ケテル
「……え?」
蒼斗は血飛沫が宙を舞うのを見て、声が衝撃で喉の奥に強引に押し込められた。
「亥角――ッ!!」
亜紀の驚く声が響き渡った。
洗い流されるよう色がなくなった世界で、黒羽が倒れるのを呆然と見つめた。
音の出所を辿れば、銃口から出る白煙が一筋空に昇り、狂ったような耳障りな笑い声が玉座の間に弾けた。
「死ねぇ、亥角ぃぃぃ!」
「御影!?」
床に投げ出された黒羽は身動き一つしなかった。
そこには黒羽によって餓死させられたはずの御影が肩を竦め、せせら笑っていた。
「馬鹿な……奴は亥角が確かに殺したはずだ!」
下品な声で腹を抱える御影。
その姿に蒼斗たちは悪夢でも見ているのだと思った。しかし、その答えはすぐに導き出せた。
「テメェ……っ、まだ影武者を用意してやがったのか!」
「その通り! しかも狂蟲を植え付けたとっておきのな!!」
「くそっ、辰宮太一の報告を既に受けていたのか!」
「黒羽さん!」
蒼斗は大鎌を手放し、黒羽の身体を抱き起こした。
腹部の傷からはじわりと赤い液体がとめどなく流れ、手で傷口を強く押さえて止血しようと試みても無駄だった。
覚悟は決めていた――自分の手で黒羽を、家族である兄を斬ると。
だが、いざ黒羽が危険な状態に陥るとなると、頭の中が真っ白になって何も考えられなくなった。
「いい様だな、亥角。この程度で我を殺せるとでも思ったか? 片腹痛いわ!」
御影の周りには、太一の時のように作られた狂魔が盾のように立ちはだかっていた。
――だがそれよりも亜紀たちに動揺を与えたのは、狂魔ではなく――彼の背後に控えて現界している存在だった。
「馬鹿な……どうし、て……?」
それはバチカルやエーイーリーとは違い、どちらかといえばアィーアツブスのように人間の姿をしていた。
眩しいくらいの白い肌を持ち、金色の髪を優しく揺らめかせ宙に浮いていた。
腕を組み、何処を見ているわけでもなく歌を口ずさむ。
形容しがたい神々しさを取り巻いていた。
ただ、顔に表情がないため、少々怖いところ。
亜紀は嘘であって欲しかったと歯噛みした。
よりにもよって、最も危険で、最も扱わせてはいけない人間に――天使が契約魔として現界していたなんて。
世界にはクリフォトを守護する十大悪魔に対し、光と創造の象徴であるセフィロトを守護する十大天使が存在する。
ケテル
コクマー
ビナー
ケセド
ゲブラー
ティファレト
ネツァク
ホド
イェソド
マルクト
最悪なことに、恐らく御影と契約した天使は第一階級ケテル。
神の王座に最も近く、バチカルと対極の立場にある。
「ただの天使ならまだ良かったが……まさか契約したのがコイツかい!」
「どうだAPOCの総帥! 我が天使を従えられないと思ったか!」
「ちっ、ここで面倒くせぇ奴が出てきやがった……っ!」
ケテルの対抗手段としてまず考えられるのは、対となるバチカルの召喚。
しかし、アバドンの鎖の効果で亜紀の体力は底をつき、本体を現界させるまでの力を持っていない。扱っている悪魔が悪魔なだけあってその対価は大きい。
瀬戸も同様、エーイーリーの連続召喚で帰還時の体力しか残っておらず、召喚しようにも叶わない。
千葉も爆弾の解除で手が離せず、まさに絶体絶命状態。
御影がケテルを召喚していたことを想定していなかったことが誤算だった。
蒼魔弾も使用しようと試みるが、周囲に結界が張られ、とても届きそうにない。
「くそ……っ」
「ケテルの力を以て塵となるがいい!」
「亜紀、下がれ!」
両手を静かに広げ、歌を口ずさむケテル。
周囲からは無数の矢が出現し、今にも降り注ぎそうだった。
瀬戸は亜紀を背に庇い、地に手をついて最小限の結界を張る。
「死ぬがいい!!」
バケツをひっくり返したような、矢の雨。
その威力はセフィロト第一階級の攻撃なだけあり凄まじく、結界が受ける衝撃の反動で瀬戸の身体に傷が走った。
「やめろ、彦! これ以上受けたらお前の身体がもたない!」
着流しが裂け、血が飛ぶのを目にし、亜紀は何度も腕を掴んで制止させようと怒鳴る。
それでも瀬戸は結界の手を止めなかった。
揺さぶる亜紀の方を振り返り、苦しそうに眉間にしわを刻み、額に脂汗を浮かべながら鼻で嗤う。
「言っただろう……君は、僕が必ず守ると。ここから先は、誰一人……君に指一本触れさせないと……」
「!」
「僕は君の右腕であり、君の盾でありたい……その決意は十年前、君に拾ってもらった時から何一つ変わらない」
「彦、お前……」
キリがないと御影は歯軋りし、ケテルの攻撃を受け続けていればいずれ力尽きると意識を別に向けた。
死別の時を迎えようとしている兄弟を捉え、ニタリと口角を上げた。
「残念だったな、死神。せっかくの家族との再会も束の間の出来事となった。これで肉親はいなくなる。孤独を嫌っていた貴様のために、我が直々に助力してやろう――貴様もろとも始末してくれる!」
「やめろ!!」
ケテルが力を一本の矢に集束させ、鏃を抜け殻状態の蒼斗に向けた。
亜紀は咄嗟に少しでも軌道をずらそうと、弾切れになった銃を御影に投げつけた。
召喚した者と召喚された者は、五感が見えない枝で繋がっている。
投げた銃は不意を突いて御影の腕に当たり、その表情が歪むと同時にケテルの顔も痛みで変化した。
放たれる直前に意識がそれ、矢の軌道は外れ――蒼斗の頭部を掠めた。
突然の衝撃に対応出来なかった蒼斗は、背中から倒れ込んで動かなくなった。
亜紀や瀬戸たちがいくら言葉を投げかけても、全く反応はない。
「死神風情が崇高な血を引く我が御影を滅ぼそうなど、百年早いわぁ! その忌々しい血を根絶やしにしてくれる!」
黒羽だけでなく、蒼斗まで撃たれたことで完全に頭に血が上った亜紀。
額には青筋をくっきりと浮かばせていた。残りの弾が僅かしかない状態で、今にも飛びかかりそうな亜紀。慌ててそれを瀬戸が止める。
御影は炎上していく街を見て、鼻を鳴らして言った。
「もうこの国など興味もかけらもないわ!」
「何?」
「ここは時期に滅びる――ならば、ここを捨て、貴様らのペンタグラムに新たな我の新しい世界を築くまでだ!」
御影の聞くに堪えない笑い声に、憮然とした表情を見せる瀬戸。
「さっきから聞いていれば、何処までも下衆だね、君」
「ペンタグラムはお前のような人間に扱えるものじゃない」
「扱うのではない、従わせるのだ! この我こそ、絶対的な力を持つ我こそが、新たな世界を築く王となるのだ!」
御影の声を合図に、衛兵たちが再び襲いかかって来た。
既に屋上に待機してあるヘリは乗っ取られ、無線も全てジャックされてしまっている。
銃弾は少なく、銃がなくても剣で敵を静めることは出来る――が、数多の修羅場をくぐって来た亜紀たちでも、流石に体力は限界に近づく。
「まずい、このままオリエンスが崩壊したら神の悪夢が破裂してセントラルを中心に狂蟲狂魔共々溢れ出してペンタグラムを浸蝕する!」
「爆発を止めるしかない!!」
「これで終わりだ、侵入者ども! 憎き死神もろとも肉片となるがいい!」
流れ弾が腕を掠め、亜紀たちの顔からはいつもの余裕さは既になくなっている。
最早これまでかと諦めかけた。
「蒼斗――っ!」
亜紀は視界の端で倒れた蒼斗に衛兵の銃口が向いているのを捉え、あらんかぎりの声で名を呼び、叫喚した。
――お前だけは生きて欲しい。
――いずれ誰もが自由になり、権利を奪還し、平穏な日々が戻ってくる。その時は一人の人間として、精一杯生きて欲しい……私の分まで。
――ちゃんと、返してくださいね。




