黒と煙管
どれくらい眠っていたのだろうか――?
鈴を転がすような虫の音が、泥のように眠っていた蒼斗の意識をそろそろと覚醒させた。
額に置かれたタオルは体温ですっかり生温くなっている。それを剥がし、常温に戻る洗面器に浸ける。
「そんなに時間は経っていないはずなのに、やけに身体が軽い……」
それだけ負担がかかっていたということか――。
蒼斗は組織を抜けても安らぎなど微塵も得られていなかったのだと痛感し、ひとり自嘲の笑みをこぼす。
上体を起こし辺りを見渡せば、外はもうすっかり日が傾いていた。障子は閉められ、室内は薄暗い。
卯衣と近衛は何処にいるんだろうか、とスタンドライトを頼りに襖に向かう。
「――で、どうするんですか?」
意見を求める卯衣の声がはっきりと襖越しに届いた。取り込み中だったかと襖にかけた手を放して様子を伺う。
「言われた通り確保はしましたけど、ちゃんと事情を説明しないと面倒くさいことになりかねないですよ」
「それはボスの一存ですから。生かすも殺すもあの人自身です」
――生かすも、殺すも?
「そうですけど……あの人、ソウマなんでしょう?」
ぞわり。背筋が凍りついた。どうやら彼女らが自分を保護した理由は、人助けという単純なことではないようだった。
このままここにいては、いずれ祥吾たちに突き出されてしまう――!
そう思った蒼斗は、気づかれないようなるべく気配を殺し、不用心に置いてあった銃を手に取り、姿勢を低くしながら庭から逃げ出した。もちろん靴は指先に引っ掛けている。ゆっくり履いていられるほど、蒼斗の心中は穏やかではなかった。
静かな暗闇の中を走り続け、ある程度離れたところで蒼斗は立ち止まり、息を荒くしながら持っていた靴をアスファルトに落とし足を突っ込む。その間にも追っ手が来ているのではないのかという不安が拭えなかった。
「それにしても……なんだ、この空は?」
空に昇る月を仰ぎ、首を捻った。
黒セロハンが被ったような濁ったものではなく、優しく、それでも自己主張するように静かに放つ光は今まで見たことがなかった。
空だけじゃない。他にも、空一面に輝く無数の小さな光、間隔をあけて立っている街頭の明かり、綺麗な家並み――ありとあらゆるものが曇りなく見えた。
ここは本当に、あのオリエンスなのかと疑いたくなった。
「――っ、また……!」
前触れもなくやってくた頭痛。
こめかみに手をやり、砂嵐で埋もれた映像に意識を傾けた。
――最初に視えたのは、特機隊の軍服を着た男だった。
具合が悪いのかフラフラと足どりは覚束なく、スパンコールが散らしたような空の下を歩いている。
この景色は、決して初めて見たものではない――これは彼の視点なのだろうか?
そして進む先に一般人の姿が映り、背筋が凍った。
仕事帰りなのか買い物袋を提げた女性はこちらをみて息を呑み、悲鳴を上げて後退した。手元の銃の感触に心臓の鼓動が早まり、彼女の危機を悟った。
「彼女が危ない……!!」
こんな住宅街で発砲事件など起こればきっと大変なことになる。
蒼斗は頭を振り、ビジョンにあった目印になるものを思い返した。あの場所が、今現在自分が立っている通りだということは家並みから判断できる。
あとは月の昇る位置と角度から、具体的な場所を特定する。
「きゃああああ!!!」
「!?」
すぐ近くで女の悲鳴が木霊した。弾かれるように一目散に駆け出し、銃に手をかける。相手が銃を持っていることは明確。もしものことがあったら、使うしかない。
「やめろ!!」
突き当たりの通りを右に曲がり、銃を構えた。
「た、助けて……っ!」
案の定、女が買い物袋の中身をぶちまけ、腰を抜かして怯えきっていた。幸い蒼斗の方が女に近く、急いで背に庇って対峙する。男は特機隊の制服を身に纏っていた。
「桐島?」
蒼斗の登場に男は銃口を女から外した。
逆光で見えなかった顔がさらされ、蒼斗は目を見開いた。
「副島、君……?」
目を血走らせ、常にきっちりと保っていた背筋は猫のようにぐにゃりと崩れていた。動物でもないのにその眼光は光り、まるで獣のような雰囲気を醸し出している。
「見つけたぜ、桐島……ひひっ…ひ……お前を、殺してやる!!」
女を抱え、蒼斗は銃弾を避ける。すぐさま身を隠し、上がる息を整える。
静かな住宅街には不釣り合いな発砲音と、女の悲鳴――焦りが蒼斗の思考を鈍らせる。まずは、人命第一……そのあとは、どうにでもなって構わない。
「逃げんな桐島あああ!!」
「っ、この辺りで人が誰もいないような場所は何処ですか?」
「えぇ? え、えっと……っ、この先を真っ直ぐ行くと住宅街から外れた場所に……!」
「ありがとうございます。あなたは少しここで隠れた後、局に連絡を入れてください」
「え、局?」
「桐島ああああ!!」
女の声は届かず、蒼斗は言われた通りに道を走り出し、その後を副島が陸上選手顔負けの速さで追っていく。
――他の人間を巻き込まないように、と足を踏み入れたそこは廃墟街だった。
月明かりだけが頼りの中、蒼斗は副島の放つ銃弾から逃れるために建物の陰に身を隠し、壁に背を預け半身になって様子を伺った。
「桐島ぁ、何処にいるんだ?」
間延びした声が木霊し、砂利を踏む音が近づく。
身体を戻し、どっしりと壁に寄りかかって深く息を吐き出す。冷汗は止まらない。
それどころか鼓動は痛いくらいに速度を増し、この場をどうにかしなければと思う半面、早く解放されてしまいたいと諦めかけている自分がいた。
――足音が止まった。
蒼斗は位置を確認しようともう一度顔を覗かせ……視界いっぱいに飛び込んできた副島を捉えた。
「――見ィつけた」
血走ったその瞳に映る自分の姿に、背筋が凍りついた。
撃鉄を引く音で固まっていた意識を戻し、咄嗟に足のバネを使って後退。発砲音の直後に額に飛んできた銃弾を、紙一重でかわす。
身を大きく後ろにそらしたことでバランスを失った蒼斗は、後方にそのまま転回して距離を取る。それを読んでいた副島は、すかさず引き金を引いて大腿部を貫く。足を取られた蒼斗はそのまま床に投げ出された。
その中で、副島が口元を湾曲させ、手に持つ手榴弾のピンを引き、こちらに投げるのを見た。
脂汗を滲ませながら足を引きずり、最低限の範囲まで離れたところで――間髪入れず、激しい爆発音と衝撃が建物を吹き飛ばした。爆風で地面に叩きつけられ、耳鳴りに悩まされる。
「……なんだよお前、まだ生きてんのかよ」
生死の確認をしていたのか、土埃の中浮かぶ副島の影を霞んだ視界で見つけた。顔は見えずとも、心底残念そうに、うんざりしたように落胆する声だけで、彼がどんな表情をしているかが手に取るようにわかった。
間違いない、彼は本気で自分を殺そうとしている――そう悟り、蒼斗は初めて、ここまで向けられたことがなかった強烈な殺気に身震いした。
「っ……!」
勝機のない状況に視線を落としそうになったところで……ふと、蒼斗の手に嵌められたグローブが目に入った。グローブはさっきのやり取りで汚れてしまっている。
大事にしていたのに、と眉間にシワを寄せ嫌味を言う近衛の顔が目に浮かぶ。
自己防衛本能が銃を握らせた。殺されるわけにはいかない。真実を突き止めるまでは、絶対に。
――桐島さん。
もう一度、彼女に――会いたい。会いたくてたまらない。
彼女との約束を果たすまでは……絶対に、死ねないのだ。
照準を定め、煙が晴れたところを見計らい――蒼斗は銃の引き金を引いた。
副島の銃を狙った銃弾は――奇妙なことに彼の腕ごと吹き飛ばした。
「なん……っ!?」
衝撃で後ろにひっくり返った蒼斗は、身を起こし仰天した。そして銃口から煙を上げる銃を凝視して目を見張った――この銃、改造されている!!
「て、めぇ……やりやがったなあああああ!!」
「副島君!」
獣のような悲鳴を上げた副島。いくら死にたくなかったからとはいえ、身内の部下の腕を落としてしまうなんて、と蒼斗は血の気が引いた。
すぐに止血をしなければ。駆け寄ろうと一歩踏み出したところで――足は強くその場にとどまった。
「――っ!?」
開いた口が塞がらなかった。
白目を剥き、口から涎を垂らして呻き声をあげる彼の失われたはずの腕からは人ならぬ赤黒い塊が出現していた。
厳密には生えてきた、というのが正しいだろうか。
「殺してやる……っ、殺してやる、殺してや……ル!」
夢でも見ているのだろうか?
それとも精神的な疲労で目が疲れてしまって幻覚を見ているのだろうか。
目をいくら擦っても景色は何一つ変わらず、禍々しいそれは人間の手ではなく巨大な鎌状と姿を変えた。
腕の落ち方からして不自然さもあったが、普通ではありえないものが腕から生えてきたことへの驚愕と困惑が蒼斗の思考を支配した。
「なんだよ、これ……これじゃあ、まるで……」
――バケモノみたいじゃないか。
目にもとまらぬ速さで腕が振りかぶり、咄嗟に盾として使用した銃身が真二つに斬り落とされた。
ガシャンと落ちるガラクタとなった銃の残骸音で、蒼斗は瞬時に頭の中が真っ白になった。
副島が近づく度にゆっくりと後ろに下がり、瓦礫に踵が引っ掛かって倒れこんだ。
影が差し、瞳孔が開き、殺意を含んだ瞳が冷たく見下ろしていた。
もう、逃げられない――このままあのおぞましい物体に切り刻まれて、殺されてしまう。死んで、しまうんだ。
瞬時に思い描かれる己の末路。ガタガタと身体が震え、大粒の涙が泣きたくもないのに溢れ出た。
「――ようやく見つけたぞ」
夢なら早く覚めて欲しい。こんな悪夢はたくさんだ!
少しでも現実から逃れようと目を伏せたところで、何処からともなく首に感じた違和感と鼓膜に届く声。
「!?」
振り向きざまにチャリ、と金属が擦れる音。
間髪入れず蒼斗の身体は後ろに強い力で引き寄せられ、副島から数メートル離れたところで地面に投げ出された。
――何事だ?
咳き込み首に触れれば、冷たい鉄の感触。
それは青色に光を発しており、確かめるように触れればいとも簡単にガラス細工のように砕け散った。
ハッと振り返り、先ほどの爆発で燃え盛る建物を背景に立つ人影に瞠目した。
髪やコート、ブーツ……上から下まで真っ黒に身を包んだその人は、冷たい瞳で蒼斗を見据える。黒の革手袋がはめられた左手に持つ煙管が妙に不釣合いだった。
「長いこと探していたが……まさか記憶をなくしていたとは思わなんだ」
「あなたは一体……?」
男はその場で一服すると、不敵に笑って言った。
「東崎亜紀――お前の飼い主だ」




