118 月と地 序
◇◆◇
自身に残る最も古い記憶の中には既に、今と変わらぬ自分の姿があった。
半端な印象を与える濁った灰色の髪、光を失った青色の眼。
世界の全てに絶望していた。
そしてそれこそが自身の運命であると、テラリアは信じ切っていた。
魔王ヘリオスの子の中で、本来テラリアは最も才能がない存在であった。
――幼い頃にそう何度も告げられた。記憶にはないけれど、確かなことだという実感はあった。
記憶の中のテラリアは違う。
産まれてからどれ程の月日が経ったのか、彼女はミューテーションスキル:スキル創造を獲得していた。
魔法の仕組みを理解せずとも願うだけで魔法をスキルという枠組みに落とし、発動を可能にするスキル。
――それは正確にはユニークスキルと称するべき力であった。
ミューテーションスキルは二つに分けられる。
一つは他の人物に再現することが不可能な、まさに突然変異で生まれたスキル。
もう一つはあくまで持ち主が世界に一人しか存在しないだけで、工夫次第で再現可能なユニークスキル。
ヘリオスはテラリアの持つスキル創造がユニークスキルであることを知ると、態度を豹変させ自身に協力するように要請した。
魔王が新たな魔法を生み出すうえで、それが再現可能か検証するために使用するだけでも十分な効果が得られると考えたのだ。
テラリアは理解していた。
もし魔王が魔法を極めれば、その後不要になったこの世界、そしてそこに住む人々がどうなるのかを。
だから断った。例え魔王からその身を滅ぼすと脅されようが。
それよりも自分の願い、人々を大切に思う願いを優先した。
その結果としてテラリアは魔王城に捕らわれ、生殺与奪の権利をヘリオスに握られたまま長きにわたる沈黙の時を過ごすことになる。
恐怖も絶望もなかった。
そんな人生を過ごすことが自分の生涯だと疑うことすらなかったから。
「…………ルナ」
自室の寝台に腰掛けながら、テラリアは思い出す。
かつて暗闇の中にあった自分の前に現れた希望を。
命に代えてでも守りたいと思った大切な存在を。
彼女を始めて見た瞬間の光景は、今でもはっきりと脳裏に焼き付いている。
◇◆◇
「……この声は」
テラリアが魔王城の中を歩いていると、幼い子供の声が聞こえた。
察するに、魔王城の中にいるには珍しい年頃だ。
ふと思い出す。確か数年前に、新たに魔王の子が産まれたという話を。
通常ならば、もう少し思慮分別のある年齢に成長するまでは隔離されて育てられるはずなのにと不思議に感じた。
それでもいつものテラリアならそれ以上気に留めず素通りしていただろう。
魔王の子はやがてヘリオスの言いなりになって、人々を苦しめ時には命を奪うことすら躊躇せず目的のために猛進するだろう。
そのような者達と関わり合いになるつもりはなかった。
なのに、気が付くとテラリアは声のした方に歩を進めていた。
そしてその先にある扉を開く。
偶然か、それとも必然だったのか。
そんなことは今になっても分からない。
ただ一つはっきりと分かることは、その選択を後悔することは一生ないということだけだ。
「……誰もいない?」
一瞬、部屋の中には誰もいないように思えた。
いや違う。部屋の片隅には子供用の寝台があり、そこに後ろ姿で座る幼い少女の姿があった。
少女は扉の開いた音に反応したのか、ゆっくりと体ごと振り向く。
瞬間、世界に色が付く。
闇夜の中、光り輝く月のように美しい白銀の髪。
艶と張りのある滑らかさをもつ白色の肌。
心まで見透かされてしまいそうな、純粋な青の瞳。
――ああ、きっと自分は、この少女に出会うために産まれてきたのだ。
「……だれ?」
少女は不思議そうに首を傾げる。
テラリアは直感的に理解していた。
この少女は他の魔王の子とは違う、優しき心を持った存在であると。
そして魔王の子であるがゆえに、その先に待ち受けるであろう苦難さえも。
そんな未来を想像してしまえばもう、衝動を抑えることができなかった。
テラリアはその少女の幼い体を、壊れてしまわないように優しく抱きしめる。
「ふえっ?」
少女は何が起きているのか分からないのか、素っ頓狂な声を零していた。
それさえも愛おしい。
そう言えば、まだ彼女の問いに答えていないことに気が付いた。
「私はテラリア。貴女の姉です」
他の魔王の子と家族であるなど認めたくもなかったのに。
この少女とだけはそんな関係でありたいと願った。
「おねえ、ちゃん……?」
「ええ、そうですよ」
少女の両肩に手を置いたまま、ゆっくり体を離す。
まだ状況を正しく呑み込めてはいないような少女に向けて、テラリアからも問いかける。
「貴女の名前も、聞かせていただけませんか?」
「わたしの、なまえ……? なまえって、なに?」
「えっ……な、名前というのは個人を識別するために必要な――と、今欲しい答えはこれではありませんね。皆があなたのことを何て呼ぶのかを聞かせていただきたいのです」
「……わかんない」
「――まさか」
最悪の事態が脳裏に思い浮かぶ。
テラリアはスキル創造によって生み出した鑑定のスキルを少女に使用する。
そこには衝撃の結果が待っていた。
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7歳 女 レベル:5
職業:白神子
攻撃:15
防御:20
敏捷:15
魔力:60
魔攻:40
魔防:30
スキル:治癒魔法Lv1・召喚魔法Lv1・神聖魔法Lv1・隠蔽Lv1
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名がない。
この少女には未だ名が与えられていない。
なぜ、どうして。
その理由は鑑定の結果から想定できた。
神聖魔法。それは魔を滅ぼす聖なる力。
加えて、少女はその力を象徴するような白銀の髪を持っている。
魔族からしたら縁起の悪い存在。
きっと、ただそれだけで、本当にそれだけの理由でこの少女は粗末に扱われているのだ。
こうして無事に生きているだけでも、最低限の施しはされているのだろう。
けれどいつまでそれが続くか分からない。いつ彼女が切り捨てられたとしてもおかしくない。
嫌だ。それだけは絶対に。
繋がりが欲しかった。
他のどんなものにも切り裂けないような繋がりが。
少女の白銀の髪を優しくすくようにして頭を撫でながら、テラリアは少女に微笑みかける。
きっと自分はいつまでも地に捕らわれたまま、空に羽ばたくことなどできない存在だ。
けれどこの少女は違う。闇の中で輝く月のように、絶望の中にいる誰かを明るく照らすことのできる存在になるだろう。
そうなって欲しいと。そんな自身の願望も込めて、テラリアは告げる
「それでは、私が貴女に名を授けます。ルナリア。それが貴女の名前です」
「るな、り……?」
「発音が難しいですか? なら、こうしましょう。呼ぶときはルナです」
「るな……? ルナ……ルナ!」
えへへぇと、嬉しそうに笑いながら少女――ルナリアは自分に与えられた名前を何度も口にする。
その姿を見てテラリアは心に誓う。この少女だけは何に変えても自分が守ってみせると。
空室かと疑ってしまうような物寂しい部屋。
その片隅で、テラリアとルナリアは出会った。
これが、二人の出会いの物語の全て。
そして――別れの物語の始まりでもあった。
『119 月と地 中』は6月26日(水)
『120 月と地 終』は6月29日(土)に更新します。




