正常なのは君か僕か。まぁ彼女なのかもしれないね。
僕は街の前にいる。
俯瞰してみてみよう。
街は柵に覆われていて、その周りを深い溝が覆っていて、そこを枯れ木でひた隠している。
こんなに広い広野であんなに分かりやすい隠し方をするのは、きっと【対象が人ではない】からなのだろうか。
堀を跨いだ柵から出ているのは長槍の切っ先で、まぁ例え対象が人間だったとしてもあそこを飛び越えようとは思わないだろう。
最前線と言われれば脆弱で、最後方と言われれば嫌に厳重なこの街はきっと重要拠点なのだろうねと当てを付けてみる。
隣を歩く君は少しずつ少しずつ緊張が解けているのを繋いだ手のひらから感じる事が出来るものだ。
やあやあ良かったねと言うにはやや出会って間もない時間ではあるが、それでも先ほどの一件から僕の事を信用してくれているようでありがたい。
戦国城のような門が見えてきたかと思えば、門番の眼が僕らを捉える事をなんとなく確信する。
こうなんというか…もやっとする。そんな感覚だ。
一歩近づけば凝視され
一歩近づけば警戒され
一歩近づけば安堵に変わる。
きっと少女の顔の輪郭を目視できる位置まで来てしまったからなのかもしれない。
なるほど、きっと彼女はこの街の少なくとも『門番には』信頼されているのかもしれないと思考してみるのだ。
「メアリーお帰り」
兵士の一人が片手を上げて呼びかける。
するとメアリーと言うらしい彼女は僕の手をにぎにぎしながらもう片方の手で手を振った。
わくわく?どきどき?嬉しいような恥ずかしいようなそんな感情をはらませて手を振る姿はきっと万人に愛されてしまうのだろうなぁなんて少し羨ましい。
門の前まで来るとメアリーは木製の何かを取り出して門番へ見せつける。
「うんうん、通過手形は確かに確認したよメアリー…所で隣のお兄さんはどちら様かな?」
チクリ…光の無い目が僕を捉える。メアリーに気取られないようにあくまでも微笑みかける門番はただ者ではないのだろう。
脅威足りえる。
そう脳内で警鐘が鳴る程には。
はてそんな能力前世では得ていたのかなと疑問を頭の隅に押しやっている内にメアリーは出会いの顛末を門番へ話し終えてしまったようだ。
うんうんと笑顔で聞いていた門番はメアリーの頭に手を置きながらこう言った。
「そうかそうか、そこのお兄さんは命の恩人なんだねぇ。それにしても良かった…君に何事も無くて。ささ中にお入りメアリー」
ニコニコと笑顔を送るのは何も門番だけでなくメアリーもその一人でニコニコというよりピッカピカというべきほどに笑顔である。
さて、メアリーは開け放たれた門の中へ僕の手を引きながら入ろうとするが門番は「あ、ちょっと待ってね」とそれを遮る。
「お兄さんは初めてここに入るから少し手続きが居るんだ。ちょっとかかるからメアリーは先に入って街長へ報告しておいで」
「さぁ」と僕の肩を掴む。
…ギシギシ
肩が軋む。瞳の奥は猜疑心渦巻く真黒であった。
感じたのは恐怖と激情。多くの人生でこれほどまでに感じた事が無いだろう感情の情報量が脳内を埋め尽くし飽和する。必死に理性が合理性を脳内で紡ぐことで即座に暴れる様な事は起こらない。
突然の感情に戸惑いながらも視界に少女を捉える。
そう言えば昔何かで見たことがある。何かの動作を安堵と紐づける事で極度の緊張を及ぼさなくなると。
では試してみようとメアリーを見て…そしてほほ笑む。
きっと彼女に僕がしてあげられることと言えばこれくらいなのだろうとほほ笑むものだ。
人は笑えば嫌が応でも穏やかになるもので、平静さとは少し違うがそれでも彼女だけには言わねばならないセリフを吐き出す。
「行っておいでメアリーさん。また会おう」
「うん!また後で!」
駆けていく君を見るのがこれで最後になるのかもしれないとするなら感慨深いものがあるが、それ以上にここで暴れても仕方がない。
敵であればどちらにせよ敵城ど真ん中。
味方であっても暴れれば敵となんら変わりない関係になるのは目に見えている。
少なくとも僕がやるべきはこの門番の中に渦巻く猜疑心という芽を潰す他ないという事だろう。
やれやれ骨が折れそうだなぁなんて。
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チリチリと脳裏が焼けるような感触を味わい眼前の人物を見る。
不思議と人物像を捉えきれないような彼は一体何者なのだろうか。
そんな疑問すらも脳内で問答を許さないように思考がまとまらない。
「それで、お前は誰だ。何処から来た」
静かに、しかし敵意を隠さずに死んだ魚の様な目を向けながら僕に問う。
これだけ混乱しきった脳内でそれでもそのセリフだけは明確に刷り込まれるのだから困ったものだ。
ここは嫌に静かでじめじめとした部屋でほぼ全てが木製で出来ているが、日の光が入らないばかりにじめじめとキノコでも顔を出しそうな雰囲気の変わりに違和感を一つ残して。
きっとこれは彼から発せられているものではないのだろうねと。
「…ここではない何処かから来たのは確かなのですが、記憶が朧気で名前すら分からず…」
ここで初めて僕は彼の【顔】を捉える。彼の人相から僕の記憶の中の人物と照らし合わせるとしたら彼は30代後半の男性だ。
ホリが深く大きな鼻が特徴で綺麗な角刈りが目立つ。
きっと兵帽や鉄帽をかぶる際に邪魔になりえる故の理想的な髪形なのだろう。
しかしそれ以上に特徴的なのは目だ。
大きく深く不快。
こうも、こうもこうもこうも心がざわつくのはあまり無い感情だ。
行き過ぎれば殺意に変わりそうな気配を自分の胸の奥に押し込みつつ圧縮した平静さを外へ投げ出すのだ。
「……ふむ、どうも都合のいい話ではないか?ここは王国の物資流通経路で、帝国にも近く、君は何処の誰かも分からず。何かを隠しているのではないか?正直に言いなさい。帝国のスパイなのだろう?」
「違うッ!」
ニヤリと気味が悪いほどに笑う彼が憎い。まるでこちらの弱点を見つけたように。ありもしないものがあるかのように振る舞う彼が憎いのだ。
果たして本当に無いのか。本当はあるんじゃないかとすら思えてくる自分の脳を一度叩き割ってしまいたくなる。
「……その焦り様やはりやましいことがある証拠ではないか?」
丸く大きな黒い点が僕を「見つけ」それに呼応するように敵意を露わにしてそいつを見据える。
ぐつぐつと奥深くから湧き出る感情の蓋が今にも外れそうになりながらも懸命に押さえつけてみるがどうにもうまくいかない。
思考がぼやけて仕方がないがそれでも目標を間違えずに考えるしかないのだ。
彼らは敵ではなく、僕は彼らにここで信用されるしかない。
……、そうか何故ここまで理不尽なイライラをしなければならないのだろうか。
時間にしてもそう精神を病むほど長時間に及ぶものでもない。
疑問に思えば思う程、僕の今の感情は不可解で非合理性なものであると確信付く。
「ふぅ…」
静かに息を肺から追い出す。僕の今までの良く分からない感情の残滓と共に。
そして静かに彼を見つめて言うのだ。
「いや、本当に関係がないんです。たまたま彼女と出会い。たまたまこの街についたにすぎません」
そういうや否やだろうか、脳裏に焼き付いて離れなかったノイズがぴたりと止まりクリーンになるどころか一気に目が熱くなる感覚に陥る。まるで暗室から明るみに出たかのように。
…まるで、暗室が実は明るい場所だったかのように。
バリッ……バリバリ
そんな音共に視界が大きくヒビが割れる。チリチリと亀裂と亀裂が混じり合い煌めく粒子となって瓦解する様は憎たらしいほどに美しくとても常世のものと思えぬ光景だった。
眼を大きく擦って彼を見ればそこには先ほどまで居た気味の悪いほどまでに淀んだ目を持った人物はおらず柔らかくも温かみのある男性が座っていた。
部屋は一気に明るさを持ち、眠くなるほどの陽気に包まれるのはいやはやこれが狐につままれたと言わんばかりだ。
目の前に座る彼が口を開く。申し訳なさそうな表情で口を開くのだ。
「旅の方、大変申し訳ありませんでした」
深々と頭を机につけて謝罪もされれば大きな憤りも沸こうはずもなかった。
「…失礼ですが説明頂けますか?色々と」
僕は頭をかきながら苦笑いでそう絞り出す他ない。
春の陽気に包まれるならば一度や二度位の激情なんて胸に秘められる物なのだなぁと笑うのだ。