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夏彦は、ゆっくりと瞼を開いた。
目の前には夏彦を覘き込む青い瞳。
頭の中で情報が徐々に整理されて行く。
夏彦は、エマに支えられながらゆっくりと体を起こした。
夏彦の横たわっていた玄関へと続く短い廊下は、頭上の有機EL灯が割れ、壁紙も所々破れてひどい有様だ。この様子では、ダイニングやリビングもどうなっていることやら。
「すまない……。大丈夫か、エマ?」
「ええ。なんとか」
夏彦は、全身を確認しつつ、そっと立ち上がる。節々が軋むのは、戦闘後毎度の事だが、体の所々が痛むのは、最後に突き飛ばされたからに違いない。
あの野郎……。
「みんなは?」
「取り敢えず全員無事よ。夏音ちゃんが、まだ、気を失ってるみたいだけど」
しゃがんでいたエマをその両手を握ってそっと立たせてやると、夏彦はダイニングの冷蔵庫へ向い、中から高濃度ブドウ糖溶液のラミネートチューブを四本取り出した。
そして、
「多賀城――」
ダイニングの隅で、その腕に抱いたブンタの頭を撫でていたほのかに一本渡してやり、次に
「助太刀してもらって感謝する。何度もすまない」
と同じくダイニングで胡坐をかいてぼんやりしていたアレクセイにもゆるく放って渡してやった。
高濃度ブドウ糖溶液は、最近でこそスーパーでも大袋で割と安価で売っているが、中央軍事学院では、それ以前から教室の隅や校舎の入り口等に置かれた冷蔵庫に大量に常備されていて生徒は好きなだけ持って行っていい事になっている。
夏彦も、折々自宅に持ち帰っているので、篠塚家の冷蔵庫には常に何本かその国防色のチューブが入っているのだ。
ほのかとアレクセイは、チューブのフタを噛みちぎるのももどかしく、チューブの中身を夢中で飲み出した。
戦術生体兵器は、その能力を使用しなくても常人より脳の活動が活発になる傾向があり、戦闘下などではその影響はより顕著となる。
特に、先の戦闘で食らった対戦術生体兵器用集束音響手榴弾は、その光と音で戦術生体兵器の神経と脳に極度の疲労感や緊張感を伴うダメージを与えるため、夏彦以外の三人の状態も実際には、見た目以上にひどい筈だ。現に夏彦自身も全身を覆う疲労感が尋常ではなく、もし、さっきエマが起こしてくれなければ、まだ気絶したままだったに違いない。
夏彦は、チューブのフタをちぎって開けると、足下の覚束ないらしい夏音に肩を貸しつつよたよたとダイニングに入って来たエマの口にくわえさせてやった。
「夏音は、俺が寝かすからエマも休んでてくれ」
「夏……彦くん……」
「大丈夫だ。もう、敵はいない」
夏彦は、夏音をそっと抱き止めると、お姫様抱っこでリビングを横切り隣の六畳間へと運びこむ。
そして部屋の隅に置いてある二段ベットの下の段、彼女の寝床へと寝かしつけた。
「さくらちゃんは……」
「今は、気にするな。取り敢えず体を休めたほうがいい」
「夏彦くん……」
「うん?」
「チューして……」
「…………」
「チュー……」
夏彦は、ふっ、と小さく息を吐くと、目をつぶって「ん……」と口を突き出す夏音の頭をくしゃくしゃと撫でてやった。
「おやすみ、夏音」
「もう……いけず……」
そう言って、タオルケットを口の上まで被っていじける夏音の頭をもう一度撫でてやってから夏彦は、ダイニングへと戻る。
辛うじて破壊を免れたテーブルの上に置いておいた高濃度ブドウ糖溶液のパッケージを手に取ると、口でフタを噛みちぎり、よく冷えた中身を飲み下す。とろりとした青リンゴ風味のそれが、声を上げたくなるほど美味かった。
だが――
(これを美味いと感じる時は、大抵……)
「あなたも大分参っているようね、夏彦」
「そうだな……」
エマの言葉にため息交じりの返事を返して、夏彦はダイニングの床に座った。ほのかとアレクセイも同じようにしてダイニングに思い思いの姿勢で座り込みぼんやりとあらぬ方向を見つめている。
高濃度ブドウ糖溶液のチューブの中身を飲みつつ、「で、どうするの?」と上目遣いに夏彦を見つめるエマに、彼はそっと肩を竦めてみせる。分からないと言うよりは、考える気力が今は湧いてこないと言った方が正確だ。
そんな夏彦の反応に対して、エマはしばらく考え込むようにして高濃度ブドウ糖溶液を飲んでいたが、やがて彼に向ってきゅっと片方の目をつぶってみせると、飲み終わった空のパッケージをゴミ箱 (ボコボコに凹んでしまいそれ自体がゴミのようだが)に放り込んだ。
そして、目の前の三人の顔を順に眺めてからきっぱりと言った。
「まずは、食事にしましょう。話は、それからよ」




