 すると。

 友基はぞっとした。

 書かれた友基の俳句の余白に血痕が付いていたのだ。

 夢じゃない……

 夢で確かに流れた自分の血を思い出し、身を竦めた。

 クロッキー帳に爪をたて、血痕を落とそうと擦る。乾いた血は依然、クロッキー帳を汚したまま落ちようはずもない。

「くそっ」

 友基はクロッキー帳を放り投げた。ばんっと鋭い音をたてて壁から落ちると、寝ていたチャンがびくんと体を震わせて弓なりにしならせ友基を見上げた。

 季語を入れて詠んでみても変わらない、絶望したように項垂(うなだ)れた。

 チャンは尻尾を膨張させたまま友基を見遣る。

「チャン……ごめん」

 友基はチャンのお皿にキャットフードをからからと入れる。

 チャンがおそるおそる寄ってきてそれを口にする。

 かりっかりっと乾いた音が部屋に響く。

 友基はぼんやりしたまなざしでそれを見ていた。

 何か解決策はあるはずだ。こめかみを押さえながら考えあぐねていると、スマートフォンが震え着信を知らせた。

 見ると美澄からのメッセージだった。

「久々の快眠。ぐっすり眠れた。悪夢は昨日はなし。俳句が効いたかな? 友基くんは?」

とある。友基はスマートフォンを放ると勢いよく毛布を被り、

「あーあ。んだよっ!」

と毛布越しに天井を仰いだ。

 夜に悪夢に遭っていて、まともな考えなど浮かびそうになかった。

 なにもかもうやむやにして眠ってしまいたい。昨夜の恐怖が覚えず友基の体を震わせる。

 暖房の消えた室内に雪の降った朝が寒々しく染みる。

 友基は自分を奮いたたせるためにぱしぱしと頬を打った。

 昼間は化け物も出ない。対策を練るなら昼間だ。

 友基は毛布から飛び起きると、クロッキー帳を鞄につめ、朝の支度に取りかかるのだった。



 土曜で大学も休みの今日に、気分転換に渋谷の街を散歩しようとアパートを出た友基は、マフラーを寄せて息を切らせて早歩きしていた。

 目的などなくてもただ歩いているだけで、頭はすっきりと澄み渡り、朝の空気を十分に吸い込んだ。

 街ゆく人は出勤に忙しそうに歩みを進めている。ただ歩くことを目的に歩いている自分がなんとも贅沢に感じられ、気分が高揚した。

 街はまだ開店の準備で閑散としている。ビルとビルの間を縫って、朝日の差し込む界隈に、呼吸を荒げて大きく息をする。

 歩きながらある考えに行き当たっていた。新たな解決策だ。これで今夜臨みたい。意気揚々と歩いた。

歩きながら目線は喫茶店を探していた。朝食を摂ろうと思っていた。

 開いている喫茶店を見つけ、店内への自動ドアを抜けると、窓際のカウンター席を陣取り腰を据えた。

 四十代くらいのウエイトレスが水とメニュー表を持って友基の脇に立つ。

友基はちらと眺めると、すぐに、ホットコーヒーとトーストセットを頼んだ。

「少々お待ちくださいませ」

 ウエイトレスは頭を小さく下げると友基の座るカウンター席を離れ、奥へと引っ込んでいった。

 友基は外を眺めながら、いままで起こった夜の出来事を思い出す。

 首筋にあてられたような牙の痣。

 頬を引っ掻く爪のような跡。

 ちかちかと切れかかる照明。やがて消える。

 割れるグラス。

 揺れるテーブル。

 おぞましい鳴き声。

 金縛り。

 これは、ポルターガイスト現象?……ふと思い至ると、唇を噛んだ。

 現れる猫の化け物。

 猫まただと言うのなら?

 妖怪化した猫の話は古くから伝承にある。猫また、と言われるように尾が二つに分かれている妖怪だ。

 徒然草の猫または山中に現れる。猫または山奥に棲んでいるものとされる。

 猫またが本当にいるなら怖い怪物だ。徒然草にでてくる猫またの段の連歌師も夜中、山の中を歩いて行くのを怖がっていたところ猫またに襲われたぁと叫んだのだ。

 怖い怖いと思いながら歩いていれば、飼い犬も怖い存在となる。

 物語のオチとしては怖がっていた怪物は、なんと飼い犬だったのである、というものだ。

 ならば、自分も怖い怖いと思わないでいたらどうだろう。

 ただの噂だ。

 そう思えばいい。

 友基は猫またを題材にして俳句を詠んでみた。

怖い伝承も身近に引き寄せて歌に詠んでみたらどうだ、そう思ったのだ。

 クロッキー帳を鞄から取り出すとぱらぱらと何も書いていないところを捲って行く。

 ペンを取った。

――霜柱小夜更け轟く猫のこえ

――冬枯れのへやにあらくる猫の鬼

 友基はペンを置いた。

 ふと。

 震えるスマートフォン。砂川部長からだった。

 着信を受け取ると、

「久保田?」

と昨日と変わらない砂川の声がマイクから聞こえてくる。

「はい、久保田です」

「昨日はどうだった? ……その化け物は?」

「はい。出ちゃいました」

「ああ。ダメだったのか」

「はい。甲斐なく……」

 わずかな沈黙のあと、

「猫またをモデルに俳句を詠んでみました」

「はは、それは殊勝だな」

「ですよね。やってみようかと……」

 友基はクロッキー帳に目線を落とす。

「それから気になることが……身の回りに起こってることが、ポルターガイスト現象かな、と思うんです」

「それは……そうなのか?」

「はい。たった昨日のことを思い出しても」

「ポルターガイストなら、その人の無意識の念力がそうさせているってきいたことあるぞ。思春期の心理的な不安定な少年少女の周辺で起こるものらしい、と。」

「念力? 無意識的にオレがってことですか?」

「まあ、久保田は思春期とは言えないけどな」

「オレが原因? 猫の化け物で?」

「はは。久保田は猫を飼っているんだろう?」

 友基がふと考え込んでいるのを、砂川が制するように、

「いや、冗談だよ」

と、ごめんごめんとつなげた。

「オレが原因ならすぐにでも解決できそうですけどね」

「お。解決してみたら。ポルターガイストは数日から数年かかって起こる現象だと言われているぞ」

「え? 数年? まじかよ!」

 つい大きな声を上げてしまったのを、回りを気にして見渡しながら、

「そんなに付き合いきれるもんじゃないですから。美澄は解決したらしいし」

「お。そうなのか? 季語を入れたことで?」

「そういうことですよね」

「かたやもう解決しててだな、久保田もやれるだろ」

「だといいですけどね……」

 はは、と笑みをこぼすと、砂川は、

「いいたいことは他には? 言っておきたいことあるなら聞くから」

と笑った。

「いや。そうだな……『奥山に猫またといふものありて』の話の教訓は?」

「教訓? 猫またの噂をきいて臆病になった法師が、自分の飼い犬と猫またを錯覚しちゃったということだろう?」

「そうですよね」

「今の、役に立ったのかな?」

「はい。だいぶ。ありがとうございます」

 そのまま砂川が笑いながら通話を切った。

 友基はすっかり冷めたトーストに囓り付いた。あっという間に食べ終えると、同じくすっかり冷えてしまったコーヒーを一気に飲み干した。

 友基はクロッキー帳を一枚一枚目を通していく。

 今までの俳句を読み返していた。

 すると。

 俳句の隅についていた血痕が今はあとかたもない。

 消えてしまったのだ。

 他のページの間違いだっただろうかと、友基は慌ててページを捲る。

 どのページにも血はついていない。

「はは。やった」

 友基はカウンターのうえで拳を作った。

 ぎゅっと握りしめると温かくて、失われた自信が戻ってくるような気がした。

 窓をみると日は高い所から街に降り注いでいた。道路脇の雪は踏まれてすっかり解けていて、濡れたアスファルトが覗いていた。表面はキラキラと反射し、街ゆく人の足下を眩しそうに照らしていた。



 散歩して歩いた道を帰りは走って通りを抜けて行った。

 夜間に襲ってくる恐怖を振り払いたかった。溢れる躍動は小心との裏返しだった。

正直言って夜が怖い。痛みはごめんだ。

 でも臆病な気持ちを捨てられたなら。

 怪物は錯覚に過ぎない。怪物とは自身の奥底に潜む、臆病なオレだ。

 怪物と向き合う。

 オレは怪物を俳句にして詠み込んでやる。

――霜柱小夜更け轟く猫のこえ

 冬の凜々たる空気を切って渋谷の道を抜けて行く。蒸気が胸元から薫って、熱い呼吸と混ざる。

 在り来たりかも知れないが、やみくもに走っていると感情が高まって、勝ち気な気分になる。

 背中でリュックサックが左右に揺れた。ビルの合間の灰色の空が上下に揺れる。

 赤信号で立ち止まると肩を上下させながら呼吸を整えた。信号を見つめる。

 やがて青になるとまた走り出した。

 人と人との間を上手に縫って走って行く。朝、散歩していたときより人の出入りが多くなった歩道に、スピードを緩めたり速めたりしながら走って行った。

 思春期の心理的に不安定な少年少女に起こるというポルターガイスト。

 走りながら思わず吹き出していた。

 未熟なまま成長しきれない自分を思った。性的な関心が高まったあの頃。大人が汚く見えた少年だった自分。

 そこからなにも変わっていないと言うのか。

 そんなはずはないだろう。

 ふっとまた吹き出すと、立ち止まった。

 高校に入学して、美術部で県展に出展したりして、美大に行こうか悩みながらも、都内の文学部に絞って受験勉強をした。自分を責め立てるように必死で勉強してきた。

 そして、大学に合格。憧れの都内で一人暮らしを始めた。

 高校時代、親や先生とは関わり合いたくもなかった。大人たちの隙間でいい子とも言える立ち位置で居場所を確保していた。

 性を意識する反面、可愛いと思えるような子はいなかった。ただ一人、同じ美術部で、風景の絵ばかり描いていた女子がいた。その女子の描いた絵は目を見張った。冬を描いているような静かな絵だった。

 その女子が気になっていた訳でもない。自分の気になっていたのは絵の方だ。

 友基はゆっくりと歩いていた。呼吸はすでに穏やかで弾む心臓の響く音だけを体に感じていた。

 とんとんとん。

 心臓から全身に巡るようだった。指先まで心臓の鼓動を感じる。

 指先を握って鼓動を閉じ込める。

 家のアパートを目の前にしていた。築年数も古く、小さな台所と一部屋しかない木造のアパートだったけれど気に入っていた。ペットOKの物件で大学からも程近く、学生生活に不満なんてなかった。

 一階の自分の部屋のドアに鍵を差し込む。

 鍵をあけ、ドアを開けた瞬間チャンが飛び出してきた。チャンは忍者のように姿勢を低く走り去り、あっという間に見えなくなった。

 友基は嘆息すると部屋の中に入った。部屋のなかはチャンの香りがして、暗澹(あんたん)たる室内を見渡した。

 部屋に入って電気を付ける。照明がつくと、途端、はだけた毛布や脱ぎ散らかしたスウェットなどが目に入る。

 それらを足で追いやるとテーブルの前に腰を据えてクロッキー帳を出した。

 ペンを右手に持って、軽く目を瞑る。

――スモッグの覆う寝室化ける猫

――炬燵猫化けてあらくる夜半のころ

 友基は眉根を寄せて、強ばった口元をほころばせると、

「ま、いっか」

と言って笑った。

――筆下りて画布に広がる猫の恋

――イーゼルに向かう横顔猫の恋

 学校の中庭を描いた一枚の絵。思い出そうとする間もなく脳裏に焼き付いている。

 じっと見つめていたからだ。

 雪に埋もれる桜の木の枝。春を待ちわびるように震える桜の枝。

 そういった風景を彼女は描いていた。

思い起こそうにも、作者の顔は朧気で靄に包まれてしまう。

 絵を描くとき、授業の時だけ、銀色のフレームの眼鏡を掛けていた。

 髪はいつもおかっぱ頭で女子の中でも貧弱な程に小柄な女の子だったと思う。

 いま、彼女は何をしているだろう。確か都内の美大に進学したと美術室の隅で、美術の先生に話しているのを聞いたことがある。

 今も、絵を描き続けているのだろうか。

 今も描いていてほしいと願った。友基はペンを握る。

――猫の恋夢におそわるる会いたしと

 遠くで猫の鳴き声が響く。チャンだろうか。友基の作り出す化け物だろうか。空気を震わせて訪れる鳴き声は間延びして相手を恋い慕う歌にも聞こえる。

 冬の月日は過ぎゆきて、日中の温かさは春もすぐそこと知らせる。夜の喧噪はまるで嘘のように表では子どもの跳ねるような笑い声が響いている。



 俳句を読み続け、いつの間にか猫の化け物は姿を現さなくなった。

 友基の大学は二月を迎えようとしていた。

 悪夢を俳句で乗り越えたという友基と美澄は、俳句同好会のちょっとした英雄扱いとなった。

 そしてこぞって、みんな、季語を入れて俳句を読み続ける。

 無季俳句を作る学生に透明の化け物がでるお話は、ここ最近聞こえなかったという。




 2 ある食事風景と囲む⑤について



「美澄は一体誰のことを詠んでるわけ? 句に出てくる『君』ってだれ?」

「え?」

 美澄は頬を染める。口元を押さえ、明らかに慌てた様子だ。

「いや。オレはチャンのことを詠んでるからさ」

「友基のチャンみたいなものよ」

「オレにとってのチャンみたいなもの?」

「そうそう。あーあついねえ」

と手でぱたぱたと顔を仰ぐ。

 恋愛を主題に俳句を詠む美澄は、季語を入れて俳句を詠むことで悪夢から逃れることができた。友基は猫またをモデルに詠み、春の季語、猫の恋を用いることを俳句に詠むことで化け物が出なくなっていった。そうやって俳句を詠むうちに、ある思いを抱くようになった。

 高校の時、同じ美術部だった時田菜穂はいまも絵を描き続けているだろうか、と。

 描いているなら見てみたい、と。

「そんな友基こそ、最近忙しそうにしてるのはなんで? 部室にも寄らずにさっさと帰ってどこにいってるわけ?」

「え?」

 友基ははぐらかすように、

「オレ? え? オレ?」

と挙動不審にしている。

「あやしー」

 美澄はにやにやしている。

「あ、オレ、行かなきゃ。じゃあな」

「あーやっぱりー。友基がデートですってぇ、部長ー」

「は?」

 見ていた公募雑誌から顔を上げて見上げる砂川。

「違います。じゃあ。オレはこれで」

「あやしーですよねえ。部長」

 ぎゃあぎゃあと騒ぐ美澄を残して友基は部室を後にした。



友基は銀座に来ていた。

 ギャラリー巡りをするためだった。美大の学生がギャラリーでグループ展をやっているを鑑賞するためだった。

 もしかして時田もグループ展で絵を出展している、なんていうこともあるかもしれない。

 偶然時田の絵をみつけることもおかしくないことのように思えた。

 美大生がギャラリーで絵を出展している、ということを知ったのは大学の知人からDMをもらったことがきっかけだった。

 時田の絵を探し回っていたらいずれ会えるような気がした。

 時田の絵を探すためと言っても、ギャラリーに訪れること自体、悪くないことだった。

 絵画を鑑賞することは俳句を詠むインスピレーションにもつながる。

 ギャラリーに置かれている別の学生のグループ展のDMにも目を通す。

 時田の名前を探す。

 そんなことを繰り返していた。

 友基は場所を移した。

 新橋駅から程近い銀座コリドー街にあるギャラリーを訪れる。

 広いギャラリーをぐるりと見渡す。

 そしてある絵の前に立った。

 あ。と思った。

 時田の絵だった。

 版画だろうか。キャプションには時田菜穂と書かれている。

 間違いないだろうか。じっと見つめる。

 高校時代に描いていた風景画とはまったく趣が違っていた。

 幾何学模様、というのだろうか。

 抽象画だった。

 『ある食事風景と囲む⑤について』と題されている。

 これが食事風景? 友基はううん、と唸った。

「あれ? 久保田くん?」

 うしろから小さなソプラノの声が響いた。

「久保田くんでしょう? 同じ美術部だった……やだ、ひさしぶり」

「……ああ。時田。久しぶり……」

 本人と会えると思っていなかった友基は思わず慌ててしまう。高校時代、まともに話したことすらなかったのだ。時田の絵を探していたのは自分とは言え、なんとも気まずかった。

「久保田くん、こっちの学校? 旅行?」

「いや、こっちの学校。K学院の文学部にいる」

「ああ。そうだったんだ。で、絵を観に?」

「うん、まあ……そう」

 思わず言葉を詰まらせしまう。

「時田はこっちの大学だよな。たしか…」

「そう。T美」

「なんていうか、その……大丈夫か? すごく痩せたな」

「うん。……そう、かな。」

 ダイエットで痩せたとは到底言いがたい程に痩せている時田を見て、なにかあったのかな、と友基は顔を曇らせた。その相貌は白く、肌も荒れていて、似合わないファンデーションが肌から浮いて見えた。ワンピースから伸びる足は信じられないくらい細い。

「あの、わたし……あの、ここじゃ難だから、場所を変えて話さない?」

「あ、ああ。うん。そうしよう」

 眉根を寄せて友基をみつめる時田に、嫌とは言えなかった。思わず動揺してしまう。

 二人はギャラリーを後にすると、通りを肩を並べ、歩いて行った。



 ギャラリーから程近いカフェバーを案内されると、時田は先に店内へと入った。慣れているのか、すたすたと店の奥へと進み、席を決める。

 木目調の店内はなかなかのモダンの雰囲気で昼下がり、落ち着いた雰囲気を与える。遅い昼食をとろうと思った友基はテリヤキバーガーを頼んだ。

「え? プリンだけでいいの?」

「……うん、いいの」

 なぜか言い(よど)む時田を前にして、友基は小首をかしげた。

 それにしても痩せている。頬はこけ、首筋も露わで、明らかに不健康だった。

「で? 話って?」

「うん……」

「話があるからここに来たんだろう?」

「うん……信じてもらえないかもだけど……」

と時田は重い口を開いた。

「わたし……餓鬼道に墜ちちゃったんだ」

「は?」

 友基は目を白黒させた。

「こう…夜、仰向けで寝てるでしょう? そうすると口の中に何かが押し込められているような感じに目が覚めるの。多分、食べ物。私はもぐもぐと咀嚼して、ああ美味しい、と思っているの。それがだんだん熱くなって、口の中が火で溢れているの。私の舌はただれて、口からよだれがだらだらと垂れて……痛くて。痛くて。……そんな夜がずっと続いているの……」

「それは……」

 友基は二の句が出なかった。時田も何か化け物に襲われているのか? そう思って息を飲んだ。

「舌がひりひりとして捲れ上がっちゃって、夜の間、ずっとよだれを垂らしてた。そういう日もあった。それでもどんどん口の中に食べ物が入ってきて。私は熱い熱い……てうなされているの」

「うん……」

 友基は頷く。時田は言葉をつなげる。

「夜、お腹いっぱい何かを食べていて……って、本当は食べてないんだけど、食べるのが怖くなっちゃって、食事が採れなくなっちゃったの。ほとんど口にしていない。食べ物が怖くて。味噌汁と少しのご飯ですぐお腹がいっぱいになっちゃう……」

「なんて言うか……さっきつぶやいていた、そう。まるで餓鬼道の地獄のような感じだね。常に飢えと渇きに飢えた亡者。食物は血膿や炎と化してしまい、喉を通らないという」

「全くそんな感じでしょう?」

 時田は俯いて小さく笑った。

「じゃあ、あの絵って……ほらギャラリーに展示されていた……食事風景と?」

「ああ。『ある食事風景と囲む⑤について』のこと?」

「そう。それ」

「そうだね。あれは夜のことから脱したい気持ちで描いたの。実家で暮らしていたときの食卓を思い出しながら。私は、父と母と私と妹の四人家族なんだけど……」

「ご家族にはその……このことは知らせているの? いま辛い状況だってこと」

「ううん。でも年末、家に帰った時、久しぶりにみんなでおせちやお雑煮なんかを囲んでお正月を迎えたわ。実家に居る時の夜はなんともなくて、しっかり休めた。長閑なお正月って感じだった」

 しかしそんなに痩せていたら親御さんも心配するだろう、それほどの変わりようと言ってよかった。

「痩せたね……ご両親も心配しただろうな」

「はは。心配されたよお」

 時田の目には涙が浮かんでいる。それを指先で拭う。友基は言葉が詰まってしまった。面と向かっているわけにいかず、つい俯いてしまう。遅れたように届けられたテリヤキバーガーには、なんとなく手が伸ばしづらくなってしまった。そのままテーブルの上に置いたまま、コーヒーだけをすする。

「なんて言うか……時田の絵……」

「絵?」

 幾分時田の表情が和らいだように微笑した。ん? と小首をかしげている。

「なんて言うか、絵の感じが変わったな、と思ったんだ。前、風景画を描いていただろう? もっと写実的な絵を。抽象画を描くようになったんだな」

 友基は惜しいように嘆息すると、時田に向かって微笑した。時田は、ああと一息つくと、

「大学に入って絵を学んでいるうちになんとなく行き着いたスタイルなの。抽象画に寄ったのはちょっと逃げっていうのもあるかな、て思う部分もある。あういう記号のような画にうまいヘタがちょっとわかりにくかったりもするじゃない? そんな逃げの部分も否めない自分はいる。まだ定まってないの。写実的に描いてみたりすることもあるし……」

「そうか、見てみたいな……」

「そう? じゃあ、今度久保田くんに見てもらうために持ってくる」

「え? なんて言うか、悪いよ。またの展示の機会で」

「ううん。持ってくる。今日、話を聞いてもらったし。本当、突然だったのに……なんか懐かしくて。本当にごめんなさい……」

 時田は目尻を下げて、寂しそうに笑った。

 なんとか助けにならないだろうか、友基は拳を握りしめると、

「オレ、俳句作ってるんだ。大学では俳句同好会に所属してる。時田にエールのつもりでオレから俳句をプレゼントするよ。化け物を詠んだ俳句なら任してくれよ。オレ、俳句で化け物退治したばっかりなんだ」

 友基は拳を握ったまま、一息で言った。

「俳句で化け物退治? お経で化け物を退治するんじゃないの?」

「はは。いい案だ。もっと早く言ってくれ。そういうなら時田だってお経読んでもらったら?」

 友基は笑う。

「私のうち、無宗教よ。こんなときだけ仏に頼むなんて」

 時田は弾むように微笑んだ。青白かった頬に赤みが差す。

「地獄に墜ちた時くらい仏に(すが)らなかったらなんのために仏はいるんだよ」

「なんだかひどい言い草ね」

 時田の微笑みに安堵した。よかった、暗くなって終わりにしたくない。

「ほら、プリン食えよ。うまそうじゃん、そのプリン。オレも腹が減った。すごいうまそう。照り焼きバーガー」

「本当ね、おいしそう。ごめんね、食事時の話にはよくなかった……」

「気にするなよ。頂きます」

 友基はバーガーにかぶりつく。それをみた時田が頷いて、スプーンを持ちプリンを口に運んだ。

「おいしい。久保田くんと一緒に食べると……」

「いつでも一緒に食べてやるよ」

 友基は親指をぐっと立てた。時田が笑ってくれる。

 二人は連絡先を交換してそのカフェバーで別れた。時田はギャラリーに戻っていくと、友基はいつまでもその背中を見送っていた。



 同好会の部室には友基の他に、美澄と砂川。ようやく会計資料が作れたと言った古林先生がいた。

「三井、見つかってさ。通帳を回収できたってわけ。なんとか年度末に間に合ってホントによかったよ」

 先生は胸をなで下ろしている。砂川は笑って、

「先生もせっかくいらっしゃるから俳句の指導もよろしくお願いします。特にこの二人、字余りが多くて」

「はは、なんだなんだ」

 先生は機嫌がいいのか、にこにこと砂川の言うことに請け合っている。どれどれ、と言いながら友基のクロッキー帳に目線を落とす。

――雪解けて覗く土の上駆ける猫

「ああ、確かに字余り。なんだかもたつくな……」

「でしょう。先生」

 友基を押しのけ、なぜか砂川が応じる。

「『覗くとのうえ』と詠ませたらどうだろう」

「あ、なるほど」

 友基は首を突っ込ませ、頷いた。

「と言うか、考え直しだな、これは」

 先生は腕を組んで唸る。

「久保田のはそんなのばっかりですよ」

と砂川。

「え? まじですか?」

 友基は落ち込むように項垂れた。

「ちょっと美澄、隠れてない。美澄も見てもらいな」

「え……私はいいです……」

「どれどれ」

「いいですいいです」

 そんな二人をうっちゃって砂川は友基と向かい合うと、

「えっと、なんだっけ……時田さん? 餓鬼道に墜ちちゃったって言う」

「なんだか語弊がありますね、部長……」

「ごめんごめん。ところで俳句はできたのか?」

「はい。部長」

とクロッキー帳を捲る。あれから時田のことを砂川や美澄に話した友基は、何度か俳句を見てもらっていた。とっておきのものをプレゼントしたい、それになにかいいアイデアを二人なら出してくれるかもしれない、と思った結果だった。

――幾夜の大火の舌よ地獄絵図

「どうですか?」

 砂川は顎に手をあて、クロッキー帳を見つめている。

「これは? 季語は? 無季俳句なのか?」

「いえ。大火が一応。火事が冬の季語になってます」

「そうなのか……地獄の様子を季語を含めて詠むというのも難儀だな」

「そうなんです」

「地獄を描くといえば、芥川龍之介の『侏儒の言葉』がちょうど餓鬼道について言及しているぞ。読んだ事あるか?」

「はい。でもちょっと覚えてないです」

「なに? 芥川?」

 美澄が首を出す。

「芥川なら私も読むわよ。好きだから」

「ほう。『侏儒の言葉』も?」

「もちろん。芥川自殺の年に描かれた随筆でしょう?」

「餓鬼道について書かれている部分は知ってるか?」

「んっとー。あはは……」

「覚えてないんだな……」

 あきれ顔の砂川は、友基を見据えると、

「もう一度読んでみたらいい。心に響いてくる。餓鬼道に言及している部分は、確か『人生は地獄よりも地獄的である』から始まっているはずだ。そうですよね、先生」

「ああ。そうですね」

 先生は微笑む。

「餓鬼道は生前に強欲で嫉妬深く、貪る心と行為とを恥じずに平然としてきた者の生まれ変わる所ですね。餓鬼道の世界は飢えと渇きに苦しみ、食べ物がそれを手にした途端、火に変わってしまうと言う六道の一つです。でも人生の地獄はたとえば餓鬼道といった地獄の苦しみよりももっと地獄的だ、と芥川は言っている。人生の苦しみは火に燃える飯のたぐいよりももっと複雑だ、と言っている」

「餓鬼道は六道のうちのひとつだから地獄とは違うんじゃないの?」

 美澄は、ねえ、と砂川を見る。

「そこは芥川が混同して考えているところだろうな……」

「じゃあ、皆さんあとはお任せしました。私はここで」

と先生は微笑んで右手を挙げた。

「あ、先生、ありがとうございました」

 砂川は出口まで見送ると頭を下げた。

「でも、なんにしろ時田の地獄はまるで地獄のようだな」

「すごく強欲な人ってわけじゃないのよね?」

「そんなわけないだろう」

 友基は嘆息して美澄の言葉を退けた。

「ごめん……そうよね」

「すごく痩せてしまったんだ。夜にむやみに口に入ってくる何かで腹がいっぱいになるんだって。このままじゃ倒れちゃうよ。なんとかしてやりたいけど……」

「俳句は? 見せて」

 美澄は友基のクロッキー帳に目を落とす。

「ねえ。いつもの猫の句の方がいいんじゃないかな? これじゃ、心が折れそう。友基くんの猫の句は和むよ」

「そうかな?」

「一句作ってみたら?」

「うん。そうしよう」

――目を瞑り背中丸めてかじき猫

 友基はペンを置いて、ふうと息をつく。

「二月二十二日は猫の日だよ。猫の日にプレゼントしたら?」

「美澄の思いつき、ちょっと幼稚だな」

 砂川に笑われて美澄は頬を膨らませる。

 そうなんだ、猫の日なんだ、と微笑する友基は密かに美澄の案を頂戴しようと、クロッキー帳をみつめた。



 二月いっぱいまで銀座のギャラリーで展示をしているという時田と、ギャラリーで待ち合わせをしたのは二月二十二日、猫の日だった。

 チャンを写真に撮ったポストカードを作成し、そこに自分の俳句を載せた。チャンがじっと寒さに耐えている姿をショットしたものだ。

 なんとか時田に元気でいてもらいたい、そう思って作った一枚だ。

 それを持って銀座へ向かう。

 渋谷から銀座線に乗って銀座から歩く。銀座コリドー街の高速道路下にあるギャラリーのドアに手をかけた。

 一階の展示スペースに時田の『ある食事風景と囲む⑤について』がある。絵の前に立つ。

「久保田くん」

 時田に声を掛けられ友基は後ろを振り返った。時田は今日はふわふわと温かそうなセーターを着ている。

 前会った時はワンピースを着ていた為か今日の服装より痩せて見えた。今日はうまく痩せぎすな体型をカバーしており、健康そうに見える。

「やあ」

 友基は右手を上げた。そして絵と真向かいに立つ。

「ところで、この『囲む⑤』の意味は? 『ある食事風景』の部分は実家でのことだって聞いたけど」

「これは第五の存在を意味しているの。食卓にいるのは父と母と私と妹と第五番目の存在がそこにはいる、と言う意味で。第五の存在は、私に夜、炎を口にさせる存在ということ。目に見えない何物か……それが第五番目の存在」

「そうだったんだ……」

 友基は小さく頷いた。

「で? あれからも夜は?」

「うん……続いてる。喉に針が刺さるような激痛に悩んでる。喉が熱くて、水がほしい、と叫ぶときもある。昼間の間はなんともないのだけど……眠っていて、ふと起こされるの。激痛に」

「なにかきっかけとかはないの? 悩んでいることがあったとか?」

「きっかけ……」

 時田は考え込むように口元に手を置いた。

「きっかけは、編入試験を受けたの。N芸術大学の編入試験に。そのための持参作品を作成していたときなの。急に夜、そんなことに遭うようになって。制作は滞りがちだった。なんとか完成させたけど、結果は不合格。」

「編入試験か……今の大学に不満があるとか?」

「そんなこともないんだけど……自分を試してみたかったの」

「今年は? 受けなかったの?」

「今年はもう……こんなことになっちゃったし」

「諦めないで受けてみたら? 来年もあるだろう?」

「本当? そう思う?」

 時田は目を潤ませ友基を見上げた。友基はうん、と頷く。

「チャレンジだったらいつでもできるよ。やってみたら?」

「そうよね。やってみる!」

「そう。オレ、俳句を作ったんだ」

 友基は担いでいたリュックを下ろすと中からポストカードを取りだした。時田の手の上に置く。

「わあ。ありがとう。猫?」

「そう。オレのウチの猫を詠んだの」

「すごい。茶トラの綺麗な猫ね。『目を瞑り背中丸めてかじき猫』俳句って季語が必要でしょう? なんだか作るのが難しそう……」

「すごく楽しいよ。季語は歳時記を眺めながら、自分のイメージにあう季語をみつけて作るんだ。猫単体では季語にならないんだけど、別の言葉と組み合わせると猫も季語になるんだ」

「へえ、じゃあ、この『かじき猫』というのがそう?」

「そう。寒さに震えている猫の様子だよ。そんな感じ、見たことあるだろう?」

「はは。どうかな。私、猫飼ったことないからあまりイメージ出来ないけど」

「こんな写真みたいな顔してるときだよ」

と友基は笑ってとんとんとポストカードを叩いた。

「そうだ。私も一つ作品を持ってきたの。写実的に描いたものを持ってくるね、と約束した……」

と友基に背中を向けて奥に引っ込んだ。

「これ」

と戻ってきた時田の手にポストカードが握られている。

「ポストカードに作ったのものなの。これは去年に作った一枚」

「これは湖だね。諏訪湖?」

 友基は郷土の諏訪湖を思い出していた。そして懐かしい時田の絵を思い出していた。そうだった、時田は冬の風景を描くのが印象的だった。高校の中庭の雪に埋もれた桜の木を描いていたあの頃を思い出す。

「諏訪湖。これを描いている時は、まだ夜にお腹いっぱい火を食べさせられることもなかったな……」

「そうなの?」

「そう。確かこの絵を描いて、その直後くらいだったわ」

 時田の言葉に友基は考え込むようにして俯いた。それから、

「それまでは抽象画を描いていなかった?」

「そうね。ちょっとは描くこともあったけれど。この頃はまだ、こんな具象を描いていたかな。どうしてもリアリズムに描くことばかり気にして、苦しくなっちゃったの。それでいったん、具象からは離れて……」

「抽象画を描くようになったんだね。そっか。……どうだろう。まだスタイルが定まってないのなら、また具象画を描いてみたらどうかな?」

 時田はうん、と頷いて自分の作ったポストカードを見つめる。

「懐かしいな。諏訪湖。今年は御神渡りが見えたのかな。また諏訪湖も描いてみたいな」

「一度、実家に戻ってゆっくりするのもいいと思うよ。実家にいる時は夜もしっかり眠れたんだろうし……」

 そうね、と時田はつぶやく。

「地元の風景を描きに帰省してみるのもいいのかもね……そこで来年度の編入試験に向けて作成してみようかな」

 友基は安心したように微笑んで、時田の持っていたポストカードを指さした。

「それ、オレにくれないか? すごく懐かしい。冬の諏訪湖はそんな感じだったよな。オレはそのポストカード、すごくいいと思う」

「本当? そう言ってくれる人の手にあったらいいと思う。うん。あげるよ」

「じゃあ、オレのポストカードもお守りだと思って」

「うん」

 手渡されたポストカードを眺め、リュックから読み止しの文庫を取り出し中に挟んだ。ふう、と息をついて、目の前の展示されている時田の絵を見た。第五の存在。時田を苦しめているそれは実家に戻ってからは姿を現すこともないだろう。そんなことを願いながら、幾何学模様の画を見つめる。

「あ、うるさくしてまずかったかな」

 気づいたように辺りを見渡すと首を竦めて時田に微笑した。時田も同じように首を竦めると、

「大丈夫」

と笑った。



 それから時田が実家のある長野へ帰省したという連絡があったのは三月に入ったばかりの頃である。

 実家での生活では、夜間に襲う第五の存在は現れなかったばかりか、体重も元に戻りつつあるということだった。

 そして長野県の風景を描くため、クロッキー帳やカメラを持って外へ出掛けているらしい。善光寺の写真が送られてきた。そのほかに新しくできた信濃美術館の来館チケットの写真まで送られてきた。茶屋で食べた団子の写真も送られてきた。

 写真から感じられる長野の風景に、友基は心惹かれ、次第に送られてくる写真を楽しみにするようになった。

 時田がクロッキー帳にスケッチしたものを写真に送ってくれる。その風景はどこか寂しげで郷愁を誘った。

 諏訪湖の氷上は一直線にして盛り上がり抉れて反りあがった氷がきらきらと日の光を受けている。そのスケッチは実際の御神渡りの風景よりももっと寒そうに凛とした空気を纏う一枚だった。

 眼鏡越しの真っ直ぐな視線を対象に向ける時田。

 高校生の頃、その姿から伸びる手の先に持つ絵筆が、まるで魔法のステッキにも見えた。

 時田は冬を描く。

 ありありと目の前に浮かぶ冬の情景は、時田によってカンバスに載せられる。

 顎の下で真っ直ぐに切りそろえられた時田の髪はその横顔を隠し、表情は朧気だ。

 高校生の時田を思い出そうにも思い出せない友基は、描かれた絵が醸し出す印象と時田とが重ねられて浮かび上がる。

 

 


 3 猫また再び春の宵



 春休みも終えて新学期が始まる四月。街に植樹された桜はとうに見頃を過ぎ、地面に向かってちらちらと桜吹雪も舞う頃だった。

 長野県から便りをくれる時田は大分元気が戻ったようだった。自撮りした写真に写る時田を見る限り、頬に赤みもさして二十歳の女の子らしいはつらつとした笑顔が見ることが出来た。

 友基と美澄は三学年に進級した。砂川は四学年に進級し、春に資格課程の教育実習を控え、図書館通いが続き、部室に顔を出すことも少なくなった。

 閑散とした部室で友基は美澄と向かい合わせになる。

 美澄は相変わらず窓際にパイプ椅子を自分で用意して俳句を詠んでいる。

「ほのぼのするねぇ。俳句にもこのあったかさ、載せたいなぁ」

「なに、ぼけたこと言ってるんだよ。オレは花粉症で春は泣けるよ」

「それも俳句に起こしなよ」

「それにしても美澄の句に出てくる『君』は誰なんだよ」

「またその話? だから友基のチャンみたいなものだって言ってるでしょ!」

「愛猫ってこと? 誰なんだよ」

「猫でいいよ。むしろ猫なんだってば!」

「猫、飼ってないって言ってたじゃねえか……」

 ぶつぶつと言っていると、歳時記を捲っていた美澄が、

「ほら、春もたくさんの季語がある。まずは一句」

――花杏シャッター越しの君の顔

「だから『君』って猫じゃないだろう、明らかに……」

「いいから友基くんも」

 美澄が急かすのを友基は渋々、書いた俳句を見せる。

――猫の恋めでる草の間閨のなか

「これは新婚の猫夫婦を詠んだ句なの? 友基くんのチャンも新婚?」

「チャンもお年頃だからな」

「やるな」

 友基は苦笑しながらぱらぱらとクロッキー帳を捲る。

 すると。

 冬の頃詠んだ1ページに目がとまる。

「なんだろう?」

 友基はクロッキー帳を鼻の先まで寄せる。目を凝らす。

「これ、血?」

 友基は嫌な予感に背筋が凍る。

 長閑な春の昼下がりにふさわしいと言えない寒気が襲う。

 まさか。

 まざまざと思い出される。

 首筋にあてられた鋭い牙の感触。

 溢れる血膿。

 そんな、まさか、な。

 友基はクロッキー帳をぱたりと閉じると立ち上がり、ううんと伸びる振りをした。

「オレ、行こうかな。チャンも昼寝から目が覚めた頃だし」

「チャンのために帰るんだ。友基くんとチャンが新婚だったりしてね」

「美澄の『君』が誰なのか教える気になったらいつでも聞くからな。じゃあな」

 友基はリュックを担ぐと美澄に背を向け部室を後にしたのだった。



 友基のアパートは渋谷の繁華街から離れるように歩いて行った先の坂の上にある。ボロいアパートだったが気に入っていた。チャンは家の近くのゴミステーションに捨てられていた猫でチャンと目があった瞬間、もう抱きかかえていて、自分が飼おうと決めたのだった。

 子猫の頃に十分に母親からお乳を与えられなかったためか、チャンは栄養不良で痩せていた。手足も短く、小柄な体格をしていた。

 チャンを引き取った友基ではあったが、しばらくチャンの甘噛みする癖に手や腕までも傷だらけになり、随分悩まされた。早くに乳離れしたための行動なのか、どんどんエスカレートして痛くて堪らない。友基はチャンにおもちゃを買ってあげ、それを噛ませることにしたのだった。

 成猫になった今も時々甘噛みしてくるチャン。こうやって家から帰って喉を撫でてやっている今も、撫で方が気に入らないのか牙を向けてくる。

「チャン、痛いよ……」

 それでも構わず喉を擦る。チャンは薄目をあけてじろりと友基を睨んでいる。

 チャンを自分の脇に追いやると友基はクロッキー帳をじっと見つめた。

 あの血の跡は……

 化け物が出てこなくなってから数ヶ月経っていた。もう薄れかけた記憶に化け物を句に詠んだりはしない。

 クロッキー帳を開いてあの頃詠んだ句の書いてあるページを探す。

――霜柱小夜更け轟く猫のこえ

――冬枯れのへやにあらくる猫の鬼

 今詠んだだけでも背筋は凍りそうになる。春の宵に余寒(よかん)が染みいる。

 ふいに。

 友基は耳を覆った。

 あの鳴き声。おぞましく響く猫の鳴き声。

 化け物だ。

 友基は身を竦めた。

 耳をつんざくおどろおどろしい鳴き声。

 すると、まさかチャンが。

 化け物の鳴き声と共鳴するように鳴き声を上げる。

 外で喧嘩相手に向けてあげるあの鳴き声を。

 友基の方を向き、唸りを上げる。

 友基は思わずひるんだ。まさかチャンが。

 今にも飛びかかろうと友基を睨むチャン。

 ううーぅぅうおーうぅぅ……

 チャンを見つめながら友基は耳を押さえる。

 チャンの尻尾は膨れ上がり背中を弓なりにしならせ呻いている。

 付いていた照明はプツンと音を立てて消え、真っ暗な室内に一瞬にして変わる。

 真っ暗な部屋で、チャンの眼光のみが光る。

 じりじりと後じさる友基は壁に背中がぶつかると息を飲んで身を潜めた。

 硬く唇を噛む。

 その瞬間。

 チャンが吠えるようにして鳴き声を上げ、友基に襲いかかる。

 とっさに友基は腕を上げ身を庇うと、

「うわああ」

 そのまま床に倒れ伏した。

 チャンは甘噛みするように、友基の腕を噛んでいる。

 痛くない、そう思ったときだった。

 化け物のうなり声が空気を揺らすように部屋全体に響くと、ガチャン、とテーブルに置いてあったグラスが割れ、破片が飛び散った。

 なおも友基の腕を甘噛みしてくるチャン。

「チャン……」

 チャンの尻尾は二股に分かれ、ゆさゆさと揺れている。

 猫またか? チャンは妖怪なのか……?

 喉をならし友基の体に自分の体をおしつけてくるチャンは、

「んなあ」

と一声鳴いた。

「チャン、お前……」

 部屋に響く化け物のうなり声はやがて遠ざかっていくように段々小さくなると、完全に静寂の時に戻る。

 友基は起き上がり、暗くなった照明を見上げた。それからスイッチを入れ明るさが戻ると、割れたグラスを拾い始めた。

「チャン、こっちに来るなよ。いま片付けてるから」

 新聞紙にひとつひとつ破片を集め、それを丸めると袋に縛る。チャンはごろごろと喉を鳴らしながら、目を硬く瞑り座った姿勢でいる。

 チャンの尻尾はいつの間にか元通りに戻り、体を沿うように収められている。

 確かにチャンの尻尾は二股だった。  

友基はチャンの尻尾を凝視する。

 今となってはいつも通りのチャンだ。二股だったのは幻だったのか?

 チャンを遠巻きから眺める友基は、割れ物が入った袋を台所のごみばこに入れると、怯えるようにへたり込んだ。

 怖かった。

 自分は化け物を退治できたわけではなかった。友基は項垂れた。

 見えない怪物は今度はチャンの体を借りて自分に襲いかかってきた。

 あいにく、化け物の思い通りには行かなかった。

 チャンは手加減して、友基に甘噛みをしてきた。

 可愛がってたて飼い犬と猫またを錯覚してしまったという連歌師の笑い話が、徒然草だった。まさにチャンが猫またになって襲ってきたわけである。

 そう、これは笑い話だ。友基はそう思おうと立ち上がった。

 落ちていたクロッキー帳を拾うとペンを取った。

――春の宵物語似た夢の猫

 クロッキー帳をぱたりと閉じると、友基は大きくため息をついた。



 長野から東京に戻ってきていた時田と会う約束をしたのは五月の連休前の頃だった。

 時田はまた銀座のギャラリーで絵を展示するということで、DMも送って寄越した。そのDMには時田が長野の描いていただろう風景の絵がプリントされており、友基はそれを眺めながらギャラリーに訪れるまでの日を楽しみに過ごしていた。

 街路樹の枝葉は青々と茂り、風に揺れる度、光が透けてその影とが道路に落ちてきらきらとさせていた。

 銀座の街を歩いている友基はほんのり背中に汗をかいている。熱気が胸元から上ってくる。

 高速道路下のギャラリーのドアをくぐる。

 数ヶ月ぶりのギャラリーは新しい絵の展示に様変わりし、前回とは雰囲気も違って感じられる。

 二月の頃は平面の展示が中心だった一階の展示スペースは、今回は立体も加わり空間に奥行きを感じさせる。

 時田の絵を探す。

 一枚一枚壁沿いを伝って眺めていく。

 展示された絵は全て時田と同じT美大の学生の作品だ。

 版画の作品が中心らしい。版画を制作するグループの展示ということなのだろう。

 展示スペースの隅に時田の姿を見つけた。

 友基は手を上げながら近づいていく。

「おはよう」

「おはよう。ひさしぶり」

 時田は久々に再会したあの頃のように笑った。

 時田の頬はふっくらと桜色をしており、いきいきとした表情で元気も良さそうだ。高校の頃の面影も感じられ少女のような名残を残すその微笑に友基は思わず笑みが綻んだ。

 時田が笑った瞬間、肩で切りそろえられた髪が揺れる。

 時田が立つ脇には、時田の描いた絵が展示されていた。

友基は真向かいに立つ。

 それは諏訪湖の絵だった。湖上は薄く氷の張っているような透明感に、曇天の空とまるで映し鏡のように溶け合っている。

 空を飛んでいく渡り鳥なのだろうか。気忙(きぜわ)しげに翼を広げている。

 湖の周りには散歩する人々はなにか物憂げに湖を見つめている。

「これは? 絵の具?」

「そう。油彩なの」

「たしか前、ここで見た絵は……」

「あれは木版画。私、版画科なの」

 友基は辺りを見渡す。確かにこの展示スペースに展示された絵は版画が多い。

「そうなんだ。それで今回油彩にしたのは……」

「N芸術大学に編入するときは油彩科にチャレンジしようと思って。それで油彩画を描きためてるの」

「今年は受けるんだね。がんばれ」

「ありがとう。ねえ、この間のカフェに移らない? 久しぶりに話をしよう」

 時田はにっこり笑って友基を見上げた。



 こうやって面と向かっていると時田は二ヶ月前とは同じ女の子のように見えない。小柄な体型は変わりようもないが、大分ふっくらとしてきた。

 友基はコーヒーカップを手に取って口に付けた。

 時田はアイスティのグラスを持ってストローでガムシロップをかき混ぜている。

「長野の写真とかたくさん送ってくれてありがとう」

 友基はスマートフォンをふるふると振って見せた。

「友基くんも懐かしいかな、と思って。地元の諏訪だけじゃなくて、松本とか長野に行った時の写真もどうかな、と思ったの」

「うん。松本城も随分行ってないけど変わらないね。実家では休めた?」

「うん。充電できた」

 時田は甘いアイスティを、つつとストローで吸い上げる。

「夜に第五の存在は出てこなくなった?」

「それが、こっち帰った途端にまた……」

 時田は前髪に手で払って、はは、と力なく笑った。

「そんな……だって向こうにいる間はなんともなかったって……」

「そう。長野にいる間はね、なんともなかった。でも平気なの。私、夜に描いてるから」

「描いてるって寝てないってこと?」

「ううん。ちゃんと寝てるよ。夜、寝落ちしちゃうギリギリまで絵に向かってるの。もう限界。もう描けないって倒れる寸前まで描いて、あとは朝までぐっすり」

「そんないつまで続くかよ」

 友基はテーブルに項垂れた。

「でも自分で一番いい方法を見つけたの。絵を描き続けることで第五の存在に隙を作らないようにすれば、夜、痛い目に遭わなくても済む」

 時田はそう力強く言った。

 時田は戦っている。

「食事もちゃんと摂るように心がけてる。夜、出てさえこなければ普通の毎日と変わらない。朝起きたらご飯食べて、学校行って……普通に過ごせる」

 時田の横顔は窓からの光を受けて輝いている。

 友基はふっと息をつくと、

「実はオレの所にもまた化け物が現れてきちゃってさ。オレは猫の化け物と戦ってるんだけど」

「猫の化け物?」

 時田は眉根を寄せる。

「そう。噛みつかれたり、引っ掻かれたりするんだよ。オレは俳句を詠むことで退治できたと思ったんだ」

「対策が一緒ね。私は絵で。久保田くんが俳句で。文化的な方法で悪夢と戦っている」

「文学部だからな」

 友基が力なく笑う。

「この間はウチの猫までオレを襲ってきてさ。まるで徒然草の猫またのような話だろう? 化け物と共鳴してうなり声をあげたりしてさ。チャンはごろごろ喉を鳴らしながら甘噛みしてくるんだ。まったく物語みたいな話だよ」

「徒然草? 吉田兼好?」

「そう。噂に聞いていた恐ろしい猫または実は可愛がっていた飼い犬だったって話。」

「徒然草は読んだことないけど、化け物の正体は化け物でもなんでもなかったってこと?」

「そういうこと」

「そうか……」

 時田が考え込むように頷くと、

「私の所に出る魔物。火をお腹いっぱい食べさせる第五の存在も、化け物でもなんでもないってことなのかな?」

「そうかもな。俳句同好会の部長は、化け物はオレの念力だって言うんだ。思春期の少年の念力だって」

 そう言いながら、時田のことを思い出して猫の恋の句を詠んだ自分を思い出し、思わず赤面した。時田の絵に会えるかも知れないと探し回った自分に顔から火が噴いてしまう。

「ん?」

 不思議そうに友基の顔を覗き込む時田。

「大丈夫?」

と心配そうに眉を寄せる。

「いや、暑くなってきたって言うか! もう昼だし。あったかいなぁって、ははは……」

「確かに昼間はちょっと汗ばむ時もあるくらい……」

と窓の向こうを見上げた。眩しそうに目を細めると、

「でも、いいアドバイス貰えたわ。そっか、化け物じゃないんだ」

「芥川龍之介は『人生は地獄よりも地獄的だ』『人生の苦しみは火に燃える飯のたぐいよりもっと複雑だ』と言っているんだ。つまり、オレらに起きてる現実は芥川のいうように地獄よりも地獄の人生なんだよ。苦しみは複雑で、深くて、悩ましくて、痛かったり、悲しかったりするものなんだ。その合間にある楽しいことや嬉しいことがあるからこそ、余計、苦しみは抉るように痛みとなって訪れてくるものなのかも知れない」

「私はいい絵を描きたいっていう貪欲な思いがある。それが私を苦しめるし、楽しくもさせる……」

 オレは……と言いかけて口を噤んだ。

 時田の絵が好きだよ、と言いかけて口を噤んだ。

 口から出る言葉が、まるで恋の告白のような甘さを含んできそうで喉にでかかった言葉を飲み込んだ。

 これではあまりに甘すぎる。

 友基は首を勢いよく左右に振った。

 恋心を振るい落としたかった。

 向き合っているだけで体中がくすぐったくなってしまうのを、友基は身をよじって苦笑する。

 情けない……

 下向いた顔は火照っていて、どこに隠しようもない。とりあえず持ち上げたカップも手が震えてしまっている。

 時田は目をぱちくりさせて、友基の挙動を気にしているようだ。

 友基は咳払いしてカップをソーサーに置いた。もう一度、咳払いをしたら本当に痰が喉に絡んでしまい、思いがけず咳き込んでしまう。

 静かなカフェバーに響く咳の音。

「大丈夫?」

 心配そうに覗き込む時田の顔がアップに迫ってきて、友基は慌てて、更に咳き込みが止まらない。

「大丈夫? 水……」

 コップを差し出す時田。それをもぎ取るように受け取ると、友基は一気に煽った。

「あー、落ち着いたぁ。うえっほん」

 深呼吸するが、時田の顔が見れない。

 妙に顔を背けてしまう。

 オレはばかものだ。心底そう思うと同時に時田が笑い声を上げた。

「大丈夫? 久保田くん。おかしい。変な咳」

 くくく、と声を押し殺すように笑う。

「そう? 変だった?」

 ははは、と友基も笑う。

 ようやく顔を上げて時田の笑顔を真正面から見つめる。

 可愛いと思ったことなど一度もなかったはずの時田が、なんだか今日は笑顔が眩しい。

 胸がきつく締め上がって息が止まりそうになってしまう。

なんとか逃げ場所を作ろうと苦し紛れに、時田からもらったポストカードをリュックから取り出した。

 会話のネタにしよう。そう思って、ポストカードに目を落としたときだった。

 あれ、これは……今までもあっただろうか?

「ねえ、ここ」

 友基はポストカードの湖の部分を指さす。

「ここ、湖のところ。これって、なんだと思う?」

「え? きゃっ」

 友基は目を凝らしてポストカードを見つめる。

 湖の上に白い影のようなもの。

 明らかに人の顔が映り込んでいる。

 顔はなにか苦しそうな表情で口をぽっかりとあけ仰向いているように見える。

「これは時田が描いたわけじゃないよな」

「そんな! まさか!」

「そうだよな……」

 絵の具の流れでそんな風に見えるというわけでもなさそうだ。

 それだけはっきりと人の顔に見える。

「これ、女の人だよな、多分……」

 顔を近づけて見ている友基を時田が、

「ねえ、もうやめよう。しまって」

と顔を背ける。

「実はオレのクロッキー帳にも……」

とクロッキー帳を取り出して開くと、

「なに?」

 時田は怯えた顔でクロッキー帳を見つめている。

「ほら。この句の隣。見て」

「いや……これ、血?」

「そう。この場所に消えたり現れたりするんだ。オレが化け物に噛まれて出た夢の血だよ」

「夢の血? 本当に出ているわけじゃない?」

「そう。化け物が消えた途端に、血が消えちゃうんだ。傷も跡形もなくなって……まるで夢のできごとだったみたいに何にもなくなってしまうんだ」

「消えちゃうの?」

 時田が心配そうに友基を見つめる。

「だから、このポストカードの顔もきっと消えちゃうような気がするよ」

とポストカードを改めてじっと見る。

 なんだか、この顔……

 この女の人……時田?

 ぽっかり開けられた小さな口。一重まぶたの切れ長な目元。

 それに、なんとも苦しそうな表情。

 ふとそんな考えがよぎるも、友基は首を振った。

 時田を怖がらせてはいけない。

 友基は唇を堅く瞑って、ポストカードをしまった。

「そっか、消えることもあるのね」

 時田が安心したように一息ついた。

「時田が夜、寝落ちするギリギリまで絵を描いてるのはいいことだよ。自分がみつけた対処法で化け物の出現からすり抜けて生活するのは賢いやり方だと思う」

「うん」

 時田の思いついた対処法であったが、自信なさそうに頷く。

「元気出せよ。必ずまた眠れるようになるさ」

「久保田くんも。化け物が出なくなるといいね」

 友基が力なく笑うと時田も小さく微笑んだ。

 それから時田と別れ、帰りの銀座線の車内で友基はもう一度ポストカードを取り出す。

 やっぱり時田に似ている。

 恐ろしいという感情よりも、なにか物悲しさを感じさせる白い影は、こうやって時田と離れた時に彼女を思い出す友基の気持ちとどこかシンクロしていて、いつまでも見つめてしまうのだった。

 もしかして、オレの心の投影だったりして……

 諏訪湖の湖にぽっかり浮かぶ時田の影は、なぜかその風景によく馴染んでいた。



「まあなんというか、それは恋だな」

 砂川はにやにやしている。

「やめてくださいよ、部長」

 友基は極力動揺していないような素振りで、平常心を装って砂川の言葉を退けた。

「そんなわけないじゃないですか。彼女には同情はしてますよ、そりゃ」

 小さく咳払いして威厳ありそうに言う。

「いや。恋だな。それも思春期の恋。あの頃成就出来なかった思春期の恋心ってやつだ」

 部長に相談しなければよかった……と赤面する顔を下向けて苦笑する。

 教育実習を終えた砂川がすっきりした表情で久しぶりに部室に訪れたのを、捕まえたのは友基の方だった。今日は梅雨寒で薄手のカーディガンを鞄から出して羽織る砂川にコーヒーを煎れてやった友基は、急いで席に座らせる。

 ポストカードに映る白い影を砂川に見せながら、今までの顛末を説明したが、なぜか話の方向は恋、という一字に流れてしまった。

「飼ってる猫に襲われるわ、恋をしたためた句を詠むわ、これは確実だね」

「何がですか」

 友基はじと目で睨む。

「恋に臆病になってないかい。久保田くん」

 砂川ががっしと友基の肩を組む。

「重いですよ。部長」

 友基は砂川の腕を振りほどくと、

「あくまで部長はその路線で行きたいんですね」

「そりゃ、面白いからな」

 平然と言ってのける砂川に、

「面白がらないでください」

 ったく、と嘆息する。

「時田の描く絵に白い影なんて映らないらしいですからこのポストカードは不思議です。オレが持ってるこの一枚にだけ映っているんです。オレの方に問題があるのかなって思わせますよね」

「この影は彼女に似ているって言うんだろう? 確かにこれは女性だな」

「この絵を描いた直後くらいから、夜、不思議なことが起こるようになったって時田は言ってました。ちょうど編入試験を受けた頃に描いていた絵だって」

「編入試験を受けるって今の大学よりもっと上を目指したいってことだよな。向上心がある人なんだろうな……」

「絵に関してはかなり。妥協したくないんだろうなって感じです」

「で? 久保田は彼女のそんなところに惚れたのだろう。一生懸命な彼女に」

「どうしても話をそっちに持っていきますね……結果的に寝ずに制作に打ち込むことで不思議な現象から回避しているわけだから、自然、描きためられるわけですよね。」

 砂川は友基が煎れたコーヒーに口を付けると、

「まるで自分自身と戦っているようだな。創作意欲に変えてしまうなんて」

「そこが時田のすごいところです。それで第五の存在が現れないのだから戦士と言えます」

「第五の存在って?」

「時田が自分に火を食わせる現象を第五の存在と呼んでいるんです。食卓を囲む自分の家族以外の第五番目の存在が、自分に火を食わせているという」

「その存在はまるで自分自身と言えそうだな」

 砂川は眼鏡を中指で持ち上げる。

「そうだろう? 絵を描いていたら不思議なことが起こるようになったって言うし。その現象を防ぐために必死で描いているっていうじゃないか。絵に対する貪欲な思いから発生しているように思えてならない」

「部長はあくまでオレたち自身の問題として捉えてますよね。オレの化け猫のことにしろ、念力だって言うんだから」

「当たり前だろう。非科学的なものとして認識できるわけがない。私は説明のつくように話しているだけだ」

「思春期の子どもの悩みだって言うんですか。前も言ったけど、オレはそんな年齢じゃないですよ?」

「だから笑えるんだろう? いいかげん恋してるって認めろ」

 友基は二の次の言葉に詰まった。俯いてしまう。

「認められない限り、久保田は思春期のまんまだ」

「そうですか……」

 完全にやり込められてしまった。砂川を前にしたら素直に言ってしまっていいような気がした。

「そういう部長は恋愛してるんですか。人をお子ちゃま扱いして」

「私は彼氏がいるよ。ちゃんと」

 おもわず目が点になってしまう。初めて聞く話だった。

「そうだったんですか! で? どこのだれなんですか?」

「ウチの大学だった人。今は卒業して中学の教師をしている」

「ええ? そんな人といつの間に!」

「彼が在学中の頃だよ。久保田はだいたいそっち方面に疎いというか、にぶいというか……美澄のことにしろ」

「え? 美澄がどうかしたんですか?」

「ううん。まあこの場ではいいから」

 砂川がごもごもと口を濁しているのを不審そうに友基は眺めると、

「美澄もまた化け物に襲われてるってわけじゃないですよね?」

と詰め寄る。

「ああ、もう鈍いなあ。美澄はもう解決してるよ」

「ほんとですか?」

 不安そうに見つめる友基を、

「美澄は季語をいれて詠み始めてから化け物を見てない」

「ほんとなんですね」

「みてない」

「よかった」

 友基はほっとして肩で息をすると、

「人のことより、自分だろう」

と砂川に諭されてしまう。

「オレと美澄の違いってなんなんでしょう……美澄はあれから化け物をみてないんですね」

「美澄の俳句は素直だからな。でも比べることもないだろう。久保田も猫で詠み続けて……どうなんだ? なにか分かってきたこととかないのか?」

「分かってきたこと……」

 友基は腕を組む。

「そもそもどうして久保田は猫の句を詠むんだ?」

「どうして、か?」

「そう。なんでだ?」

 砂川に改めて聞かれて返答に困った友基は必死でそれらしい理由を見いだそうとした。

 なぜかって? 

 チャンがかわいいからだ。

 それ以外にない。

「ウチの猫、傷だらけになって帰ってくるんですよ」

 友基はぽつりぽつりと話し出す。

「野良猫と毎晩争って、切ない声で毎晩鳴いているんです。ものすごい濁声で。夜通し喧嘩して、傷作って、汚くなって帰ってくるんです。哀れですよ。雌を巡って喧嘩してるのかもしれないし、なわばり争いのために喧嘩してるのかもしれない。泣き続ける声を聞いていると、なんとも哀れなんです。歌にも聞こえて。夜はとても静かだから、チャンの鳴き声はよく響いている」

「猫が歌を歌っているわけだな」

「そうです」

「それを久保田が俳句で詠むと。そういうわけだな」

「詠めてますか?」

 友基が自信なさそうに言うと、

「さあ、どうかな」

と砂川ははっきりとは答えてはくれない。

「もっとよくなる余地はたくさんあるよ。俳句は十七音しかない。意味が重なる情報は書かないようにするのがセオリーだ。久保田のは説明しすぎな俳句が多い。そこを配慮してみたらどうだ?」

「気を付けます」

「そういう私もうまくは詠めない。人の粗はよく目立つというものだ」

「いえ。参考になります」

「うむ」

 すっかり冷えたコーヒーを一気に飲み干すと、砂川は笑って、

「久保田も化け物を見たくないだろう。ここはどうだ。告白してみるってのは」

「なに言ってるんですか、部長!」

「はは。いい案なのにな。ははは」

といつまでも笑っている。



 一日かけてうっとうしい陰雨が降り続いていた。思わずため息が漏れる。

 何をすることもなく日中が過ぎ、雨と共に部屋で自粛するような時を過ごしていると、あっという間に日は落ちていった。

 レースカーテンを引いた室内は暗く、友基は立ち上がって照明をつけた。何度かちかんちかんと明滅した後、室内を明るく照らす。

 友基はスマートフォンに目線を落とす。ツイッターに投稿した俳句にチャンの画像を添えてみたところ、以前よりいいねが多く返るようになっていた。左手でタップしながら、フォロワーの作った俳句にも友基はいいねをつける。

 梅雨を迎えてから雨を詠んだ句が多くなっている。梅の実が熟する頃の雨のため、梅雨と呼ばれるらしく、古くから梅雨の他に様々な梅雨の呼ばれ方があったことを知った。

 友基は窓枠にはびこる黴を見つめながら、窓を打つ雨の音を聞いていた。

 やかんに火を掛け、お湯を沸かす。インスタントコーヒーの瓶から一匙、コーヒーを入れるとお湯を注ぐ

 ブラックコーヒーができあがると、口をすぼめ啜った。マグカップから湯気が立ち上る。

 コーヒーを飲みながら、台所に立つ。昨日買ったばかりのニンニクとベーコンとアスパラを取り出す。美澄からペペロンチーノの作り方を教わったのだ。まな板の上に並べていく。

 慣れない手で包丁を持つ。腰を折って切っていく様はさながら初心者といったところだ。

 美澄に言われたように、オリーブオイルで香りが立つまでニンニクを炒める。たった一つしかないコンロのため、炒めながらな同時にパスタを茹でると言った芸当ができない。せっかく教わったペペロンチーノだが、そう何度も作らないだろう。

 炒め終わったフライパンを脇に置いて、小鍋でスパゲッティを茹でるための湯を沸かす。思ったより時間がかかる。

 家では肉野菜炒めを作るか、鍋を作るか、そんな話をしていたときに美澄に簡単でおいしいからとペペロンチーノを習ったのだった。美澄は時々部長の姉御肌なのを真似して友基に接してくるような時もあって、友基は辟易しながら聞いていたのだった。

 美澄は作ったら感想を教えてよ、と命令してメモに作り方を書いてくれる。メモを脇において、パスタを茹で時間一分早くざるにあげるとていねいに湯切りした。

 フライパンをゆすったことなどないのに、友基はなりきってゆすってみる。塩を入れる。

 パスタはレトルトを温めたのをゆでたパスタに掛けるという作り方以外知らなかった友基が、初めて作ったペペロンチーノを眺めた。皿に移すがあまりおいしそうとは言えない代物だ。

 お店に出されるものを真似して、ベーコンやアスパラを表に盛り付けて見た目をよくする。できあがりだ。ぬるくなったブラックコーヒーも脇に置いて、さっそくフォークに巻き付ける。

 一口食べてみると、見た目よりおいしい。多めに振り入れたオリーブオイルがよかったのかも知れない。ニンニクが鼻から香って食欲をそそる。

 あっという間に食べ終わってしまい、油で濡れた唇も拭かずにコーヒーを飲み込んだ。

 ふうと一息つくと、油が残る皿をみつめて、台所にある汚れたフライパンやざるや小鍋を見遣った。洗い物がめんどくさそうだ。うっちゃっておき、スマートフォンを右手に取った。

 言われたとおりに美澄に感想を送る。「うまかった」それだけ打って送信する。

 玄関でチャンの鳴き声が聞こえた。前足でかりかりと玄関を引っ掻く音だ。友基は立ち上がると台所を通って玄関を開けた。チャンがするりと中に入ってくる。

 チャンは濡れている。泥が跳ねて、茶トラの模様がなんだか分からなくなっている。

「だから出るなって言ったじゃないか」

 チャンを小突くと、んなあと鳴く。チャンが体を舐め始めたのを友基は抱きかかえた。

 風呂場に連れて行くとチャンが逃れようと爪をたてて友基の肩の上を登っていこうとする。

「チャン! そうはさせるか」

 風呂場のドアを閉めると、蛇口を捻った。シャワーの出る音にチャンは怖がって友基に爪を立てる。

「痛いなあ。チャンが悪いんだぞ」

 チャンの後ろ足の方からお湯を掛けてあげる。チャンはますます怖がって友基にしがみつく。

 シャンプーを手に取って泡立てるとチャンの毛の上に載せていく。泥で毛玉ができている。丁寧に撫でていくがチャンは友基の背中の上に上っていこうとする。

 しがみつくチャンを洗いにくそうに泡を撫でつけていくと、自分まで濡れてしまう。捲ったTシャツもジーンズもずぶ濡れだ。ここまで濡れてしまうともう構うもんかと気にせずチャンにお湯を掛けていった。

 毛が濡れてしおれた体はほっそりとしていて、やけに頭が大きく感じてしまう。尻尾もまるで小枝のように細い。思わず吹き出しながら丁寧に毛を撫で、シャワーをあてる。

 タオルを取り出し、わしゃわしゃと拭いてやると、チャンがふるふると体を揺すった。

「うわっ」

 水滴が四方に飛び散って友基の顔も濡らす。

「ちゃんと拭いてからにしろ」

 タオルから逃れてチャンは少し行くと、座って体を舐め始める。

「ちゃんと拭け」

 友基がタオルをおしあてるもチャンは走って行ってしまう。

 友基は諦めるとすっかり濡れた自分の体を見遣った。Tシャツを脱いで裸になると、風呂場に戻って自分にシャワーをあてたのだった。

 シャワーから上がると、すっかり綺麗になったチャンと自分とに満足しながら新しいTシャツに腕を通す。スウェットを履き、どっかとあぐらを掻くとチャンを抱き上げた。

 チャンは一生懸命舐めていたがまだ半乾きだ。チャンを抱きながら自分の長い前髪をタオルドライしていく。チャンは友基のあぐらの上で器用に体を舐め上げていく。

 チャンは顔を上げ、耳をひくひくと震わせると、また玄関の方を走って行った。

「また出たいのかよ」

 ため息をつく。仕方なく玄関のドアに手を掛けるとすり抜けるようにチャンは出て行った。

 細く開けられたドアから夜風が滑り込んでくる。

 窓を小さく打つ雨音になお降り続ける空を見上げるように窓の向こうを見据えた。厚いカーテンを引くと一息ついて鞄の中を探る。

 歳時記を手に取った。挟めていた時田のポストカードを手に取ると、それをじっと見る。

 白い影はくっきりした顔のかたちで諏訪湖の上に印されている。

 苦しそうな表情。

 こんな表情で時田は夢で火を食わされているということなんだろうか。

『まるで自分自身と戦っているようだな』

 砂川の言葉を反芻させる。

 時田は地獄で戦っている。地獄よりももっと地獄の人生を。

 「んん……」

 友基はその場で仰向けに倒れる。

 強い力に抑え込まれる。

 「ああ……」

 小さく呻く。

 耳の奥にまで響いてくる鳴き声。

 あれから日を置かずに毎晩と訪れる化け物に、友基は身を竦めていた。

 一つ、変化があった。

 首筋を抉られることはなくなっていった。

 頬を引っ掻く傷も出来なかった。

 金縛りに遭う。

 うなり声が響いてくる。

 それだけが毎晩のように続く。

 うなり声は、ともするとチャンの夜中の喧噪と被さるようにも聞こえて、化け物と聞き分けが付かなかった。

 チャンは相変わらず外で野良猫と喧嘩して、傷を作って帰ってくる。

 変わらないチャンの様子と、自分の身に訪れる怪異な出来事はどこかつながっているようにも思えた。

 友基はチャンを夜、外に出すのを渋ったが、チャンは玄関の前で鳴き声をあげ、前足で掻いては出せとせがむ。

 仕方なく外へと出してやると、チャンは長い時間、帰ってこなかった。

 そして真夜中も過ぎた頃になると、うなり声を上げる。

 猫同士体のぶつかり合う声を聞くと、決まって友基の身にも怪物が訪れる。

 自分を踏みつけようとする圧迫感。呼吸も苦しく細く嘆息すると、響く鳴き声。

 外で戦うチャンと共鳴するようだった。

 チャンは猫またなのか。あの日、二股だったチャンの尻尾を思い出しては反芻させる。

 友基は押さえ込まれる力を振り切って、右手を伸ばし、時田からもらったポストカードを寄せた。

 苦しそうな表情で口を開け仰向いている白い影。

 それを手でなぞった。

 今頃時田も苦しんでいるだろうか。

 チャンの吠えるような鳴き声が夜の寂静を切り裂くように響く。

 友基の室内にもおどろおどろしく鳴き続ける化け猫の声。

 オレが戦っているのは化け猫だ。

 時田は第五の存在と戦っている。

 化け猫はチャンなのか。

 部長が言うように、この怪異な現象がオレの念力というなら、オレに出来ることは?

 オレは俳句を作ることしか出来ない。チャンを詠むことしか。

 時田も救ってやれない。時田は第五の存在と戦っているというのに。

 やきもきする思いを振り切って、自分は俳句を作らなければ、と意気込む。

 友基は目を瞑った。

 ――恋猫の空染める星露に落つ

 時田を詠いたかった。歌を頭に響かせる。

 小さく口ずさむと、チャンのうなり声は遠くに消えるようだった。

 やがて白んでくる星空を願った。

 夜明けになれば喧噪も終止符を打つだろう。

 時田は眠った頃だろうか。絵筆を持ちながら、眠りについた頃だろうか。

 オレは時田を好きなんだろう。

 そう思うと、心に何か優しい気持ちが灯った。

 それはなんだか寂しい優しさだった。

 冬の頃を思い出す。

 雪に埋もれた春を待ちわびる芽。

 じっと耐えるけなげな時田が浮かんだ。

 痛みを乗り越えようとする時田の姿が浮かんだ。

 その瞬間、金縛りが解け、鳴き声は遠くに退いていった。

 初夏の夜は穏やかな体温を残したまま、友基は布団に倒れ込んで深く眠っていった。



 4 転機となって



 朝、目を覚ます。チャンが玄関をかりかり掻く音に目を覚ましたらしかった。

 まだアラームの鳴る時刻ではない。カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。

 玄関を開けてチャンを入れる。

 開けた扉の間から爽やかな風が入る。

 雨は止んだらしかった。雀が何羽か、じゃれあうように鳴いている。

 新聞の配達バイクか、通りを走っては止まりして友基のアパートの前も駆けていく。遠くに走り去っていくまで耳を澄まして聞いていた。

 その時スマートフォンが震えた。

 こんな時間に? 思わず緊張が走って、慌てて手に取る。

メッセージを開ける。

 時田からだった。

 なにか嫌な予感に胸がざわついていった。

「え?」

 目を疑う。

「うそだろ」


――昨日の朝、学校に行く途中に事故に遭ってしまいました。私、赤信号を渡っていたみたいで。車に轢かれてしまったんです。左腕を骨折。いま、T病院に入院してます。昨日は痛くて泣いてしまいました。ちょっと寝不足が続いていたかな。反省です。


 どうしたらいいのか分からなくて部屋中ぐるぐると歩き回る。

 事故? 時田が?

 歩き回って、ふと立ち止まる。

 お見舞い、とっさにそう思った。

 会いに行きたい。

 でも行ってもいいものだろうか?

 また歩き回る。

 こういうときは遠慮した方がいいものか……家族は? 長野から家族が来ているだろう。

 T病院ってどこだ? 立ち止まってグーグルで検索する。

 頭がパニックになっている。うまく指が動かない。どうやって落ち着けって言うんだ。

 だいたい車に轢かれたって! なんだよ、そんなことってあるかよ!

 スマートフォンを放る。

 友基は顔を洗い、歯を磨いた。

 思考回路は停止していた。無我夢中で磨く。

 ハンガーに掛けっぱなしにしてあったジーンズと長袖のTシャツを被った。リュックの中に財布があることを確かめると、スマートフォンを乱暴に放って入れる。

 悩むより会いに行ってしまえ。そう思った。

 チャンのお皿に餌をさらさらと入れると、部屋を見渡した。そしてドアノブに手を掛け、外へと飛び出していった。



 都心から逆に向かって行く車内は都心から離れていくごとにどんどんと乗客は減っていった。はやる気持ちで座ってなどいられなかった。

 車内で走ったところで着く時間は変わらない。

 友基はやきもきしながら腰を据えた。

 朝早くに出掛けてしまって、面会時間より早く着いてしまうような気がした。面会時間というものがあるはずだ、と気にしだしたのが遅かった。

 やがて電車は停車し、車内にアナウンスが流れる。

 電車を降りてから、時田にメッセージを送ってみる。面会時間と病室を聞かなくては。焦って出てきた自分を恥じた。

 駅のキオスクの隣で時田からの返事を待った。

 今、近くまで来ている。それが友基をいくらか安心させた。

 歩く人並みをじっと見つめる。まるで異国にいるような気分だった。

 その時。

 スマートフォンが震える。

 パブロフの犬のようにスマートフフォンの画面を見入る。


――ごめんなさい。心配掛けてしまって。こんなところまで、ありがとう。いま、来てもらっても大丈夫です、家族がおりますが。病室は三〇一号室です。


 今からでも大丈夫。時田のメッセージを何度も読み返す。よかった。会いに行ける。

 友基は立ち上がると、スマートフォン片手に歩き出した。

 一歩ずつ時田に近づいている。その実感が勇気づけた。

 病院に着く。思わず見上げた。

 古びた外観に時代を感じさせてしまう。しかしまるでお城のような病院だった。

 中に入って総合案内を探す。受付に面会を告げるとそのまま中へと通される。エレベーターの前に立って、登りの矢印ボタンを押した。

 三階に着く。ナースステーションの前を通って、すぐ目の前に三〇一号室があった。

 どうやら何人かの相部屋らしい。入り口を抜けると、すぐ右側のベットに時田がいた。

「時田」

 友基は息を飲む。パジャマを着た時田がベットに座っている。

「久保田くん」

 隣にいた母親らしい女性がうなずいて、病室を出て行く。友基は頭を下げ挨拶すると、体を避けて一歩時田に近づいた。

「ごめんね。心配かけちゃった」

 時田は力なく笑う。左腕は包帯に巻かれている。

「心配したよ。どうしたんだよ」

「横断歩道を渡っているときに右から来た車にぶつかっちゃって。急ブレーキの音にびっくりして、私は歩道に逃げたんだけど。見たら歩行者の信号は赤だったんだよね。ぼーとしちゃってたみたい」

「うん」

 友基は相づちしかできない。

「完全に寝不足。絵が完成間近で興奮してたの。明け方まで描いて、そんな日が続いていた」

「うん」

「第五の存在は夜出てくることはなくて。夜通し描いていたし」

「うん」

「昨日は病院にいて、第五の存在は出てきてないし。さすがに病院じゃ出てこないかぁって」

「うん」

「大丈夫? 久保田くん?」

 見上げるように小首をかしげると友基は急に怒ったように、

「大丈夫じゃないのは時田だろう?」

 低い声で怒鳴った。

「あ、ごめん。なんかぼんやりしてるから」

 時田は右手で前髪を押さえる。俯く。

「ぼんやりしてるのは時田だろう。気をつけてくれよ。夜は寝なきゃ」

「でも、描いていないと。結局第五の存在が……」

「事故に遭ったらもっといけないだろう。大丈夫なの……痛かっただろう」

 友基の優しい声に、

「うん、痛かった」

 時田は目を潤ませる。

「ごめんなさい。ちゃんと寝ます」

 俯く時田。

「心配したよ……オレ、時田が好きだから」

 独り言のようにつぶやく。

「え?」

 遅れたように驚くと、

「死んだらどうしようってずっと考えてて……」

 被さる前髪が友基の表情を隠す。泣いてしまいそうだった。

「え?」

 頬が紅潮していく時田を真向かいに、友基はまっすぐ見つめた。

「オレは時田が好きだから、こういうことはもうないようにしてくれ」

 ややあって、

「……はい」

 時田が俯く。友基も俯く。沈黙が二人を覆った。長い沈黙だった。

「あの、ありがとう」

 沈黙を破ったのは時田だった。でもまた沈黙は続いた。

 友基は時田の左腕の包帯を見ていた。やるせなさに嘆息した。

 涙がにじんでいた。顔を背けると見えないように手の甲で涙を拭った。

「あの、ごめんなさい」

 時田が頭を下げる。

「うん」

 頷くとそのまま立ち上がって、

「じゃあ、オレ、行くから。お大事に」

と俯いたまま立ち上がった。

「あの」

 硬く結んでいた唇を開く。

「遠くまで来てくれてありがとう。日曜に退院できるの。そしたらまた絵を見てください」

「うん。ゆっくり休んでな」

 頭を下げると、病室を後にした。



――短夜のつむるまぶたに青き空

――明け易し葉に落ちる露きらめいて

 夏の夜は短く、日は明けやすい。体温に熱を残したまま夜を迎え、冷えぬ間にまた日は昇る。

 化け猫は昨日も姿を現さなかった。時田に思いを打ち明けてからずっと、友基は夏の句を作り続けている。

 部室では友基と砂川と美澄とが向かい合って、各々のノートやクロッキー帳を見つめている。

「まあ、失恋なんてよくある話だよ」

 美澄がぽん、と友基の肩をたたく。

「失恋って決めつけるな」

 友基の声は小声だ。

「夏だしな。潔く散ったわけだ」

 砂川は腕を組んで頷いている。

「男らしいぞ」

 美澄に意味もなく褒められると、

「だから失恋じゃないって」

 友基は嘆息した。

 病院へ見舞いに行ってから一ヶ月が経とうとしている。梅雨も明け、本格的な暑さを迎え、日が落ちる頃まで蝉が鳴き続けている。時田とは一度も連絡を交わさないまま、夏休みに突入するだろうかと思われた。

「猫の俳句も詠まなくなって。なあ久保田」

「チャン、チャンってあれだけ言ってたのにねぇ」

「これ以上つづけたらホント、怒りますからね」

 じと目で二人を睨む。

 チャンをモデルに詠まなくなってから一ヶ月経とうとしていた。そんな転機もあってか化け猫も自然と現れなくなった。静かな夜が急に戻ってきたのも、今まではまるで夢のようだったと思う。春に詠んだ猫の恋を季語にした俳句は現代俳句コンテストに応募したのだった。今は結果待ちと言ったところだ。チャンは変わらず友基の家でのらりくらりといった感じで過ごしている。

「猫またも夜、現れなくなったって言うし。久保田の思春期も終わって大人の男になったってわけだな」

「勝手に結論付けないでください。今までだって思春期なんかじゃないですから」

「ひとつ恋に決着をつけたわけだよね」

 美澄まで頷いている。

 友基は二人をうちやって歳時記に視線を落とした。

 化け猫が現れるようになって、それまで無季俳句だったのを季語を入れて作るように変わった。歳時記も熟読し、日常の作句に苦心する。思っていた以上に季語数は多く、毎年のように新しい季語も誕生している。様々な生活のシーンでみつけられる季語、自分のイメージに見合った季語というのが必ずあった。

 時田に思いを告げてから自然とチャンを詠むことに執心しなくなった友基は、様々な夏の季語に目線を向けた。今まで気にとめていなかった生活に新しい行動範囲が広がった。俳句を詠む題材を探すためにと、登山を始めたのだ。

 ワンダーフォーゲル部に所属する友人を得て、先週は高尾山に登ってきた。彼のおすすめで登山の準備、持っていくものなどを教えてもらい、いつも起きている時間より一時間ほど早く起きて出発した。普段見ない景色や澄んだ空気に触れて、なにか吹っ切れるような思いだった。

 化け猫と戦う日常を一旦離れて登山に一歩一歩足を進めていると、夜のことがちっぽけに思えた。自然に身を置くことで全てが好転していくような気がして高揚した。

「でもまあ、友基くんには我ら同好会のメンバーがついてるじゃない?」

「久保田はいつも両手に華だからな」

「華、ですか……」

「華、だ」

 二人を見ながら、

「オレも季語を入れて詠むのに大分慣れてきました。季語を入れて詠んでも化け物が変わらず出てきちゃうのは辟易でしたけどね。美澄は季語を入れて詠むことで変わったのに比べてオレは……て感じでした。部長には思春期だって言われちゃうし、恥ずかしいやらなんやらで。時田にも夜、化け物が出てるって聞いたときは一緒に解決してやりたいって思いましたよね。時田からもらったポストカードに時田が映っているのを見た時はオレの思いの投影かなって、思ったりして。今はポストカードに影は跡形もなく消えてしまいましたけど……」

「彼女への思いがポストカードに表れたんだろうな。心配する気持ちから。久保田の恋心から」

「まあ、否定はできないです。もらったポストカードにしか影は現れなかったんだから」

「でもなんで消えちゃったんですか?」

 美澄は小首をかしげる。

「久保田の所に猫またが現れなくなったのと関係してるんだろう。久保田はなにかふっきれた思いがあったんだろう。違うか?」

「なんて言うか、気づいたら思いを伝えていたって言うか……」

 友基はもごもご言う。

「やるじゃん、友基くん」

「だって交通事故に遭っちゃったら元も子もないです。化け物回避どころじゃないでしょ。命落としちゃったら何にもならない……そう思ったら自然と自分の気持ちが出ちゃったんです。言うつもりなんてなかったし。なんの用意もなかったです」

「で? 返事はもらったの?」

「返事もなにも。オレは好きだって言っただけだし。付き合うとかそんなことも伝えなかったわけですから。オレもそこまで望んでるかって言うとそこは……」

「付き合いたくないってこと」

 美澄が上目遣いで見つめる。

「付き合いたくないわけじゃないけど、今までとなにも違わなくて構わない。もともとオレは時田の絵が好きなわけだし」

「それでいいの?」

「それでいいです。それがいいんです」

 砂川は腕を組んで唸った。

「なんていうかな。それだから思春期だって言われちゃうんだぞ?」

「だって仕様がないじゃないですか。もともと描く絵が印象的でファンみたいなものだったんだから。手を出すとかそんな……」

 またもやもごもごと言う。

「友基くんの恋愛は高尚なんですよ。ね?」

 美澄が友基を見る。

「そんなんだとまた猫またにやられるぞ」

 砂川が肩で息をする。

「友基くんはそういう体質っていうことですよね。ね? 部長」

「美澄はなんなんだ、さっきから。中立的な立場をとってるつもりか? 美澄こそ……」

「わー。部長! 今日も暑いですねえ!」

 砂川はため息をつく。

「だからお前たちには化け物がでてきちゃうって言ってるんだ」

「いまは平穏無事に暮らしています」

 美澄がえらそうに言う。

「ん? 久保田?」

 遠くを見ていた友基に気づいて、

「ああ。部長の言う通りですよね。散々心配かけて。でも思春期となんと言われようと、もともと付き合うとは別次元の対象なんです。創作者として憧れているんですから」

 そう言って視線を落とす。

「そこまで自分の作った作品をいいと思ってくれてる人がいるなんて、時田さんも嬉しいですよね!」

「時田は第五の存在と戦っているんだ。創作自体は苦しいものだろうと思うんだ。交通事故にも遭ってしまったわけだし」

「ますます作家らしいと言えるけどな」

「もがき苦しんで、その末にできあがった作品があるんです」

 友基はクロッキー帳を握りしめた。そこには時田からもらったポストカードも挟まっている。白い影は跡形もなく消えてしまった。寂寞とした風景が描かれている。友基はとても気に入っていた。寒さの染みる故郷の冬を思い起こさせる。目の前に広がる景色は小さな頃からよく目にしていた懐かしいものだった。時田を描いたわけではない、諏訪湖のある一端を描いたに過ぎないのに、まるで時田の自画像とでも思えるほどに、等身大の時田を思い起こさせた。

 友基は時田の形代のように、ポストカードを大切にしていた。時田の映らなくなった、その影のあったところに、時田を反芻させる。寂しさの染みこんだあの笑顔を。戦い続ける意志の強さとを。

 時田が多くの風景を描いているように、友基も夏の景色を探していた。高尾山でみつけた風景は光だと言えた。時田の風景が薄曇りに覆われているのなら、友基の見た高尾山での光は、青空から投射されるもので、終始目映かった。

「あれ?」

 その時友基のスマートフォンが震えた。手に取ると、

「時田だ」

 友基は逸る気持ちのまま、メッセージを目で追った。


――こんにちは。お久しぶりです。元気にしていますか。私はギブスも外れてやっと日常が戻りました。ギブスで固定しているときは、中の皮膚が赤く擦れて傷んでしまったりと、トラブルもあって……もうあの生活には戻りたくありません。

 事故に遭って以来、私のところに第五の存在は現れなくなりました。ギブスで身動きが取れない毎日のなかで、第五の存在が夜出てくることは、想像するだけで恐れていたのですが、そんな心配もさることながら、私はけがの痛みとトラブルに耐えるだけの日々で済んでしまったのです。

 けがの代償というものなのでしょうか。交通事故にまでなったのだから、赦されたのでしょうか。けがが治っても尚、第五の存在が出てくる夜はありません。口の中が燃えるような痛みと喉を切り裂いていくような激痛は、今思えば夢のようです。あれだけ悩んでいた日々は急に終わってしまいました。毎日絵に向かっていた日々があったのに、今は夜、必死で描くこともなくなってしまいました。

 冬から春にかけて描きためていた絵のなかで、編入試験のための一枚にしようと決めたものがあります。第五の存在を描いたものです。テーブルの上には温かな料理や果物。それを囲む、私と第五の存在。私も第五の存在も料理を口にしようとしない。温かな料理は実はまがい物で私を満たす物ではなかった。隣に置かれた髑髏の模型。私はそれを具象で描いてみたの。

 私はそれを編入試験のための一枚にしようと思います。

 友基くんに病院に来てもらったときのお礼をまだ言ってなかったですね。お見舞いに来てくれてありがとう。本当に嬉しかった。

 それから友基くんから思いを打ち明けられたとき、私は本当にびっくりしてしまいました。まさか私なんて、という思いもあったし、その時は実感が持てませんでした。後々思い出して、一人でただただ驚いていました。友基くんのような人に思いを寄せられるなんて、本当に嬉しいです。ありがとう。

 私はそれまで本当に自分に自信が持てなかった。だからあれだけ必死で描き続けたわけでもあります。でも友基くんに好きだと言って貰えて、私は私でいいんだと自信が持てた。ただ絵を描くばかりだった私を認めてくれてありがとう。

 私にはもう第五の存在が現れなくなったけど、これからも絵を描き続けていくつもり。またグループ展をすることになったらご連絡しますので、また観に来てくださいね。

 長くなってしまいました。最後まで読んでくれてありがとう。また会える時まで。

                                    時田


 友基はスマートフォンを置くと顔をあげて一息ついた。部室の窓の向こうは欅の木が葉擦れの音をたてて風に揺れている。日が透けて落ちる影がきらきらとさせていた。

 大学の部室では部長の砂川が作句に眉根を寄せている。美澄はいつもの窓際で歳時記を眺めていた。変わらない日常の風景に友基は安堵すると、大きく伸びをした。

 友基はポストカードを握りしめていた。ポストカードに描かれる空はどこまでも高く澄んでいるようだった。雲の合間から透ける冬の太陽が、温かな日差しを地上に降り注いでいるかのようだった。


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