【短編】間に合わせのダブルチーズバーガー
俺の職場は音で満ちている。
客が入ってくるたびに聞こえる店長の挨拶と店内のBGM。
新商品を紹介する電光掲示板の効果音に、レジを叩く音。
客が商品を注文する声や、「スマイルください」と言っては盛り上がる学生の笑い声。
包み紙で商品を包む音に、氷をすくって紙コップに流し込む音。
機械からドリンクが注がれるときのガチっという音とモーター音。
そして数十分ごとに聞こえるあの音。
チロリ♪ チロリ♪ チロリ♪
新しいポテトができた音だ。
俺の仕事はファストフード店の店員である。
ここで働き始めてもう五年だ。
大学三年生の時にバイトとして始めてからそれだけ経った。
大学を卒業してからも特にやりたいことが無かった俺は、間に合わせ程度にこの仕事を今も続けている。
間に合わせ、つまり何かやりたいことが見つかるまで。
しかし実際は、やりたいことを見つける努力さえしておらず、その日暮らしを続ける毎日だった。
同じ大学だった同期の中には、結婚するやつ、海外勤務で出世コースに乗ったやつなど、俺の立場に比べれば立派なやつがチラホラいる。
本当にすごいなと思うし、自分もなれるならそうなりたいと思う。
ただ、そうなるために努力するという選択が俺にはできない。
別に、こうしていればいつか上手くいくという楽観的な考えがあるわけでも、自分に何かの特別な才能があると信じて疑わないわけでもない。
ただ、将来の楽を手に入れるために、目の前の楽を手放せないというのが俺の気質なのだ。
今日も沢山の客がこの店に来る。
今は期間限定ハンバーガーのプロモーション中だ。だからその商品がよく出る。
セットで頼んでくれる客がほとんどだが、たまに単品で頼む客もいる。
店長には単品で注文が入った時は必ずポテトを勧めるように言われている。ポテトは利益率が高いからだ。
けれど、ポテトとハンバーガーだけなんて喉が渇いて仕方ないと思うから、俺はセットを勧めるようにしている。結果的に売り上げも伸びている。
商品をあらかじめ作っておくのも俺の仕事だ。
客が注文してから作り始めるのでは、回転率が悪い。
注文されるメニューはその日の気温や天気によっても差があるから、そういうのも考慮して作り置きをしなくてはいけない。
万が一にも大量に廃棄が出ると、店長の機嫌は悪くなる。
二年前、この店にやってきた店長は合理主義だった。だからその手の無駄をめっぽう嫌う。
以前、大量に廃棄を出してしまったことがあるが、その時は割引価格で買い取りをさせられた。
別に普通の飯代より安く済むからいいのだけど、無理やり金を使わされるのが少し気に食わなかった。
と、五年もここで仕事していれば大方のことは分かってくる。
この店にいる歴で言えば、俺がここにいるメンバーでは一番長い。
他のアルバイトたちは店長よりも俺を頼る。店長でさえ俺に何かを聞いてくることもあった。
ただ、ここまでの存在になった(なってしまった)のに、未だに社員にならないかという誘いもないから、会社側も俺が辞めることはないと足元を見ているのだとたまに思う。
まぁそれでもいい。
気付いていないフリをしてできるバイトを演じる。
いつもと同じことをやっていれば、その日その日は何の苦労もなくやり過ごすことができるのだ。
社員になっては無駄な責任が増えるだけだ。
そうして今日も8時間、時給換算で8800円の仕事を終えた。
今日、廃棄でもらったのはダブルチーズバーガーとナゲットの5ピースだった。
ところで、なぜかダブルチーズバーガーという響きは心が躍る。
ダブルという言葉を付けるだけで、そこにはただならぬお得感が漂うのだ。
実際は敢えてダブルチーズバーガーと言う必要もない。チーズバーガーはチーズバーガーだ。
それに本当はチーズバーガーを二つ買った方が、ダブルチーズバーガーより安い。
そんなことを考えながら、俺は帰路を歩いていた。
家は大学の頃から変わっていない。三階建てアパートの三階角部屋だ。
隣には夜中に奇声を発する一人暮らしの婆さんと、さらに一つ隣には毎日女を連れ込む大学生がいる。
婆さんはかなりのヘビースモーカーでもある。
昼間俺のいない時間を見計らって、ドアのすぐ外でたばこを吸う。
そして吸い殻は廊下に放置され、風でそれが俺のところまで流されてくることが多々あった。
そのせいで、掃除に来た大家に叱られたこともある。
自分が煙草を吸わないことを説明すると、すぐに隣のばあさんの物だと分かってくれたが、大家がばあさんに注意することはなかった。
婆さんのことを異常だと思っているのは、どうやら俺だけではないようだ。
家につく二十三時頃には、運がよければ(?)婆さんの奇声と大学生に連れ込まれた女の喘ぎ声がコラボする。
それが鳴りやむのを待って寝床につくと言うのが、最近のルーティンになっていた。
大学生の連れ込む女は、弁当のように日替わりだ。
致していながら、婆さんの奇声が気にならないのかとよく思うが、俺と同じで女の声と婆さんの声が重なることに一種の楽しみを見出しているのかもしれない。
ともあれ、よくやっているな、と日々感心するばかりである。
これが俺の住んでいる場所だ。
次の日は休みだった。
昨日の夜は声が2時くらいまで続いていたので、寝るのが遅くなった。
目覚めたときには正午を回っていた。
俺は寝床の上でこのあと何をするか考える。
いつもなら一人で映画を見に行くか、街まで足を運び雀荘で遊ぶ。
しかし今日に限って、見たい映画はなかったし、雀荘で勝負できるほどの手持ちもなかった。
仕方なく街をぶらつくことにする。
今日は月曜日だ。
平日だからか、街の人は少なかった。
普通の会社員なら、一週間が始まる憂鬱な日なのだろう。
そう考えると、少し自分の境遇を素晴らしく、幸せなものに感じた。
何にも縛られていない。好きなように生きている。
大それた目標や誰にも譲れない信念、みんなから立派だと褒められるようなものは何も持っていない。
けれど、ただそれなりに満足のある日々を送っている。
こんな小さなことで幸せになれるのだ。
もしかしたら、昔欲しくて仕方なかったお金や家族のいるマイホームなんてものは幸せに必要ないのかもしれない。
大切なのは自分がどう感じるかで、他人にどう見られているかではないはずだ。
自分の幸せが明確に分からないから、一般的に幸せだとされるもの、つまりは人から幸せだと言ってもらえるような分かりやすい幸せを求める。
けれど自分の幸せの評価軸に他人の価値観を持ち込んでは、いつまでも幸せになれないじゃないか。
一人で幸せになれる人間こそ最強だ。
そう自分に言い聞かせる。
しばらく街を歩いた。
すると少し先に携帯ショップのキャンペーンガールが見えた。
街行く人間にチラシを配りながら、笑顔を振りまいている。
「ただいまお得なキャンペーン中です。この機会に乗り換えはいかがでしょうかー」
少し訛りのある、語尾を伸ばすタイプの柔らかい声だった。
わざわざ、避けるように歩くと感じ悪く映る気がしたので、そのまま直進して丁寧に受け取るのを断ろうと思った。
彼女が渡す人間に目星をつけるテリトリーに入る。
一瞬、彼女と目が合った。
途端、彼女は俺の体全体を見る。
少し嫌な感じがした。
しかし気にせずに同じペースで歩く。
彼女の手が届くところまできた。
あっ大丈夫です、すみません。
俺がそう口に出そうとしたとき、彼女はチラシを持っているその手を引っ込めた。
俺は少し驚く。そして彼女の顔をもう一度見た。
さっきまでの笑顔とはどこか違う、少し引きつった笑顔をしていた。
俺は唖然としたまま、その場を通り過ぎた。
そして歩きながら考える。
なぜ、彼女は俺にチラシを渡さなかった!?
そんなに怖そうに見えたのだろうか。
いや、あの素振りには、渡しても無駄という感じがあった。
ではなぜ無駄だと思うのか?
彼女の視線を思い出す。
あぁ、そうか。
最初に目が合った次の瞬間、彼女は俺の体全体を見た。
つまり、俺の姿にどことなく貧相なものを感じたのだろう。
こいつに渡しても、そんな余裕なんて絶対にないと、鷹を括った。
なんてことだ。
俺はそんなにも仕方ない人間なのか。
さっきまでの幸せに関する持論は俺の中から消え去っていた。
今は自分を哀れな人間だと思う事しかできない。
まさに特大のブーメランである。
俺は気が付くと、歩みをバイト先の方へ向けていた。
少しでも自分を必要としてくれる人間たちに会いたくなった。
所詮、他の誰にでも代用が効く、間に合わせに過ぎない人間だ。
けれど今は、この瞬間は、俺はあの場所で一番頼られる存在でもある。
ダブルチーズバーガーのセットでも一つ頼んで、今日のメンツに少し挨拶をしたらすぐに帰ろう。
バイトの誰かが一人でも俺に気付いて、一言「お疲れ様です」と言ってくれるだけでいい。
そしたら店長も少しは声をかけてくれる。
それだけでこの何とも形容しがたい不安は消えてくれるはずだ。
店につく。時計は二時を回っていた。
この時間はそれほど忙しくないはずだ。
外から店内の様子を確認した。
そんなに混んでいないのを確認して、俺は中に入る。
「いらっしゃいませー」
いつも通りの店長の声が響く。
普段と変わらない音たちに俺は包まれる。
不安は少しだけその影を潜めた。
俺は注文カウンターまで進む。
注文を受けたのは最近入ったばかりの美咲だった。
彼女は俺が卒業した大学の在学生で、三年生だ。
慣れていないのか少し慌てていて、注文しているのが俺だということにまだ気付いていないようだ。
「お疲れ様」
気付いてもらうために俺は声をかける。
えっ、と言って美咲はこっちをしっかりと見る。
「あっ、篠崎さん! どうしたんですかー」
「おっ、篠崎君。急にどうしたの?」
美咲の声に反応して、店長もこちらを向く。
「いや、ちょっと暇だったので。少し遅いけど、昼飯がてらに少し寄りました」
「そうだったんですね!! 何か頼まれますかー?」
客が俺だと知って安心したのか、美咲は明るく聞いてくる。
「あーじゃ、ダブルチーズバーガーのセットで」
「店内で食べられますかー?」
「いや、持ち帰るから袋に入れて」
「分かりましたー。650円でーす」
「割引とかないの?」
「廃棄じゃないので、割引なんてしませんよー。店長に怒られちゃいます」
「なんか言ったか!?」
少し茶化すように美咲が言うと、すぐさま店長は横から口を挟んだ。
俺はそっか、といいつつ俺は言われた通りに払った。
「出来たら持っていくので、好きな席で待っててくださーい」
俺は適当に窓際の席に座った。
そう言えば、美咲のしゃべり方はさっきのキャンペーンガールに似ている気がする。
退屈だったのでスマホのゲームでもしようかと思っていたが、さっきのことを思い出し、スマホを取り出すことを少しためらう。
すると丁度よく、少し尿意を感じたので俺はトイレに向かった。
トイレから戻ると、俺がいた席の所に美咲が商品を持って待っていた。
どうやら俺以外にはもう客がいないようだ。
美咲は店長と話している。
「篠崎さんて、ここにどれくらいいるんですかー?」
「俺は二年前に来たけど、その時にはいたな。たしか五年くらいになると思うけど」
「えぇー五年もいるんですか!? でも、私のいる大学卒業してますよね」
「まぁ、最近はそういう人も増えてるからね」
「それって大丈夫なんですかー。大学卒業してもバイトって」
「こらこら、そんなこと言わない。一応同じ大学の先輩なんだから」
「えー。休みの日にもバイト先に来る先輩なんて嫌だなぁー」
しばらく話を聞いていたが、ここまで来るともう聞いていられなかった。
俺はわざとらしく足音をたてて、美咲たちの方へ近づいた。
その音に気付いたのか、二人は急に黙る。
「すみません、トイレに行ってました。あ、できたんだね。ありがとう」
そう言って俺は美咲の持っていたダブルチーズバーガーセットを受け取り店から出た。
俺の足は家に向かった。
とりあえずイライラしていた俺は誰かに八つ当たりしたかった。
そして、この時間なら隣の婆さんが玄関の前で煙草を吸っているのではないかと思った。
だから現行犯で見つけてやって思いっきり文句を言ってやろうと思った。
俺の狙いは的中した。
アパートに付き二階分の階段を上ると、目線の少し先に胡坐をかいて廊下に座り込む婆さんの姿が見えた。
婆さんは俺が階段を上る音に気付くと、焦ったような素振りを見せすぐに煙草の火を消した。
俺は、おいっ! とだけ叫んだが、婆さんは小さな声で、すみません、とだけ言って部屋に戻っていく。
すると俺の声に驚いたのか、大学生が顔を出す。
「どうしたんすかー?」
非常に間の抜けた声だった。
「いえ、別に。ただ玄関の前で煙草吸われてたんで、つい......」
「あー迷惑っすよね」
そう言って大学生は部屋に引っ込んだ。
そう思うなら見かけたときに注意してくれよ、と俺は思った。
このまま家に帰るのは、イライラを家に持ち込むようで嫌だった。
俺はもう一度アパートを出ることにする。
ダブルチーズバーガーのセットは近くの公園で食べることにした。
公園に着く。俺は入口近くにある横の広いベンチに座った。
この時間は俺以外誰もいない。
もう少し時間が経てば、学校の終わった子供たちが遊びにでも来るだろう。
その前に昼食は済ませておきたいと思った。
一人で食事しているところを見られて、子供達にまで哀れに思われてはいたたまれない。
俺は急いで食事を始めた。
氷が解け、ぬるくなり始めたコーラを口に含む。続いてメインのダブルチーズバーガーにかぶりついた。そしてポテトを食べる。
すると、段々とイラついていた気持ちは収まってきた。
感情的になったのは、腹が空いていたからかもしれない。そう思った。
そして美咲のあの言葉を思い出す。
(それって大丈夫なんですかー?)
締まりのないとぼけた語尾が頭の中で反響する。
「俺は大丈夫だ」
世間の目なんて俺には関係ない。
そもそも、大学を出てしっかりとした会社で働くことがどうして当たり前なのだろうか。
確かにそれが普通なのかもしれないが、普通が正解だという根拠はない。それが正しいとみんな思い込んでいるだけだ。
そこまで考えて、実は自分が一番その普通にとらわれていることに気付く。
本当にそう思っているなら、そもそもこんなこと気になるはずもないのだ。
そうか、俺はやはり誰かにしっかりと認められたいのだ。
誰かに必要とされ、それに応える。
それが俺の精神的健康を守る上で最も重要なことなのだ。
たとえ俺自身が、いつでも取り換えの効く間に合わせだとしても。
そこまで考えたところで、足元に何か当たるのを感じた。
俺は反射的に声をあげ飛び上がる。
そこにいたのは、一匹のクロネコだった。
そのネコは俺の食べているダブルチーズバーガーの方を見ている。
「これが欲しいのか?」
俺は滑稽にもそのネコに話しかける。
普段ならこんなことは絶対にしないが、今は何となくそれを受け入れる気分だった。
ネコは俺の問いに応えるように、その頭を強く俺の足に擦り付けた。
「そうか、腹がへっているんだな」
そう言って、俺は手に持っていたチーズバーガ―をネコの前に差し出す。
しかしネコは何度か臭いを嗅ぐと、食べにくいと言いたげに俺の指をなめた。
俺は仕方なく、中に入ったパティをちぎって手に乗せる。
するとネコは美味しそうにそれを口のなかに入れた。
「お前も間に合わせで俺のところに来たのか?」
ネコは必死に食べ続ける。
ネコも俺も似たもの同士だと思った。
どちらも間に合わせで今をなんとかやり過ごしている。
そうして今、間に合わせで生きている同士、助け合っている。
「なぁ、お前、俺の家にくるか?」
俺はネコに問いかける。
ちょうど食べ終わったネコはゆっくりとこちらを見上げた。
俺にはそれがイエスと言っているように思えた。
それから食べ終わった後も、ネコは俺のそばに居続けた。
うちはペット禁止のアパートだが、別に大丈夫だろう。
隣とその隣にはいつも騒音の種がある。
夜は二重奏が三重奏になるだけだ。
バレやしない。バレたって引っ越すだけだ。
「さぁ、帰ろうか」
ネコにそう言って立ち上がると、俺は歩き出した。
何も言わなかったが、ネコもそのあとをついてくる。
風が少し涼しい。
すれ違う小学生の子供が、俺とネコの様子を見て騒いだ。
驚愕と羨望を含んだその声に俺の心は久しぶりに高揚した。