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だが――
彼女と櫻子に向かって向き直り、海軍卿はゆっくりと椅子から腰を上げた。
そして、
「今回の件で君たち二人に多大な迷惑をかけた事を、海軍を代表してお詫びしたい。誉さやかさん、藤村櫻子さん、本当に申し訳なかった」
そう言って白髪交じりの短く刈られた頭を深く下げたのだった。
突然の展開にさやかと櫻子は、思わず面食らってしまった。
戦後日本における『神』のような存在であるその人は、何を言うのかと思えば開口一番頭を下げてしまったのだ。
それに――
「閣下は――」
と、やっと頭を上げた漆原海軍卿へ向けてさやかは恐る恐る口を開いた。
何かね? と気さくに微笑んだ海軍卿に幾分安堵しつつさやかは、胸に浮かんだ疑問を尋ねた。
「『さくら』の本名を――」
ご存じだったのですか? と。
と言うのも、目の前の漆原が陸軍や国家警察軍の人間なら分からない事はない。なぜなら、日本で戦略生体兵器を運用していたのは、この二つの組織のみだったからだ。
だが、漆原の属する海軍は、戦略生体兵器を運用はおろか保有していたことすらない。
日本海軍は、伝統的に戦術生体兵器を陸戦隊と一部の艦船にのみ限定して使用して来た関係上、その発展形である戦略生体兵器にも縁が薄く、現に、戦前の一時期海軍でも戦略生体兵器を保有しようという意見が一部から上がったにもかかわらず、当時の首脳陣が『不必要』とバッサリ切り捨てたという過去がある。
そんな日本海軍の代表者である漆原海軍卿が戦略生体兵器『さくら』に兵器として執着するだけでなく、その本名まで知っているという事実にさやかは、素朴な興味を覚えたのだ。
すると、
「なるほど……」
と、漆原海軍卿は頷いた。
さやかの言葉の含む所に当事者である漆原は、さやか以上に思う所があったのだろう。
それまで立ったままだったさやかと櫻子に目の前の椅子を進めつつ、自身も背後の椅子に腰を下ろしてにっこりと微笑んだ。
「これまでの海軍の歩みを考えると確かに、戦略生体兵器にここまで海軍が入れ揚げたのは異常だったかもしれないね。そう捉えるのが普通だろう。しかし――」
あくまで――、と漆原は、宙を見据えて目を細めつつ強調した。
「私の代からなんだよ。海軍が戦略生体兵器に執着し出したのは。事の始まりは、大阪攻防戦にまでさかのぼる――と、大阪攻防戦の話をしてもお嬢さん方大丈夫かね?」
「あ――」
「はい。大丈夫です」
逡巡したさやかに対して、櫻子ははっきりと『大丈夫』と言い切った。
強い光を宿した漆黒の瞳を輝かせて、櫻子は目の前の漆原海軍卿へ話の続きを促すかのように強く頷いて見せた。
海軍卿は、二人の顔をしばし見つめてから、ふっ、と小さなため息を吐いて微笑んだ。
「――ふむ。藤村さんの事も当然心配していたが……でも、私はそれ以上に誉さん、あなたの事を心配していたのだよ」
「私……?」
あっ! とさやかと櫻子は同時に声を上げた。
櫻子の脳裏にもさやかと共通の人物の顔が思い浮かんだに違いない。
(海軍卿は、お姉ちゃんの事……)
「今でも、時折思い出すよ。彼女の事を」
――園田あかり陸軍大尉。
「君は、彼女の妹だそうだね」




