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今日で定年を迎えるタクシー運転手ですが、「一度でいいから言われたい台詞」を言われないまま退職するのが心残り

 「空車」のタクシーを走らせる。

 私の名は桐山きりやま健司けんじ、65歳。今日で定年退職を迎えるタクシー運転手だ。


 タクシー運転手歴30年。色んなことがあった……。

 酔っ払いに絡まれたり、芸能人を乗せたり、道を間違えたり、美人を乗せてドキドキしたり、車内でゲロ吐かれたり、チップを貰ったり。

 嫌なこともあったけど、いいこともあった。今となっては全て“いい思い出”だ。


 それに、私はいい会社に入れたと思う。社長は穏やかな人柄で、ノルマも厳しくなく、同僚にも相性の悪い人間はいなかった。転職を考えたことなどほとんどなかったと思う。おかげで息子を無事育て上げることができ、孫の顔も見られた。

 会社にも上司にも仲間にも感謝しかない。


 退職して以降も雇ってもらえる制度はあるが、それは辞退した。視力や判断力の衰えを自覚しているので、潔く退くつもりだ。蓄えはあるし、無理をして事故を起こしては何にもならない。


 とにかく、私は幸運なタクシー運転手だったと思う。同業者には客とのトラブルで心を病んだり、ノルマに苦しんでる者も多いからだ。

 しかし、そんな生活も今日でおしまい。

 運転を生業にしているし、私は酔うとつい余計なことを口走ってしまうところがあるのであまり酒を飲まないのだが、今日は浴びるように飲もうかななんて考えてる。

 私は今までの人生に心残りはない。


 ……いや。


 一つだけあったぞ、心残りが。

 私はタクシー運転手として、「一度でいいから言われたい台詞」があった。

 このままではそれを言われないまま、定年退職を迎えてしまう。とはいえ私の勤務はまもなく終わる。次乗せる客がラストになるだろう。その客が“あの台詞”を言ってくれる可能性なんて果てしなくゼロに近い。あんな台詞はドラマの中だからこそ言ってもらえるのだから。

 心残りが一つぐらいある方が粋なのかもしれない、などと思いながら私は車を走らせる。

 すると――


「お、手を挙げてる」


 歩道で手を挙げている青年がいた。

 どこにでもいるような普通の若者だ。最後の客としては物足りないが、そんな理由で乗車拒否をするほど馬鹿でも身勝手でもない。私はタクシーを止める。


 ドアを開け、青年が入ってきた。

 私はいつも通りの挨拶をする。


「いらっしゃいませ。どちらまで?」


 青年は深刻な表情で言った。


「前の車を追ってくれ!」


 この瞬間、私の中で衝撃が走った。念のため、確かめる。


「お客様、もう一度……」


「前の車を追ってくれ!」


 なんということだ。

 まさか、私の「言われたい台詞」をこの青年が言ってくれるとは。


「前の車ってのは、あの白い車でいいんですね?」


 私がすぐ前に止まっている車を指す。


「そうだ! あれを追ってくれ!」


「分かりました!」


 青年の指図通り、発車させる。


 夢のようだ。まさか、ずっと憧れてたこの台詞を言ってもらえる時が来るなんて。しかも定年を迎える日に。奇跡じゃなかろうか。


「おっと、安全運転で頼む」


 青年が付け加える。

 もちろんだ。事故を起こしてはなんにもならない。しかし、私は胸のときめきを抑えられなかった。今だけは見た目は大人、心は少年、だ。


 白い車を凝視する。いたって普通の乗用車で、後ろ暗い雰囲気は何もない。今乗せた青年からも危険は感じられない。これはタクシー運転歴30年の勘が言っている。つまり、犯罪に関わるようなことではないと推測できる。

 じゃあ、この青年の目的は一体なんだろう。これもまた分からない。まあ、お客についてあれこれ推測するのはマナー違反だ。ここは黙って指示に従うのが筋だろう。


 前を走る白い車はいたって安全運転。信号も無理に黄色で行くような真似はしないので、撒かれることはなさそうだ。私からしてみれば、見失う方が難しい。

 私はさほど客と雑談をする方ではないが、目的地が不明な以上、黙ったままというのも不安が募る。青年に話しかけてみることにした。


「あの車はどこに向かってるんです?」


「……さあな」


「例えば、遠い山の中に行くようなことがあると困りますが……」


「それは……心配ない」


「遠くには行かないということですか?」


「そうだな……」


 要領を得ない返事が続く。

 この青年がコミュニケーション下手というより、ボロを出さないようにしているという印象を受ける。必要以上に私に情報を渡したくないかのような……。

 まあ、最後の仕事だ。全力で取り組もうじゃないか。


 白い車が直進すれば、私も直進する。

 白い車が右折すれば、私も右折する。

 白い車が左折すれば、私も左折する。

 

 30分ほど経っただろうか、ずっと道路を走っていた白い車がある敷地内に入っていく。


「入ってもよろしいので?」


「もちろんだ。あの車を追って欲しいんだからな」


 歩行者に注意しつつ、私もタクシーを敷地に入れる。

 ここは市民ホールの駐車場だ。


 白い車が駐車したのを見計らい、私も適当な場所に駐車する。

 青年から代金を受け取ると、そのままタクシーを出そうとするが、


「待った」


「なんでしょう?」


 呼び止められた。


「あなたも一緒に来てくれ」


「私が? あなたと?」


「ああ、そうしないと困るんだ。頼む!」


 青年の懇願口調に、無下に断るわけにもいかず、私もついていくことになった。


 自動ドアを通り、市民ホールに入る。

 市民ホールは3階建ての大きな建物で、最も大きなホールではコンサートや演劇がよく開催される。また、会議室の貸し出しも行われており、会議はもちろんパーティー会場に使われることもあるという。

 青年から全く悪意は感じられないので、私は案内されるがままになる。


「こっちです」


 いつの間にか青年の口調が敬語になっている。


 私がたどり着いたのは中会議室だった。一体ここに何があるというのか。

 促されドアを開けると、そこには――


「……!」


 社長がいた。

 同僚たちがいた。

 そして――妻と息子とその嫁、孫娘がいた。

 テーブルの上には酒や豪勢な料理の準備がある。


 皆が一斉に私に声をかける。


「長い間、お疲れ様!!!」


「みんな……」


 驚きと嬉しさ、そして戸惑いが入り混じった私に、社長が話しかけてくる。


「いやー、驚かせて悪かったね、桐山君。長年ウチで頑張ってくれた君が定年退職を迎えるにあたって、いわゆる“サプライズ”というものを仕掛けたくなってしまってね」


 さらに、私とほぼ同世代の同僚が続く。


「俺も社長の提案につい乗っちゃってな。ちなみに……前を走ってた車を運転してたのは俺で、お前が乗せてきたそいつは俺のせがれだ」


「どうも」と、乗客だった青年が照れ臭そうに頭を下げる。


 なるほど、私はずっと同僚の息子を乗せて、同僚を追って、市民ホールまで来たわけだ。


 しかし、一社員に過ぎない私に、市民ホールの一室まで借りてなんというサプライスだろう。やはりこの会社には感謝しかない。


「ありがとうございます」


 自然と口ずさんでいた。


 そして、妻が言った。


「お疲れ様、あなた」


「……ありがとう」


 こっちこそありがとうだ。私なんかを長年、本当によく支えてくれた。運転を職業にしている私をイライラさせてはまずいからと、私と喧嘩しないよう振舞ってくれていたことを、私もよく知っている。

 本当にありがとう、妻よ。


「父さん、お疲れ様」


「お義父とうさん、お疲れ様でした」


「おじいちゃん、おつかれー!」


 息子夫婦とその娘も、私を労ってくれる。共働きをしていて忙しいだろうに、私のためによく駆けつけてくれたものだ。

 涙腺が決壊するのを必死にこらえる。


「みんな……ありがとう。本当にありがとう……」


 言葉を詰まらせる私に、みんな温かな眼差しを注いでくれた。


 しかし、ここでふと思う。


「あ、そうだ」


「なんだ?」と同僚。


 私はこのサプライズが「あることをみんなが知っていないとできない」ということに気づいた。さっそくそれについて問いただす。


「みんな、どうして私が『前の車を追ってくれ!』って言われたがってるのを知ってたんだ?」


 すると、妻が笑いながら言った。


「そりゃ知ってるわよ。お酒を多めに飲んだ時は必ず言ってたもの」


 同僚が続く。


「そうそう、『一度でいいから“前の車を追ってくれ”って言われたいなぁ』ってな!」


「耳タコでしたよねえ」


 若い社員まで知っている。

 酔うと余計なことを口走る癖で、私の密かな願いは周知の事実になっていたようだ。


 私は恥ずかしくなった。同時にそんな私の願いを叶えてくれたこの場の全員に、本日何度目になるか分からない感謝をした。

 社長が帰りの運転を担当する業者を用意してるとのことなので、今夜は大いに飲むとしよう。


 無事定年を迎えられたことと、願いが叶ったことに乾杯だ。






~おわり~

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― 新着の感想 ―
[良い点] オジサンだから言うわ こういうので良いんだよ!
[良い点] 登場人物が善人しかいない [一言] こんなに短い文章なのに、主人公のこれまでの65年の人生や、その人柄が容易に想像できるとても良い物語でした
[良い点] 素敵なサプライズ 良い会社だなぁ [一言] 言われてみたい台詞 「どこでもいいから走って!」かと思った
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