KAIRI
ここはどこだ。
いまはいつだ。
わたしはだれなのだ。
こどくはきらいだ。
この場所を進み続けて、もう何年になるだろうか。
右も左も前も後ろも分からないほどの暗闇。
そこを私はがむしゃらに歩き続けている。
生暖かい気温。少し気を抜けば平衡感覚すら保てなくなりそうだ。
もう何メートル歩いたか分からない。歩くことに慣れてきた足腰は、まるで自分の体でないかのように私を先へ進ませた。
- 規則は守っているか -
私が歩き続けていると、どこからともなく声が聞こえてきた。少年の声。少女の声。老人の声。妙齢の女性の声。野太い男の声。様々な声が混ざり合い、私に問うてきた。
- 君は規則を守っているのか -
「当たり前だ」
この声には必ず返答することにしている。それに果して意味があるのか、私には分からないのだが、兎に角これが私に出来る唯一の抵抗である以上、返答しないわけにはいかない。
- そうか -
- なら安心だね -
- 忘れてないわよね -
- ここでの規則は -
バラバラな声で言葉が紡がれていく。そして、徐々にその声は揃っていき、最終的に完全に重なり私に言った。
- ”人を殺してはならない” -
そう。ここでの規則、それは自分であろうと他人であろうと、人を殺してはならないということ。
まともなようで、狂っているその規則は私の歩みを遅くした。
ここには人はおろか、小石すら存在しない。その規則は私にこの場所に人が居るという希望を与えるばかりで、憂鬱になる。伝えられないほうがマシだ。
- じゃあ、また来るね -
- くれぐれも、人を殺さないようにしてね -
腹が立つ。いつまでも管理者を気取っているこの声の主をとっ捕まえて、いますぐにでも絞め殺してやりたい。
私が苛立ちを覚えながらしばらく歩いていると、何かに躓いた。
ここで何かに躓くのは初めてだ。私が躓いた何かを確認しようと、何とか立ち上がって手触りで確認する。
それはヒトだった。長らく忘れていたその手触りはまさしくヒトであり、その出会いは私にとって感動的なものだった。
しかしどうにもおかしいな、と思ったのが背中だった。ヒトの背中から、まるでコウモリの羽のような手触りの布が生えている。
確認しようにもこんな暗闇の中ではヒトがどんな形をしているかなんて確認できようはずもない。
なので私はヒトを触るのを諦め、話しかけてみることにした。私の記憶が正しければ、ヒトは会話が出来たはずだ。
「なあ」
「なんだい」
「お前は誰だ」
「僕かい。僕は、”カイリ”だ。ここでは嫌われている」
カイリは明るい口調で私に自己を説明してのけた。私だったら、こんな質問をされれば返答に迷ってしまうだろう。この場所であれば尚更。
そんな質問に迷うことなく返答したカイリは、私の興味の対象だった。
私はこの場所で、あの声以外と出会ったことがない。小石すら落ちていないこの暗闇での出会いは、私に喜びを与えてくれた。
この出会いを棒に振ってはいけない、とカイリに質問を続ける。
「なんでここに居るんだ」
「僕は規則を破ったのさ。それで、ここに閉じ込められた」
「私のところに、か」
「その解釈は正解とも不正解とも言える。まあ兎に角、僕は閉じ込められているんだ」
カイリの言うことは正直よく分からなかったが、なんだかここで規則を破れば誰かに逢えるのか、とそれに微かな希望を抱いた。
私はもっと人に会いたい。人と会話がしたい。独りは嫌いだ。
彼の言うことはつまり、彼を殺せば誰かと逢える、ということだった。
このまま彼の首に手をかけ、締め殺せば。
この永遠の孤独から解放される。
でも、それはあまりに自分勝手ではなかろうか。カイリはそれで良いのだろうか。
私の葛藤を見抜いたのか、カイリは少し微笑んで言った。
「君は迷っているんだね。その気持ち、分かるよ。僕も迷ったからね。僕としては寧ろ殺して欲しいくらいだ」
「お前を.......殺せば......」
私がカイリの首に手をかけようとすると、そこからヒトの体は消えて無くなり、残響と共にカイリはどこかへと行ってしまった。
「まだ迷っているんだろ。ならやらないほうがいい。決意が固まったら、また逢える」
- お前は何をしようとしている -
私がしばらく歩いていると、また声が聞こえた。うざい声。腹の立つ声。私の神経をねっとりと逆撫でする声。そして、私に覚悟を迫る声でもある。
この声に従う道理などない。カイリを殺せば、私は再び誰かと出逢える。
- お前は何もわかっていないのだ -
- カイリに心を許してはならぬ -
- そうよ、カイリに心を許すべきではない -
- そうだ -
- そうだよ -
- 確かにそうだ -
声がバラバラで、まとまっていない。やはりこいつらは誰かが言ったことにバカみたく賛同しているだけなのだ。
私の覚悟は決まっていく。この声、この場所の規則に逆らい、カイリを殺してしまえ。
本当に良いのか、と誰かが問うた。私はその誰かに唾を吐き捨てると、声に向かって大声で叫び、駆け出した。
「私のことは私で決める!」
- 大馬鹿者め -
忌々しげなその声は、私の足を軽くした。
◇
朝日が彼の青白くなった肌を照らしていた。腐敗した杏のような臭いが漂っている。
地面に横たわる彼の首からはロープが垂れている。彼は苦悶の表情を浮かべ、涙を流しながら倒れていた。
誰も操作していないにも関わらず、窓際に置かれたテレビが突然輝き、ニュースが始まった。
ニュースキャスターはいつも通り、原稿を置いて語り出した。
誰も聞いたことがないような声で。
『だから言ったのだ』