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夏彦は、深いため息を吐いた。
何度も思い出しては、その度に、胸が締め付けられそうになる。
ここしばらくは、忘れていた。
否、忘れようとしていたのだが。
「夏彦……」
「ああ、大丈夫だ。ごめん」
気が付くとエマが、夏彦の手を握ってくれていた。足元の二人のマグカップから仄かに漂うコーヒーの匂いが夏彦の鼻孔をくすぐった。
夏彦は、ゆっくりと息を吐き、もう大丈夫だ、とエマの瞳を見つめながら言った。
エマは、幾分サイズが小さいパジャマの袖で目尻を拭いつつ、うん、と小さく頷く。
そして、呟くように言った。
「これから、どうすればいいと思う?」
「どうするか――か……。因みにエマは、どうしたい? いや、質問に質問で返すのは、卑怯かもしれないけど、エマの気持ちをまず知りたかったんだ――」
そこで一端言葉を切ると、夏彦は次の言葉を探すかのように開け放たれた窓から朝焼けに照らされる化学汚染地帯へと再び視線を向けた。
相変わらず何も無い。
だが、緩衝地帯にただ一本だけ生えた木が朝もやの中で静かに風に凪いでいるのが見えた。
夏彦は、しばしその風景を見つめてから、エマに向き直った。
「『さくら』の事を後悔しているのは、俺も一緒だ。一緒にいる間も、命令とは言え、ひどい仕打ちをしていたし、最後は見捨てるような形で別れてしまった。
そこに起きたのが今回の件だ。
『さくら』とパシフィック・サーバントとの関係は、正直よく分からない。
だが、あんな護送車列を組んで移送していたのを見ると、あまりいい物とも思えない。
そもそも、『さくら』の存在は現在の日本にとってあまりにリスキーだ。
もし、その存在が公になればクアラルンプール条約に違反したと言う事で間違いなく外交問題になる。
もちろん、その時は、『さくら』もタダじゃ済まない筈だ。能力解体手術が行われて――」
――『さくら』は、確実に命を落とす事になるだろう。
「…………」
夏彦は、エマの青い瞳を見つめて小さく頷いた。
この先どうするのであれ、今の『さくら』には助けが必要だ。
(――園田大尉が俺やエマの命を守ってくれたように)
「俺は……今度こそ本当に『さくら』を助けたい、守り抜きたい。大尉が俺達にしてくれた事を今度は、俺達が『さくら』にしてやりたい。――大尉の想いを俺は継ぎたい」
「夏彦……」
エマの両の瞳が潤んだような光を帯びて夏彦を見つめていた。
他の人には伝わりづらい事でも、エマになら、夏音になら必ず伝わる。
必ず理解してくれる。
夏彦はそう信じている。
そして、いま確実に夏彦の気持ちは、エマに伝わっていた。
エマは、飛び付くようにして夏彦にぎゅっと抱き付いた。
夏彦もそっとエマの背中に手を回し、彼女をその腕の中に抱いた。
「私も同じ気持ちよ、夏彦」
「じゃあ、どうしたいかは決まりだな」
「ええ。だから――」
エマは、夏彦の胸の中でクスリと笑いながら付け加えた。
「そのためには、どうするか? が問題ね」
「そうだな……」
夏彦は、抱き締めたエマの肩を撫でつつ、まだ軍に残っている戦友や、退役した戦友、知人はては、過去から現在に到るまでの中央軍事学院やパシフィック・サーバントの教官、上官、同僚、同級生の顔を思い浮かべる。
(イマイチ、この手の事には頼りになりそうもないな……)
ため息交じりにそんな事を考えていると、ふと、襖の向こう側の人の気配に気が付いた。




