大量殺人犯、猪池龍 前編
愛知県の某市。郊外の廃工場。
経営者一家の夜逃げにより放逐され、荒れ果てた、自動車の部品製造工場だった建物。
長い間人の手が一切入っていないこの建物は、床も机も、部品製造のための機械さえ例外ではなく埃を被っている。
割れた窓硝子や穴の開いた天井から差し込む月光。月光を埃の下から鈍く反射する多くの器具。埃が充満し湿った空気。
月の光以外の明かりは存在せず、全体的に暗くおどろおどろしい雰囲気が満ちている。
ホラー映画の舞台になりそうな、殺人鬼の一人や二人潜んでいてもおかしくない、危険な雰囲気が漂う建物。
そんな廃工場の一室、かつては器具庫だった部屋に、見目麗しい容姿をした少女が眠っていた。
少女は、赤黒い色の制服に身を包み、場違いに綺麗な白いベッドに横たわって胸の上で手を組み、昏々と眠っている。
少女の名は猪池龍。16歳の現役女子高生にして、現在世間を騒がせている大量殺人犯本人だ。
「んんっ、よく寝たぁ~……」
ピピピピピピピピピピピ。と、少女の起床に一歩遅れ、慌てて鳴り出すアラーム。
強い光を発して点滅するスマートフォンの画面には「05:00」と表示されていた。
ふぁああ。と、大きな欠伸をして龍は勢いよくベッドから飛び降りる。
着地と同時に地面に積もっていた埃が勢いよく舞い上がる。
太陽光を反射してキラキラと光る埃の中。殺人鬼は自身の制服と同じ真紅色に染まった愛用の鋏を太ももホルスターに収納して、
「よし。今日も一日、元気に行こう!」
普通の高校に通う、ごく普通の女子生徒のように。ただただ無邪気な笑顔で、そう言った。
*
「――今日の午後1時38分。行方不明だった愛知県知立市在住の高校2年生の女生徒、本郷呉羽さんが、遺体で発見されました」
私立南陽学院に通う高校3年生の女子生徒、青山愛美の耳に入ってきたのは、そんな物騒なニュースだった。
「これまでの被害者同様、遺体には多量の切り傷があることから、ここ最近世間を騒がせている大量殺人犯、通称”現代の切り裂きジャック”による犯行とされ、警察による詳しい調査が進められています」
大量殺人犯。通称”現代の切り裂きジャック”。
半年前に突如現れ、中部地方に通う女子高生――いずれも皆美人――を狙って殺人を繰り返している殺人鬼だ。
警察が死に物狂いで捜査しているらしいが、これといった手掛かりを掴む事が出来ず、捜査は難航しているらしい。
愛美の通う学校、南陽学院のある場所も知立市のため、半年前から部活は中止され、下校時間がかなり早くなっている。
――といっても、私は帰宅部だから特に影響はないけどね。
同級生で陸上部に所属している少女にそう言った時には、かなり反感を買い、ウザったい絡まれ方をしたものだ。
あの時の美里のウザさと言ったら……。
そんな過去の思い出をふと思い出して、チクリ。と胸が痛んだ。
女子陸上部のエースだった少女。倉内美里は、2ヶ月前に亡くなった。
美里は下校途中に襲われ、翌朝の早朝に彼女の家から5分程度の距離にある公園で発見されたらしい。
第一発見者はホームレスの男性だったらしいが、大の大人が思わず吐いてしまう程、美里の遺体は見るも無残な状態だったという。
*
美里の葬式は、遺体発見の三日後に執り行われた。
かなり大きい葬式場のホールには、喪服に身を包んだ美里の両親や警察関係者、報道系の人達など、多くの人が駆けつけていた。
葬儀が始まるまでの時間、愛美は教師や同級生、陸上部の先輩など、多くの人に慰められた。
大丈夫?から始まり、元気出して。で終わる、定型文のような慰め文句。
たまに本気で心配して慰めてくれている人もいたような気はするが、誰だとしても関係ない。どんな事を言われたとしても意味はない。どうでもよかった。どうにでもなれ、と思った。
葬儀が始まり、袈裟に身を包んだ坊主が念仏を唱え始める。
ホールに響く坊主の良く通る声。後方の席で、誰かがすすり泣く音が聞こえた。
愛美の眼からは涙なんて、流れる気配が微塵もなかった。
念仏が響いている間、愛美の脳裏には美里との思い出が、まるで弾ける寸前の泡のように浮かんでは消えを繰り返した。
美里とはもう二度と送ることができない日常生活。どうでもいい話だと思っていたことも、今ではかけがえのないもののように思える。
……今さらそう思えたって、もうすべて取り返しのつかない過去の出来事。後の祭りだった。
焼香が始まった。愛美は自分の前に焼香をした担任の教師の所作を猿真似して、無事何事もなく終える。
香が焼ける独特の臭いが立ち込め、愛美は思わず顔を顰めた。
思えば、葬式というものに参加するのは初めてだった。
だから、だろうか。友達の死というものに、上手く向き合うことができない。現実感がなかった。
大勢の人たちが焼香を終える。会場に設置された時計は、葬儀開始からかなり時間がたった事を教えてくれた。
念仏が終わり、焼香も終わった。残るは、……美里との対面だけだった。
愛美は、覚悟していた。
事前に遺体の状態の酷さを、第一発見者のホームレスから聞いていたからだ。
全身に無数の切り傷。発見された時に美里が身に着けていたのは下着だけだったというホームレスの証言から、犯人は相当変態的な人間なのだろう。
だから、美里と。美里の遺体と対面した時は、心底意外だった。
意外、という気持ちと同時に、なんとなく犯人の”こだわり”のようなものを感じた。
顔には一切傷がなかったからだ。
ホームレスが言っていた無数の切り傷は、市に装束で綺麗に隠されているのだろう。
逝ってしまった時の苦しみが一切想像できない、穏やかな死に顔だった。
苦しみに歪んだ壮絶な表情で死んだ美里の顔を想像していただけに、穏やかな顔で死んでいる事が、不謹慎ではあるだろうが、とても安心した。
美里との対面を終えて、出棺。
霊柩車を見送り、少しの間葬式場のロビーで立ったまま呆ける。
すると、複数人で美里の名を呼び号泣する同級生が見えた。
彼ら彼女らは、一体誰の為に泣いているのだろうか?美里のため。それとも、自分のためだろうか。
同級生に見つかり、また声を掛けられても面倒だ。それに、なんとなく独りになりたい気分だった。
足早に葬式場を後にした。
葬式場を出て数分。急に雨が降り出した。
当然、傘なんて用意していない。引き返すのも躊躇われたから、雨に濡れながら家まで歩いて帰った。
雨は冷たい筈なのに、水は熱なんて持っていない筈なのに。
何故か頬を伝う雨水が、熱を持ち、やけに熱かった。
……それを涙だと気付いたのは、家に帰り、鏡を覗いた時だった。
私は、誰の為に泣いているのだろうか?