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「多賀城さん、お砂糖とミルクは?」
「お願いします。私、苦いのダメなんです」
戦闘の巻き添えでボロボロに壊れたキッチンで皆にコーヒーを淹れてくれているエマの後ろ姿を眺めながら、夏彦は直子の言った特高からの『お願い』について考えていた。直子が部屋を去ってすでに三十分ほど経っている。
特高の思惑……自分達の目的……そのために冒せるリスクの限度。
そして、最大の敵。
(――誉さやか)
夏彦が、直子からもらった彼女の名刺を手で弄びつつ、なおもしつこく考えていると目の前のテーブルにマグカップがことりと置かれた。
マグカップを持つ手を辿って顔を上げるとエマが仄かな微笑を浮かべて夏彦を見つめていた。
「あんまり考え過ぎると、返ってこんがらがってしまうわ。一端、休憩しましょ」
「……そうだな」
夏彦は、名刺をテーブルの上に置くとエマ特製のミルクコーヒーに口を付けた。
砂糖とミルクの量が絶妙なエマの淹れてくれるミルクコーヒー。見れば、夏音、ほのか、そしてアレクセイも同じ物を飲んでおり、エマ自身も今日は珍しくミルクコーヒーを飲んでいた。
「名刺、置いて行ったのね。本田さん」
「ああ。これも誠意と言えば誠意かな」
テーブルの上に置かれた名刺には、直子の名前、肩書き、そして連絡先の量子メールアドレスが記載されおり、隅の方に丸っこいかわいらしい字で「よろしくね」と書いてある。
と、その時夏彦の向いで同じようにコーヒーをすすりつつ、名刺を覘き込んでいた夏音が、遠慮がちに声を上げた。
「ねえ、夏彦くん。紙の名刺を置いて行くと、誠意を見せた事になるってどういう意味なの? 前々から学校とかでも聞いた事はあるんだけど、夏音さ――じゃなくって、私、ちょっとピンと来なくて……」
「ああ、それは、たぶん軍隊で兵士が書かされる『遺書』とかと意味合いは同じだろうな」
「遺書?」
「多賀城も書かされただろう? 現役の時に」
「はにゅん??」
「ははは。日頃意識するものじゃねぇから、分かりづれぇやな。まあ、簡単に言うとこう言う事さね。例えば、お手紙を人に送ろうってぇ考えた時にお嬢さん方は、何を使うぇ?」
「はにゅん……。量子メール……ですかね?」「ですね」
「だろう。でも、紙ってぇのは、メールと違ってその人がペンとか使って自分で直に書かにゃならねぇだろう。つまり、紙は、その人の手が直に触れる物って事なのさね。だから、国防軍とか国家警察軍では、当人が直に触れ、その意思を綴った紙である『遺書』をその人の『遺品』として扱う、って事になっているのさ。名刺もこれと同じことさね。手で触れられる物を直に渡し合う方が、気持ちが籠っているだろうよ、って寸法さ」
「特に名刺は、携帯端末を持てれば、ロックを掛けて無い限り、自動的に交換されるからな。こうやって改めて、紙で渡すって言う事は、『私は、あなたとの関係を重視しています』っていう意思表示になるんだよ。特に――」
と、夏彦は、例の直子が名刺の隅に書いた丸っこい文字のメッセージを指差した。
「こう言う風に、メッセージを手書きで一言でも書いておくと、その意味合いは、より深い物として捉えられるんだ。改めて考えてみると結構おもしろいな」
「そうね。それにしても――」
とエマがくすくすと笑った。
「かわいらしい字よね。夏音ちゃんの書く字もかわいいけど――」
「あの……」
とエマの言葉を遮って遠慮がちに声を上げたほのかを皆が見つめた。
ほのかは、そんな皆の顔を順に見て真っ赤になって一端俯いたが、すぐに大きく息を吸い込んで宣言するように言った。
「お話の途中にすいません――あの、その……みなさんそれぞれの呼び方決めませんか?」




