シンデレラのゴム底の靴〜異世界に落とされた上履きのせいで家に帰れません〜
「………」
ここは伝統ある我が華苑学園の校舎二階にある、女子トイレ。
私ー佐々木真生子は、茶色のゴム製のサンダルー俗に言う便所スリッパをつっかけたまま、呆然と立ち尽くしていた。
私の目に映るのは、少々薄汚れた薄緑色のトイレの床。それ以外の物は何もない。
そう、何もない。
「嘘でしょう…」
ようやく喉からこぼれたのは、現実逃避の言葉。しかし言ったところで、ない物が現れるわけがない。
そう、私がトイレに入る前に履いていた、白地に赤いゴム底のついた上履き。
それが、個室から出てくると、きれいさっぱり、忽然と姿を消していたのだ。
(も、もしかして、これが世に言う、いじめってやつ?)
高校二年生の春。一年の時からクラス替えがあり、まだ仲のいいグループもできかけている途中の時期だ。
恐ろしい可能性が頭をよぎり、思わず体が震える。
ついでに目に涙も浮かびかけたところでー
キーンコーンカーンコーン
入学して以来聞き慣れた、妙に間の抜けた音が響いた。
しかしその音で、私ははっと我に返った。
今のは予鈴の音だ。つまり、あと五分で授業が始まる。
進学校である我が校は、勉強だけでなく、生徒の態度にもとても厳しい。
授業に遅れたりすれば、どんなペナルティを課されるか、考えただけでも震えが走る。
私はさっきまでとは別の意味で身震いして、トイレから飛び出したのだった。
**********
「今日も、ない…」
その日も、私は女子トイレのタイル張りの床で、途方に暮れていた。
今日で何度目になるだろうか。消えてしまった上履きの数を数えると、目眩がする。
最初にこのおかしな現象が起こった時、私は僅かな時間をめいっぱい使って、購買で新しい上履きを買った。学園の来客用のスリッパを使うという手もないではなかったが、服装に厳しい我が校の校舎内で、指定の上履きでないものを履いていたら確実に追及されてしまう。
咄嗟の判断だった。
指定の上履きは、何がどうしてそうなるのか、やたらと値段がする。
購買のレジの中に消えていくお金を、今回だけの必要経費だと必死に言い聞かせて、私は叱責を免れる術を手に入れた。
そしてその一回限りという慰めが裏切られたのが、わずか数日後のことだった。
不思議なことに、当初恐れていたいじめの可能性は、全くの杞憂だった。
教室に戻っても、嫌な視線や無視といった反応はなく。
班分けで仲間はずれにされることも、どこかに呼び出されて暴力を振るわれることもなかった。
もしかしたら、誰かが私の上履きを蹴飛ばしてしまって、どこかにいってしまっただけなのかも…
そう前向きに思おうとした矢先に、また上履きは消えてしまったのだ。
それからも、週に一度とまでは言わなくても、月に一、二回の頻度でそれは起きた。
その度に、新しくなる上履き。
高校生の財布にこの出費は痛い。
「真生ちゃんの上履き、いっつもきれいだね〜、きれい好き?」という友達の問いかけには、苦笑するしかなかった。
そうして、結構な金額が上履きの為に消えてしまった頃、ようやく私は、この現象を解明しようと決めたのだった。
「ひとまず、こういう条件が考えられるかな…」
これまでの現場の状況を書き上げて、私はいくつかの共通点を発見した。
まず第一に、トイレにいるのが私一人だけの時であること、
第二に、三つある個室の内、一番手前の唯一の洋式トイレを使った時であること。
ちなみに、この二つは微妙に関連する。
伝統あるーすなわち、古い校舎の我が校では、圧倒的にトイレは和式が多い。
昨今の事情に合わせて、洋式も増やされてはいるが、学園の財政事情もあるのだろう、数は非常に少ない。
そして、十代の女の子にとってみれば、何だか不潔なイメージのある和式はできれば避けたいもの。
したがって、女子トイレでは真っ先に洋式の個室が埋まってしまうのだ。
私はというと、空いていれば洋式に入りたいというのが正直なところだが、やむを得なければ和式にも入る。
だから、私が洋式のトイレを使うのは、必然的に、私一人しかいない時なのだ。
しかし、ふと思い出してみると、同じように第一と第二の条件が揃っていても、上履きが消えない時があった。
とすると、他に何か重要な条件があるに違いない。
私は何としてもこの事件を解明し、大切なお小遣いと共に消えてしまった上履きを取り戻そうと、決意を新たにした。
スイッチの入った私は、様々なことを試してみた。
友達に、それとなく同じ条件でトイレに入ってもらったり。
条件の整ったトイレで、個室に入ったと見せかけて飛び出してみたり。
そうして新たに分かったのは、なんとも奇妙なものだった。
まず、条件が整っていても、友達の上履きはなくならなかったこと。
そして、どうやら上履きは、個室のドアを閉めた瞬間に消えるらしいこと。
二つ目の事実に気づいた時、私は軽いホラーを感じて、いじめを疑った時とは別の意味で震えた。
あとから思えば、ここで恐怖を感じた時に、下手な詮索を止めておくべきだったのだと思う。
けれどその時の私には、新しい上履き代に消えていったお小遣いへの執着の方が強く、謎解きを止める選択肢は思い浮かびさえしなかった。
ある日、トイレに入った私は、無意識に上履きを脱いでいて、ふと気がついた。
自分でもよくわからないが、私はいつも大体、定位置で上履きを脱ぐのだ。
よくよく見れば、薄汚れた薄緑色の床に、ぽつんと、墨汁を落としたような染みが二つあった。
どうも私は無意識に、その染みの上で上履きを脱いでいたらしい。左右それぞれの靴で隠すように。
ただ染みからあまりにも離れたところにサンダルがある時は、わざわざそこで脱いだりはしないのだが。
これだ!
直感で、そう思った。
この三つめの条件が揃って、上履きは消えるに違いない。
そして私は、思いついた。
あとから思えば、ここが引き返す最後のチャンスだったのだろう。
しかし、お小遣いに対する執念に燃える私は、選んでしまったのだ。
消えた物が取り返せるという期待にかられて。
条件が揃った時、私自身が上履きを履いたらーと。
それから間もなく、実験を遂行できる機会が訪れた。
一人トイレに入った私は、掃除用のモップを手に定位置に立った。
深呼吸をして、モップを構える。
バタン!
モップの柄が手前の個室のドアを叩き、勢いよく閉まった。
その瞬間。
「!!」
床を踏みしめていたはずの足が、急に下に引っ張られた。
ものすごい吸引力で吸い込まれているような感じだ。
直後、目の前が真っ暗になり、私は暗闇の中を、恐ろしいスピードで落下していった。
**********
ドスン!
「痛っ」
真っ暗闇から、急に視界が明るくなったと思った直後、私はどこかに着地していた。
落下速度の割には、衝撃が少なく、痛みはほとんどなかった。
あれ?でも今、「痛い」と聞こえたような…?
「え……ひぃっ」
顔を上げた私は、驚愕した。
目の前に、人の顔があったからだ。
くすんだ青色の瞳に、暗い金色の髪。
目を縁取るのも髪と同じ金色のまつげで、眉間から鼻梁にかけての起伏の差が激しい。
明らかに、日本人ではない顔だった。
「陛下!何やつ!!」
今度は後ろの方から、上ずった声が聞こえて、私は勢いよく首を回した。
声の主は、黒いコートのようなものに紺色のズボンをはいた、細身の男らしい。
男の恐怖と驚愕の混じった顔がこちらに向いているのを理解して、つられて自分の姿を見た私は、二度目の驚愕の声をあげた。
「わ、わぁっ!」
何と、私は一人がけのソファに座った男性の膝の上に、横抱きの形で座っていたからだ。
「す、すみませ、すぐ下りま…ぎゃっ」
慌てて男性の膝の上から下りようとした私だったが、バランスを崩して無様に転げ落ちてしまった。
しかし恥ずかしがっている暇はない。
見知らぬ男性の膝に乗るなどという、恐らくとても失礼なことをしてしまったのだ。
ここは土下座でもして、何とか許してもらわなければ。
ところが、その姿勢になるより前に、足を掴まれてしまった。
四つん這いになった状態で、片足だけ掴まれて高く上げられて。
なんとも言えない格好されたまま、こわごわ顔を上げると、そこには、私の足ー正確に言えば上履きを凝視する顔があった。
「この履物…では、おまえか!」
「ひっ、ごっ、ごめんなさい!」
勢いよくこちらへ振り返った顔が、怒っているのかどうかを確認する余裕もなく、私は反射的に謝罪の言葉を叫んでいた。
「わ、わざとじゃないんです!許してください!」
土下座することが叶わなくなった私は、掴まれた足を軸に床に座り直すと、精一杯の角度で頭を下げた。
「自分でも、なんでこんなことになったのかわからなくて…本当に、ごめんなさい!」
ひたすら頭を下げ続けていると、後ろでこれ見よがしな咳払いが聞こえた。
「うぉっほん!陛下、そのように捕まえておられずとも、その娘、どうせここから逃げられませんぞ」
ふと周りを見回すと、咳払いした男の背後には大きな扉があり、その両脇に重そうな甲冑を着た男達が立っていた。
男性は男の言葉に、「あ、ああ、そうだな…」と我に返り、そして次の瞬間、素っ頓狂な声をあげた。
「は?!おまえ、な、なな、何という格好をしているのだ!」
まるで汚い物でも触ってしまったかのように、男性は私の足を放り出すと、顔を背けた。
慌てた様子の男性に、私は少しだけ恐怖心が薄らぎ、彼が足を掴んでいたのだから仕方ないだろうと心の中で文句を言いながら座り直した。
しかし、それでは足りなかったらしい。
ちらりと視線を戻した男性は、再びさっと顔を背けると、「そうではない!」と叫んだ。
「その足!それを何とかしろ!」
「は?」
何のことか、さっぱりわからない。
怪訝な顔をしているだろう私に痺れを切らしたのか、男性が苛立った仕草で立ち上がると、近くにあったテーブルに敷かれていた布をひっつかんだ。
「ええい、面倒な!これでもかけていろ!」
「え…わっ」
投網のように布を投げられて、思わず顔をかばうように両腕を上げてしまったが、布が着地したのは、私の膝の上だった。
「ふー…これでようやく、まともに見られる」
男性の疲労と安堵の混じった声に、私はようやく、むき出しの足のことを指摘されていたのだと理解した。
しかし、そんなに大騒ぎするようなことだろうか。
服装に厳格な我が校の制服は、スカートも膝下丈。
したがって、むき出しと言っても見えているのは、ふくらはぎと脛の一部だけなのだが。
「そのように足を丸出しにして私の前に現れるなど…おまえもしや、魔女の入った娼婦か?」
「しょ、しょうふ?!」
ショックで声が裏返った。
「し、失礼な!私はまだ十七歳の高校生です!そんなこと、したこともありません!」
「わっ、待て、立ち上がるな!」
衝動で立ち上がりかけた私の膝から布が滑り落ち、男性が慌てた声を出した。
「前言を撤回して下さい。そうじゃなきゃ、戻しません」
「わかった、撤回するから、早く隠してくれ」
渋々座り直して布をかけると、男性がようやくこちらを向いた。
「はあ、まったくとんだ娘がいたものだ。しかし、十七歳か…とてもそうは見えんな。そして、何と言ったか…コーコーセー?」
聞き慣れたはずの単語が、男性が発した途端、妙に片言に聞こえた。
そこで初めて、私はここがどこなのかと恐怖を抱いた。
「あ、あの、ここはどこですか?私、学校のトイレにいたはずなんですけど」
「私は質問は許していないのだが…まあいい。ここはアシュタヴィヤ王国の王宮、国王である私の執務室だ」
「あ、あしゅたう゛ぃや…」
どこだ、それ。
自慢じゃないけど、私は勉強はそこそこできる方だ。
でも、私の地理の知識にそんな国名はない。
いやそもそも、そんな国が本当にあったとして、学校のトイレから落ちるように辿り着けるはずはないのだが。
それに…
「こ、こくおう?」
オウムのように聞き返した私に、男性はうむ、と深く頷いた。
「我こそは、十六代アシュタヴィヤ国王、ヴィルゼ三世だ」
確かに、ソファにふんぞり返る偉そうな態度と尊大な口調は、国王という身分がぴったりだ。
普通の、例えばこの国の国民なら、畏怖の念から伏し拝むところなのだろうが、いかんせん、たった今その事実を知ったばかりの私には、そんな態度はとれなかった。
「あ、あの、ここに、この世界に、日本という国はありますか?」
普通に生きていたら、考えつくことすらない、ありえない質問を、私は国王と名乗る男性ーヴィルゼ三世に、投げかけた。
もしかしたら、私が知らないだけで、とても小さな国として存在しているのかもしれない。
そんな淡い期待を抱いての質問だった。
「ニホン?はて、聞いたことがないな」
「面積は小さい島国なんですけど、それでも経済大国で…サミットにも参加してるんです」
「サミット…なんだ、それは」
ここに至って、私は完全に望みを断たれてしまった。
仮にも一国の王が、サミットを知らずにやっていけるはずがない。
やはりここは、次元の違う世界のようだ。
ならば夢ではないかと、手の甲を思いっきり爪で捻ってみたが、普通に痛い。
どうやら夢でもないらしいが、それなら一体ここはどこなのだ。
「なるほど、おまえはそのニホンとかいう国の生まれなのだな。では、あの靴も、おまえの国の品か」
問いかけにつられて顔を上げると、王様がある方向を指していた。
ロボットのように、その指し示す方に首を廻らすと…
「なっ、私の上履き!!」
そこには、無数の上履きが積み上げられていて、こんもりとした茂みの様相を呈していた。
反射的に立ち上がって、その塊に駆け寄る。
積まれた上履きは、買って一月もしないうちに消えてしまったため、どれも大した汚れのないいたってきれいな状態で、その光景に思わず涙が浮かんだ。
何しろ、私のお小遣いの結果が、消えずに物として現れたのだから!
しかし、そんな感極まった様子がどう映ったのか、王様がは見当違いの見解を投げつけてきた。
「やはり、おまえの国でもその履物は高価なのだな。執務中に突然頭上から降ってきた時には何かの魔術や呪いかと警戒もしたが…いや、確かに、その靴底の弾力は素晴らしいものだ。我が王宮の大理石の床を歩いても、足音が全くしない」
「は?」
王様を振り返った私は、はっきり言って、「何言ってるんだこいつ」という顔をしていたと思う。
しかし王様は気づかず、得意げに演説を続けた。
「そうだ、娘。私の下で、その靴底を作れ」
「作れって…このゴム底のことですか」
「ほぉ、ゴムというのか…そうだ、そのゴムだ」
「え、いや、無理です」
即答した瞬間、部屋の温度が数度下がった気がした。
元来ビビりの私は、こうした空気に非常に弱い。
失敗したと焦りながらも、しかし無理なものは無理だと、弁解した。
「私はこれを作る職人ではないので、作り方なんて知らないんです。確か天然のゴムは、何かの木の樹液からとるのだったと思いますけど、それから先の加工方法は知りません。まして、人工的に作る合成ゴムとなると、どう作るのか全くわかりません」
知らなくてごめんなさい、と最後に小声で付け加えた。
いくらか部屋の雰囲気はましになった気がするが、やはり沈黙が痛い。
所在なげに俯いていると、いくぶん沈んだ低い声がした。
「その職人に聞けば、作り方がわかるのだな?」
「え?まあ、恐らくは。家に帰れば、ネットで調べることもできると思いますし」
私がそう言うや否や、王様はガタンと勢いよく立ち上がった。
「それでは、アシュタヴィヤ国王、ヴィルゼ三世の名の下に命ず。今すぐ帰国し、その方法を持って参れ!」
「………」
言われたことを理解するまでに、たっぷり数秒、いや、一分くらい時間がかかった。
意味を咀嚼した途端、わき上がってきたのは、苛立ちだった。
すっくと立ち上がった私は、狼狽した王様が言葉を発する前に叫んだ。
「だったら、家に帰る方法を教えてよ!」
それで帰ったら、二度とこんなところに来るもんか!
そして叫んだ数秒後には、例の布が再び投網のように私に投げつけられたのだった。
**********
「何で私が、こんな目に遭わなきゃいけないの…」
目眩がしそうな文字の羅列を前に、私は思わず愚痴をこぼした。
文字と言っても、今まで生きてきた中でお目にかかったことのない、絵のような文字だ。
「マイコ、サボっている暇はありません。陛下のご要望に応えるためにも、早く文字を覚えなくては」
引っ詰め髪に首まできっちりボタンをしめた家庭教師の先生が、叱責を飛ばす。
陛下のご要望、ね。
私は心の中で吐き捨てるように呟いた。
そんなの、知るもんか。方法を見つけ出して家に帰れたら、絶対にここへは戻ってこないんだから!
けれど、肝心の方法を探すには、文字を覚えなきゃいけないのも事実。
私は唇を尖らせたまま、ノートにペンを走らせた。
あの日、帰る方法を教えろと叫んだ私に返ってきたのは、絶望的な答えだった。
曰く、私が勝手に現れたのだから、勝手に帰れるだろうと。
一瞬我を忘れて、仮にも王様に殴りかかりそうになった。
私の行動に一度は殺気だった室内だったが、そのまま私が床に座り込んで泣き始めると、途端に陰気な雰囲気になった。
甲冑男達は顔を見合わせ、王様は狼狽し、細身の男はあきれ顔で首を振った。
そうして私が泣き疲れて鼻を啜るだけになった頃、細身の男ー彼はこの国の宰相だったーが提案をした。
王宮の資料室に、何か手がかりがあるかもしれない、と。
他に方法も思いつかないので、とりあえずその提案に乗った私だったが、すぐに驚愕の事実に打ちのめされた。
見た目がまるっきり西洋人のこの国の人と、何故か会話は難なくできた。
しかし、文字の読み書きはそうではなかった。
つまり、こちらの文字で書かれた資料は、私には理解できないのだ。
会話や聞き取りはできるのだから、私に読んで聞かせる人を雇ってくれと頼んだら、王室内の資料は極秘の物が多いから、それはできないと拒まれてしまった。
どれだけ頼んでも却下の一点張りで、やむなく私は、一からこの国の文字を勉強する羽目になったのだ。
「マイコ、勉強は順調か」
その日の授業を終えてぐったりしていると、王様がやってきた。
「ええ、おかげさまで」
勉強を始めてから数ヶ月。
先生が作った簡単な文章なら、理解できるようになってきた。
しかし、まだまだ読むのに時間がかかるし、難しい言葉は意味を理解できない。
これでは、王宮にある膨大で堅苦しい資料など、読むのに一体どれだけの時間がかかるか。
たとえその中に探し求める答えがあったとしても、そこに辿り着けるのは遙か先になりそうだ。
「王様だって、早く方法が知りたいでしょう。それなら、私に一から勉強させるより、読める人に資料を探してもらった方が遙かに効率的だと思うんですけど」
「まあそう言うな。わが国も人手不足なのだ。それに、喫緊の課題というわけでもない」
「…私は早く帰りたい」
ぼそりと呟くと、突然目の前に何かが差し出された。
「厨房で掠めてきた。疲れた時にはいいだろう」
それは、甘いにおいのする、マフィンのようなお菓子だった。
王様は、時々こうしてやって来ては、甘い物の差し入れをするのだ。
小さくちぎって口に運ぶと、甘い味と香りが口いっぱいに広がった。
「美味しい…」
「そうか」
黙々とマフィンをちぎっては口に運ぶ私を、王様は何が楽しいのか、微笑みながら眺めていた。
「マイコの国には、甘味はあるのか?」
「え?まあ、ありますよ」
唐突な問いに答えてから、私は前まで特にありがたがることもなく食べていたお菓子の数々を頭に思い浮かべた。
「こっちにあるようなクッキーもありますし。ケーキはもっと凝ったのがありますよ。クリームとか果物をこれでもかと乗っけたやつとか。それからプリンにゼリー…和菓子だと、大福とかどら焼きとか、あとは羊羹に…」
「ま、待て!そんなに沢山あるのか?」
焦ったような声に遮られて、私は「はあ、まだありますけど」と気の抜けた返事をした。
しかし王様は何やら打ちのめされたような顔をして、俯いてしまった。
「そなたの国は、随分と進んでいるようだな」
「そうですね…私の感覚でいうと、ここは近世ヨーロッパみたいな感じですね。まあ、体験したわけじゃないですけど」
「それに、そなたはかなり高度な教育を受けているようだが、国では特に身分はないというし」
「身分制なんてありませんからね」
「だから私に対してもこんな態度がとれるのだな」
ようやく、王様がにやりと笑った。
穏やかな感じの笑みではなく、皮肉気なものだったけど。
「それもありますけど、私は単に、この国の人じゃないからですよ。あなたがどういう系譜の存在で、どういう印象を持って接したらいい存在か、わからないんですから」
そこまで言って、私は元の世界のことを思い出した。
「ああでも、やっぱり生まれながらの王様とかは、威厳を感じますよね。風格っていうんでしょうか。その点、王様も、初めて会った時は恐怖を感じるくらいの雰囲気はありましたよ」
半分くらいはお世辞だった。
あの時の私は、訳のわからない状況に放り出されたことこそが恐怖で、目の前の王様を怖いと思う余裕すらなかったのだ。
けれど、突然膝の上に落ちてきた私に大して驚きもしなかったことは、純粋にすごいと思った。
まあ、その後私の足の一件で、そんな印象もだいぶ削られてしまったけれど。
「そうか。他でもないそなたの口から聞くと、心強いな」
私のお世辞を真に受けたのか、王様の笑みが少し朗らかなものになった。
「褒美に、何か欲しいものがあったら言うといい」
「はあ」
欲しいもの、と言われても、すぐには思いつかない。
困っていることはあるけれど。
「考えておきます」
私が保留の返事をすると、うむ、と王様は頷いて、部屋を出て行った。
「…まさか、元の世界じゃなくてこっちでこんな目に遭うとは…」
とぼとぼと廊下を歩きながら、私はぼそりと呟いた。
こんな風に気持ちが沈んでいるのは、数分前の出来事のせいだ。
『まあ、お猿さんが人の服を着て歩いてるわよ』
『しーっ、聞こえちゃうわよ。でも、ふふ、おかしいわね』
『陛下も何であんなのを置いておくのかしら。もしかして、ペット?』
すれ違いざまに、着飾った貴族のご令嬢に投げつけられた言葉。
いや、正確には投げつけられたのではなく、耳に入ってしまっただけなのだけど、あんな大きなひそひそ話、わざと聞かせているのも同然だ。
着の身着のまま、荷物も持たずこの世界に落ちてきた私は、当然着替えなど持っていなかった。
しかもここは、近世ヨーロッパ風の世界。
私が普段着るような服は手に入らず、仕方なく周りの女性と同じようなドレスを身につけていた。
猿真似、と文明開化期の日本を揶揄した人がいたっけ。
何の因果か、現代っ子の私が全く同じ中傷を受けている。
あまり腹は立たない。
私は浴衣がよく似合うと言われる、なで肩・寸胴体型で、自分でも似合っているとはとても思えないのだから。
わき上がる感情は、悔しさだ。
こんな服、こっちから願い下げだ、と言ってやりたくても、代わりに着られるものがない。
悔しい、あの人達だって、私の世界に飛ばされて浴衣でも着てみればいいんだ。
そうしたら、服装の文化的差異に驚くに違いない。
「あ、浴衣、作れるかな…」
呟いた言葉が、廊下の静けさの中に溶けていった。
「マイコ、調子はどう…」
部屋を尋ねてきた王様が、私を見て固まった。
対する私は、ちょっと自慢げに胸を反らしている。
「だいぶ進みました。明日、比較的簡単な資料から挑戦してみるつもりです」
説明しながら、私は椅子から立ち上がった。
「どうですか?いただいた布で、作ってみたんです。私の国の、民族衣装みたいなものです」
襟元の薄い紫色が、袖や裾に下がるにつれてだんだん濃くなっていく生地の浴衣に、カーテン生地より硬い黒い布の帯。
西洋風の色や柄の生地は使えなかったので、いろいろと制約はあったけれど、なかなかいい具合にできたと思う。
ひょこひょこと回って見せると、王様が上ずった声を出した。
「い、いいんじゃないか?足も隠れてるし」
「そこですか?」
女性が足を露出させるのは、この国ではよくよくきつい御法度らしい。
まあ、この方が私もしっくりくるし、ダメだ脱げなどと言われなかっただけ、良しとしよう。
唇を尖らせて席に戻ろうとすると、ぼそりと小さな声がした。
「やはり、故郷のものが似合うな」
小さいけれど確かに聞こえた細やかな賛辞に、私はへへ、と照れ笑いを零した。
「帯が外れると一気にはだけちゃうので、激しい運動はできないんですけどね。似合わないものを着てるよりも遙かに気持ちが楽です」
「…別に似合ってなくなどなかったが…」
「王様の目、ちゃんと見えてます?」
疑いの眼差しを向けると、王様はふいと目をそらした。
ふん、見え透いたお世辞は時に相手を傷つけるのだと、学習した方がいい。
「さあ、気持ちも軽くなったし、この勢いで帰る方法を探すぞ!」
王様に背を向けて意気込んだ私には、彼の表情はわからなかった。
**********
「ううう、見つからない〜」
古い紙とインクのにおいが充満する資料室で、私は弱音を吐いていた。
王様によると、先代と先々代からは、別の世界から人が来たなんて話は聞いたこともないとのことだったから、とりあえず三代前の王様の記録から読み始めているのだが…最大だと初代までの十三人分の記録を読まなくてはならないのだ。
おまけに一人の王様の在位が三十年くらいだから、年数にして大体四百年分。
気が遠くなる。
「しかもこのぐにょぐにょした文字…眺めてたら眠くなるし…」
だんだんと瞼が重力に逆らえなくなってくる。
あれ、本当に文字がぐにょぐにょ躍り出した。
あー、これはやばいな。
そう思いながら、私は睡魔に敗北した。
「…ぃ……おい……おい、起きろ」
「んあ?」
誰かに揺さぶられて目を開けると、そこには金の髪と青い瞳があった。
「こんなところで寝ると風邪を引く」
「ん−、ぅん」
体を起こそうとするが、力が入らない。
手こずっていると、背中に大きな手が当てられて、助け起こされた。
「まったく、いつから寝ていたんだ。服が冷たくなっているぞ」
口調は怒っているが、内容は私の体を気遣うものだ。
寝起きで頭が働かないのもあって、私は何だかおかしくなってしまい、思わず笑いをもらした。
「王様、なんかお母さんみたい」
「は?」
「何でこんなに頻繁に、私の様子を見に来るの?暇なの?」
「こ、国王が暇なわけがあるか!」
「あ、ここは大声禁止、静粛にー」
王様の顔が、ムッとしたものになる。
その表情にケラケラと笑って、私は呟いた。
「やっぱり、私は王様の仕事を邪魔してるよね」
王様が口を開いたのが見えたので、私は慌てて話を続けた。
「私もね、早く帰ろうと努力はしてるんだよ?でも、なかなか読み進められないし、時間ばっかり過ぎていくし…しかも最近ね、気づいたの。前髪が、目にかかるくらいにのびちゃってた」
「前髪?」
眉間にかかる髪を一房すくってみせると、王様が怪訝な声をあげた。
「そう、髪がのびたの。それくらい、こっちに来てから時間が経ってるってこと。それなら、元の世界でも同じくらいの時間が過ぎてるのかな」
最近よく想像してしまうのだ。
これから何年もかかって、やっとことで元の世界に帰ることができたとして、私は社会に、人々に、受け入れてもらえるのだろうかと。
そりゃ、もしかしたら、ファンタジー小説みたいに、戻ったら向こうの世界では一秒も経ってなかったってこともあるかもしれない。
でも、そんな楽天的な想像ができるほど、私は希望を持てなくなっていた。
「この世界じゃ、私にはお父さんもお母さんも、友達もいない。だから帰りたいのは本当だけど、それも怖い。そもそも帰れないかもしれないのも、すごく怖い」
誰かに弱音を吐いたのは、初めてだった。
言ったところでどうなるものでもないと思っていたのもあるし、聞いて欲しいと思える相手もいなかったから。
こんな風にぶちまけてしまったのは、きっと寝起きだったせいと、王様に保護者的な安心感を覚えてしまったせいだ。
だんだん冷静になってきた私は、恥ずかしさと後悔で膝をかかえた。
王様が私を気にするのは、ゴムの製法を知りたいからだし、それだって国の重要な課題なんかじゃなくて、王様の好奇心の範囲を出ないものだ。
王様がもういいや、と思ってしまえば、私は家に帰るための協力すら頼めなくなって、この世界で独りぼっちで生きていくしかない。
「王様は、まだあの靴のことが気になりますか?」
「…ああ」
「そっか、じゃあ、もうちょっと頑張ります」
私は寝る前まで読んでいた本を手に取った。
相変わらず読みにくいけど、必死に文字列を追う。
すると、黄ばんだ紙に影が差して、余計に読みにくくなった。
「なあ」
文句を言おうと顔を上げると、やたらと真剣な目をした王様の顔があった。
「言っておくが、私はおまえを見捨てたりしないからな」
「……」
「めでたく方法が見つかって、でも前の世界に馴染めなかったら、またこちらに戻ってくればいい。もしも帰れなかったとしても、私が面倒を見てやる」
ぽろり、と目頭から涙がこぼれた。
「あはは、なんかプロポーズみたいですね」
「…国王の結婚はこんな風には決まらん」
「わかってますよ」
それから王様は、泣き笑いする私の頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でると、資料室を出て行った。
しばらく余韻に浸ってから再開した調べ物は、やっぱり思うように進まなかったけど、それでもいくらか明るい気持ちで向き合うことができた。
ある日、宛がってもらっている部屋から資料室に向かっていると、いつか遭遇した貴族令嬢達と鉢合わせてしまった
「あなた、そんな格好で王宮の中を歩き回らないでくださる?」
「そうよ、風紀が乱れて、嘆かわしいったらないわ」
「はあ」
気のない反応に苛立ったのか、一人が声を荒げた。
「本当に、目障りなのよ!早く私たちの目の前から消えてちょうだい」
「じゃあ、失礼します」
もともと通り過ぎるところだったのを、彼女たちに呼び止められたようなものなのだ。
私は彼女の要望通り、立ち去ろうとした。
「そういう意味で言ったのではないわ!この王宮から、消えなさいと言ったの!」
「でも、私は帰る方法を探すためにここにいるのですし…」
すると、私の答えに、令嬢の口がにたりと歪んだ。
「あら、どうやって来たのかがわからないなら、帰ることもできないのではなくて?」
「そうよ、いつまでも陛下のお手を煩わせているより、町に下りて、その奇妙な格好で客でもとったらいかが?」
怒りに、頭が熱くなった。
前までは、何を言われても、悔しいと思うことはあっても腹を立てることはなかった。
けれど、つい先日、私を見捨てないと言ってくれた王様を持ち出されて、何故か私は我慢ができなくなった。
「ちょっと…」
「マイコ」
ふいに名前を呼ばれて、私は我に返った。
ここではその人だけが呼ぶ私の名前。
日本では聞き慣れない異国の発音をする本人は、その名前がどういう字を書くのか、ましてその意味や由来なんて知らないはず。
けれど私には、まるで今初めて名前と私自身が一致した、そんな感じがした。
「資料室に行ったが、まだ来ていないと言われてな。こんなところで油を売っていたのか」
「…売ってません、そんなもの」
視界の端で、さっきまで強気だった令嬢達が焦った様子で身を寄せ合っているのが見える。
所詮、弱い者の前で強者を気取る、ただの卑怯者なのだ。
「王様、一つ聞いてもいいですか」
「何だ、先に伺いを立てるとは、そなたも成長したな」
王様に笑顔を向けつつ、けれど意識は後方に飛ばして、私は質問を投げた。
「私、絶対に帰ります。だからそれまで、ここに置いていただけませんか?」
王様は、軽く目を見開いた後、ちらりと、私の後方を見やった。
それで全てを悟ったのか、満面の笑みを浮かべて頷いた。
「もちろんだ。国王の私が許可する。誰も追い出したりしない」
「ありがとうございます」
「だが…」
ふと、王様の表情が切なげなものになった。
額にかかる私の前髪を、一房すくわれる。
「方法が見つかれば、そなたはここからいなくなってしまうのだろうな」
何だか声まで切なそうで、私は一瞬言葉に詰まった。
「何言ってるんですか、もしも自由に行き来できるなら、また来ますよ」
わざと明るい声を出したのは、王様にはばれていただろう。
それでも、王様は「そうか」と頷いて、それ以上追及しなかった。
私は、先ほど見た切なそうな王様の顔に胸をぎゅっと掴まれたようになって、笑みを顔に貼り付けるのが精一杯だった。
**********
「夜中、王の寝室に突如曲者現る…?」
解読した文字に、私は一瞬放心した。
これは、もしや…!
今手に取っているのは、十二代国王の記録。
百年ほど前のものだ。
逸る鼓動を宥めつつ、古い紙を慎重に捲る。
『捕らえてみたところ、少女のような格好だった』
『大した力はないが、ひどく取り乱していたため、取り調べは翌日にまわす』
『捕らえて三日。少女はいまだ落ち着かず、聞き取りもままならない』
読解に時間がかかることを、これほど悔しく思ったことはない。
それに事件の進展も、少女の様子を見ているからか、とても遅い。
何度かページを捲って、ようやく結末に辿り着いた。
しかしそれは、期待していたものとはかけ離れていた。
『少女は舌を噛んで死んでいた。どこから来た者なのか、目的は何だったのか、不明とせざるをえない』
さらに絶望的なことに、この時、王の身に危険が迫ったこともあり、前例がないかと一大捜索が行われたらしい。
しかし、どんな文献をあたっても見つからなかったと、そう書いてあった。
今度こそ、私の心は絶望に塗りつぶされたのだった。
「なんだ、まだここにいたのか」
頭上から声が落ちてきて、顔を上げると、青い瞳と目が合った。
「もう暗いのに、灯りもつけていないとは…さては、また寝ていたか?」
からかうような口調に、いつもなら軽口で返せるのだが、今はどうにも無理だった。
反応のない私をさすがに不審に思ったのか、青い瞳がのぞき込んでくる。
「そなた…泣いていたのか」
正確には、もう涙は止まっている。
泣いた後らしく、瞼が腫れ上がっているだけだ。
「どうした、何があった」
私は黙って、自分を打ちのめしたページを開いて見せた。
手に取った王様が、目を走らせる。
さすがに、私なんか足下にも及ばないくらい、読むのが早い。
せわしなく文字を追う目が、次第に不穏な色を湛えていった。
「これは…」
読み終えた王様がこちらを振り返ったけど、私は同じタイミングで顔を背けた。
その顔に、同情とか憐みが浮かんでいたら、たまらないと思ったから。
「どうも、帰れないみたいです、私」
あらぬ方向を見たまま、私は言った。
「曲者だって捕まらなかっただけでも、すごくラッキーだったみたいですね」
私はゆっくりと立ち上がった。
長時間座り続けていたせいで、体が固まっていたのだ。
そして、まだ本を手にしたまましゃがみ込んでいる王様を見下ろした。
「私、やっぱりここを出ます。何の役にも立たないのにお世話になるのは気が引けますし。あ、欲を言えば、お仕事を紹介してもらえると嬉しいですけど」
「ここを出て、働くと…そういうことか?」
「はい、働かざる者、食うべからずとも言いますし」
だけど、読み書きだってままならない、この国の経済状況も知らない私に、つける仕事なんてあるのだろうか。
ふと、以前令嬢に投げつけられた言葉が浮かんだ。
それが、職業として大事なものであることは理解している。
けれど、自分にそれができるとはとても思えなかった。
「別に、わざわざ出て行かずとも、ここで働けばいいのではないか?」
「ここでって…王宮でですか?ああ、使用人ってことなら、それもありかもしれませんね」
大変そうだけど、そこそこの間生活した場所だ。
離れずにすむのは少し安心する。
「それに、私はそなたが帰れなくとも面倒を見ると言ったはずだが」
「いや、それは仕事の世話をしてもらえるだけで充分ですから」
何だ、王様は私に働かずに王宮でぐうたらしていてもいいと、そういっているのだろうか。
もともと一庶民の私に、そんな生活は逆にハードルが高すぎる。
「仕方ない、では、そなたに仕事を与えよう。詳しいことは明日話すから、今日はもう戻れ」
「はい、そうさせてもらいます」
そして王様は、私を部屋まで送ってくれた。
いつになく優しい振る舞いにドキドキしたのは、一生の秘密だ。
「はあ?王様の話し相手?」
翌日、執務室の呼ばれて言い渡されたのは、全く予想もしていなかった仕事だった。
「冗談ですよね?そんな、資産家の未亡人のおばあさんのじゃあるまいし」
「私は冗談は言わない。そなたと話をすることに価値があると思ったから、言ったまでだ」
「だからって…ちなみに、それでいくらもらえるんですか?」
返ってきた答えに、私は文字通り飛び上がった。
「何ですかそれ、時給いくらですか!ダメですそれは受けられません」
頑なに拒否する私に、王様の眉間の皺がどんどん深くなっていく。
「それでは、何ならできるんだ」
「私が想像してたのは、使用人です。廊下の掃除をしたりとか、そういう…」
「却下だ」
「なんで!」
不機嫌な王様は、さながら眠りを邪魔された獅子のようだが、対する私も気持ちだけは負けてはいない。
ローテーブルを挟んで無言の火花を散らしていると、部屋にいた宰相が呆れた声をあげた。
「でしたら、マイコ殿には陛下の専属メイドになってもらうというのはどうでしょう」
「それなら…」
「却下だ」
王様を睨む目が、二つ増えた。
「…考えてもみろ、いきなりメイドの仕事などできるはずがない」
「け、研修させてもらえば…」
「時間の無駄だ」
取り付く島もない、とはこういうことを言うのだろうか。
できることなら、町に下りて仕事を探すと啖呵を切って出て行ってやりたいところだけど、現実的ではない。
考えた挙げ句、私は王様に向かって指を一本立ててみせた。
「一週間!一週間やってダメだったら、話し相手になります!」
王様の片眉が上がった。
これは、楽しんでいる時の顔だ。
「わかった。一週間だな」
ニヤリと笑う王様と私の間で、見えない火花が走った気がした。
「ダメですね、皺が寄っています」
「はい…」
大きなベッドを前にメイド長にダメ出しされ、私はうなだれた。
俯けば、支給された黒いメイド服と白いエプロンが目に入った。
覚悟はしていたけれど、やはりメイドの仕事は楽ではない。
政務で忙しい王様自身の世話をする時間はそれほどないけど、王様のための部屋を整えるのが大変なのだ。
一人で寝るならもっと狭くてもいいだろうと思うようなサイズのベッド。
重くて一人では動かすのに苦労する椅子。
汚したらいくら賠償すればいいのだろうと怖くなる絨毯。
体力的にも精神的にもきつくて、五日経った時点で私はへとへとだった。
しかし、やることがあるのはいいことだと思う。
もう家には帰れないことをうじうじ悩む時間さえ作れないから。
「はー、執務室の掃除、終了〜」
執務机の上を磨き終え、私は布巾を片手に大きくのびをした。
点検係のメイド長が、部屋の隅々をチェックする。
ドキドキしながら、何となく下を見た私は、恐ろしい光景に目を剥いた。
何と、高そうな絨毯に小さな黒い染みが二つ、ついていたのだ。
早鐘を打つ心臓を抑えながら、私は考えた。
落ち着け、インク壺を倒すような失敗はしていないし、部屋に入る前に靴の裏は拭いてある。
しかしこれは私のせいではないと思う一方で、メイド長に言い訳して信じてもらえるか、自信はなかった。
私はとっさに、染みの真上に立った。
執務机の傍に佇む私に、メイド長が近づいてくる。
机の上をチェックし、背後のやたらと大きな窓ガラスをチェックし。
「大丈夫そうですね、ここの掃除は合格です」
メイド長の声に、私は心底安堵した。
「陛下はお昼頃一旦こちらに戻られるそうなので、お飲み物を持って行って差し上げるように」
「は、はい」
直立不動状態の私をさして不審がることもなく、メイド長は言付けをして帰って行った。
そのメイド長が、去り際にドアを閉めた時だった。
「わあっ」
急に足下の床が抜けたのかと、そう思った。
でも、違う。これは以前、味わった感覚だ。
そう、こちらの世界に引きずり込まれた時の。
「マイコ!!」
ドアの外から、私を呼ぶ声が聞こえた。
出て行ったばかりのメイド長のではない、低い男性の声。
しかしドアが開く前に、私の視界は真っ暗闇に覆われてしまった。
ドスン!
「痛っ」
お尻に強い衝撃が加わり、私は思わず声をあげた。
ジンジンと痛むお尻をさすりながら辺りを見回すと。
「トイレ?」
そうだ、ここは華苑学園の校舎二階の女子トイレ。
薄汚れた薄緑の床に、一つしかない洋式の個室。
紛う事なき、私が上履きを無くした場所だ。
『昨日のドラマ、やばくなかった?』
『マジやばかった!めっちゃ萌えた!』
「!!」
突然、近くで人の声がして、私は我に返った。
確かに、ここは見覚えのある女子トイレだけど、今は一体いつなんだろう。
そして、気がついた。
私、メイド服のままだー
と、次の瞬間、出入口のドアが開いた。
「ね−、あんな風に私も…」
「……」
「……」
懐かしすぎる制服を着た、見たことのない女子生徒。
この二階は高校二年生の教室しかないはずだから、知らない生徒はいないはずなのに。
「き、きゃーー!」
女子生徒の一人が、恐怖のどん底にいるような叫び声をあげた。
そして、足をもつれさせながら、廊下へと飛び出していく。
「へ、変な人が!女子トイレに!」
変な人、確かにそうかもしれない。
進学校の女子トイレに、メイド服を着た女なんて普通はいない。
「おい!ここに不審者がいるって……さ、佐々木?」
「あ……先生」
入れ替わるように飛び込んできたのは、以前私のクラスの担任だった先生。
先生は私を覚えてくれていたようで、取り押さえることもなく、私を呆然と見ている。
私の方も、何をどう説明したらいいのかわからず、じっと先生を見つめるしかできなかった。
「うーん、ちょっとにわかには信じられないが、なあ…」
数時間後、私は学園の校長室にいた。
少しして落ち着いた先生が両親と警察に連絡を取ってくれて、私は今、校長室のふかふかのソファに、両親に挟まれ、校長先生、担任の先生、そして警察の人に見つめられるかたちで座っている。
私の話を聞いた校長先生は、ちょっと弛み気味の顎をさすりながら首をかしげた。
「何か精神的なショックがあって、脳が混乱しているとかじゃないでしょうか」
担任の先生が気遣わしげな声で言うと、今度は警察の人が口を開いた。
「気になるのはその格好ですね。トイレから誰かに拉致されて、監禁されていた、という線も考えられます」
「あの、娘はいなくなる数ヶ月前から、どうもお小遣いを気にしていたようなんです。お財布を開けてはため息をついていて…」
「なるほど、金銭トラブル、という可能性もあるわけですね。とすると、いじめの線も考えなきゃいけませんね」
当事者は私なのに、私抜きで話が進んでいく。
向こうの世界で心配していた時間の流れは、結論を言えば、向こうでもこちらでも同じだった。
私は高校二年の秋に失踪して、順調に進級していれば今は高校三年の秋だった。
およそ一年の間、向こうの世界にいたことになる。
「あ、あの、私、本当に、事件とか、いじめじゃなくて…」
「ああ、まだ混乱しているんですね。大丈夫ですよ、ゆっくり解決していきましょう」
違うのに。
私の話を信じてもらえればそれで済むのに。
私は安堵から涙をこぼすお母さんとお父さんに連れられて家に戻り、数日間の休養を経て、高校に戻ることになった。
心配してくれていたのは嬉しいけど、私が説明しようとすると、「大丈夫よ真生子、お母さんはわかってるから」「お父さんは真生子の味方だ」の返事ばかり。
私はいつしか、あの独特な発音で呼ばれる自分の名前が恋しくなっていった。
高校生活も、苦しいものだった。
失踪して戻ってきた私は、クラスの中で明らかに浮いていて、以前友達と呼んでいた子も私の机には近寄ってくれない。
そしてどこから情報が漏れたのか、私の失踪の原因にいじめの可能性が浮上しているという噂が広まり、それが一層私を孤立させた。
私は、いじめられたなんて一度も肯定していないのに。
一月も経たないうちに、私の精神はずたぼろになっていた。
家にいても的外れな憐みを押しつけられ、学校にいても疎外される。
こんなことになるなら、戻らなきゃ良かった。
あの人は頑固だけど、別の世界から来た私をそのまま受け入れてくれた。
気がつくと、私は二階の女子トイレの中にいた。
私以外に、入っている生徒はいない。
帰ろう、そう思った。
ここは、私のいる場所じゃない。
用具庫からモップを取り出し、黒い染みを踏みしめる。
もう一度、あの人のいる世界へ。
私は勢いよく、手前のドアに向かってモップを振った。
**********
ドスン!
「痛っ」
どうやら、吸い込まれるのは足からだけど、落ちるのはお尻からと決まっているらしい。
私は今回も、あまり硬さのない地面に着地した。
当然、悲鳴は私のものではない。
「陛…マイコ殿?」
「お、お久しぶりです、宰相さん」
デジャヴのような光景だ。
黒と紺の服を着た宰相に、ドアを守る二人の騎士、そして…
「すいません、戻ってきちゃいました」
至近距離にある、くすんだ青の瞳に暗い金色の髪とまつげ。
ただ違うのは…
「ここにいてもいいですか、おうさ…ぐえっ」
前回は足を掴まれたけど、今回はすごい勢いで抱きつかれた。
息苦しくなって、とっさにプロレスの要領で背中をタップする。
「ちょっ、息が、できませんっ」
「あ、ああ、すまない」
ようやく離してもらえて、王様と正面から向き合った。
「マイコ…」
「やっぱり、元の世界はいづらくて。またここで、働かせてもらえませんか」
すると、王様の口元がニヤリと歪んだ。
「構わないが、メイドは却下だ。一週間保たなかった」
「あ、あれは、不可抗力です!」
「代わりに別の仕事をやるから、それで我慢しろ」
「話し相手は嫌です」
「安心しろ、もっと大変な仕事だ」
「…それなら…」
王様の言う「もっと大変な仕事」の内容を聞かされて卒倒しそうになったのは、翌日のこと。
「お妃様とか無理です嫌です辞退します!」
「諦めろ、逃げ場はない」
意を決して戻ってきたつもりだけど、異世界での私の未来は、予想以上に波瀾万丈になりそうだ。
「あ、ゴムの製造方法、調べてくるの忘れました」
「………かまわん」
読んでいただき、ありがとうございました!