夢を食う烏〜第四章〜
また朝がきて、いつもと変わらぬ今日を始めようと思う。
私はさなえによく似た人間様を知っている。似ているのは、さなえのような艶やかしい色を帯びた人間様、というところである。
彼女は行きたくもない大学に無理矢理入学させられたようだ。その大学は秀才達が集まる訳でもなく、美男美女の集まりでもなく、お金持ちの集まりでもない。ただ単に就職までの猶予が欲しい若者と、フリーターになるのを避けるため、とりあえず入学した若者の集まりである。
どの道に進もうが、どの場所を選ぼうが自由でなければならない。その自由というものは、鳥かごの中にあるべきではないし、はたまた自由を求めて都会へ旅立つべきでもない。ここはゴミ溜めなのだから。
そんな私の羽ばたきを無視するかのように、千代という女は流されるままこの都会へ迷い込んでしまった。ようこそ、出口の見えない蜃気楼へ。
千代の新居は、大学から電車で三駅という理由だけで決められてしまった木造二階建てのアパートだ。
何人もの孤独と涙を飲み込んで途方にくれていた、もうかれこれ四十年以上この場所に身を置き、雨にうたれ風に押され、太陽に焼かれている外観は、人々の生活臭と垢をスポンジの様に飲み込んで変色してしまった。
長方形の部屋と一人が立つのにやっとのキッチン。バストイレは一緒になっており、実家のように湯船で足は伸ばせない。まるで何かを収めるための段ボールのようだ。いや、きっとただの箱なのだ。黙っていても声がする。怒りを帯びた足音が聞こえる。壁から人の顔の形をしたかたまりがぬっと出てきそうな気配もする。
居心地の悪い新しい部屋に、これから少しずつ物が増えたり友達が遊びにきたりするような想像がまるで出来ない。このままずっと空洞であり続けるのだろう、千代の心と何ら変わりのない空洞。似合いの空洞。そしてギターを手に、上からも横からも苦情の嵐が千代を襲うのだ。おおいにやってしまえ。静寂に安らぎを求め、リズムに乗れない人間様などくたばってしまうが良い。
散乱した荷物はこれでもかと千代を睨んだ。自由にしてくれと叫んでいる気がする。私は、食器が割れる音や壁に何かがぶつかる音を立て続けに聞いた。物が宙を飛び、窓からラジカセが投げ捨てられる。
千代の泣き叫ぶ声と、どこからか寄ってくるたちの悪い誘いが今にも私と千代を粉々に砕き灰のように風に舞うのではないか、私は千代の怒りとも悲しみともとれる両方の感情を一気に押さえ込んだ。黒い羽で鎮魂の意味を込め、千代だけに正気を取り戻すよう促した。
産まなければよかった、と言われ続け棄てられたも同然の千代は、作られた自由の海に裸で放り出されただけだった。産んでくれと頼んだ覚えはないが、千代が産まれた事であの家族は崩壊したのだ。
そう、家族が出来なければ、崩壊もしなかった。
千代はそんな事をぐるぐると考えている。私には人間様の条件付きの愛情が理解出来ないが、千代はその条件を飲み込んでは吐き出し、飲み込んでは吐き出す事を繰り返しているうちに、条件がなければ生きる事が難しい人間になってしまったようだ。
我々の世界では、一人前に育て上げる事以外何も求めてはいない。育て上げる事だけに愛情と言う名の力を注ぎ、私の老後の世話など見て欲しいとは思わない。
だが人間様には、育て上げる事によって沢山の利潤が絡んでくる。解ける事のない蔦のように、どこまでも追求しそして死ぬまで抜け出せないのだ。血液と言う名の蔦は、目に見えないからこそ千代を苦しめ、そして病める種を植え付けたのだ。
私は千代のあとを追い大通りに出ると、ひっきりなしに通る車が吐き出すガス臭にめまいを覚える。そこを自由気ままに飛び交う真っ黒な我々カラスたちは、千代を歓迎している。
そこら中に設置されたゴミ捨て場には、決まってむき出しにされたゴミたちが棄てられていた。何故棄てられたのかという理由も分からないまま、己の存在を主張している。それもそのはず、ゴミはゴミだと判断されたときからゴミになるのだ。主がゴミだと思う限り、彼らは主にとってのゴミなのだ。
例え壊れてしまった物でも、主にとって思い出の品であったり愛着のわく物である限り、それはゴミだとみなされないのだ。他人がゴミだと主張しようが、その山に埋もれて生活していようが、主にとっては宝に近い存在の大切な物なのである。そう、ゴミに主張する権利は初めからないのだ。
半透明のビニイルの中には、燃えるゴミと燃えないゴミ、瓶、缶、針金が分け隔てなく収まっている。そしてそれらの判別されなかった出来損ないは、ゴミ回収業者の手によりシールを貼られる運命にある。その出来損ないシールを貼られたものは、回収されることもなくその場に置き去りにされ、乞食に拾われるまで孤独に耐えなければならない。
歩道の植え込みに申し訳なさそうに生えている、命を輝かせた雑草が気持ちよさそうに陽の光を浴びている。側には立派な木々が生い茂り、太陽の光もその生命力に答える様に心地よく降り注ぐ。
そこへ、排気ガスによく似た腐敗臭をまき散らす人間様が、陽の当たらない部屋から出てくる。急に視界に光が差し、人間様は迷惑そうに光の先を睨んでいる。
私は陽の光を拒んだ人間様を初めてこの目で見る事が出来た。
何故だか、じめじめとした暗闇を好み、私の下へと隠れようとする。そして汚染された水を飲み腹を膨らませ、同じ事を何度も何度もつぶやいているのだ。
人間様は昨晩の酒を身体に残し、まだ使えそうな布団を裸のまま植え込みに投げ捨て、用が済むと陽の当たらない部屋にそそくさと戻ってゆく。
色褪せた花柄の布団は、花を咲かせられない雑草の上にずしりとのしかかり、雑草の芽は擦り切れてしまう。
ゴミと見なされた布団は、まだ使える事を主張するようにその場に横たわっている。かつて私をこのように投げ捨てた輩がいただろうか。そう言わんばかりに花柄の布団は事実を飲み込めないでいる。だが、何年かぶりに浴びた陽の光に心を解きほぐし、もうあの臭い人間様の下敷きになる事もないのだと思うと、ゴミでも良いのかも知れないと、私にそう言うのだ。
私は千代と一緒になり、遠くから地を這うように歩いてくる人間様を観察している。
何年もの間、ふかふかな布団や温かな心や温もり安らぎ安心感至極感幸福感・・・そういった包み込むような優しさに飢えていた我々とそっくりなあの人間様が、白いビニイルの次に目をつけたのはこの花柄の布団であった。
思いっきり抱きしめた花柄の布団からは、蓄積された煙草の臭いと醤油の腐ったような臭いと精液の乾いた臭いが乞食の脳に黴を生やした。だが、この臭いは俺の臭いとそう変わりないと諦めた乞食は、その布団を抱いて消えた。
一度ゴミとみなされた布団は新しい主によって、諦めと嫌悪感に包まれる羽目になってしまった。折角浴びた陽の光を背中にして、自分にとって大敵の、水や泥にまみれる生活を強いられるのだ。それならば潔くゴミとして処分されてしまった方が良かったと、大して変わらない昔を思い出し少しだけ泣いていた。
道端にゴミを投げ捨てる人間を初めて見た千代は絶句していた。どうしてこの場所にゴミを捨てられるのかが分からなかった。あの人にとってこの場所は、この道沿いは、家と何ら変わりのない場所なのだろうか。
車のスピードに負けた私は、心中穏やかになれない千代の前でいくつかの踊りをみせた。車がつくり出す風にのって、千代の視線がこの地上ではなく私に注がれるように、少しでも気を紛らわせてあげたいと、さなえのいる場所まで私は踊り続けた。
木々に包まれた、緑の懐かしい匂いがする。この古い建物は、誰かの主張を鼻で笑うような卑劣な場所ではない事は確かだ。そして儚くも美しい思い出に縋るような場所でもない。
けれど周囲の現代風な建物は、古い建物を取り囲む様に好き好んで寄り添っている様に感じた。田舎の空気の流れとはまるで違うこの場所に少し息苦しさを感じ、人と人との距離が上手くとれない人々や、周囲を一つの集団として認識するような人々や、私が誰よりも優れていると思っている人達がひしめき合い、理解するフリをしながら諦めている。私は千代の上をぐるぐると廻りながら、古い建物に入る千代を見送った。
扉を開けるとカランと音がして、コーヒー豆のいい香りと純粋無垢な花のような香りが漂う。カウンターに立っているのは三十代半ばくらいの日本人形のような美人、さなえだ。相変わらず目は切れ長で美しい黒髪を靡かせ、背は高くすらっとしている。
千代はカウンターの隅に先客を見つけ、その隣に座る事にした。黄緑色をした大きめの縫いぐるみは、千代を歓迎しているのかしていないのか分からない奇妙さを漂わせている。口を大きく開け、右目に眼帯をしている。ピクリともせずニコリともしないが、それはいつもの事だ。縫いぐるみは動く事を禁じられている。だがそのかわりに、人間様や我々、そして地球と宇宙全体の動きを機敏に感じ取っているし、泣いたり笑ったりもする。
左横に感じるカエルの視線が千代を突き刺さしている。こいつの隣に座った人間様は皆、可愛いカワイイと言って頭を撫でてくれたのに、お前は私に一言もないのか、と言っているような目つきである。
さなえはいつものようにカップを戸棚から取り出しコーヒーを煎れ始めている。
私は窓越しに二人とカエルのやりとりをじっと見つめている。駆け引きや意地の張り合いなどとは無縁な、一つの花束の様な二人と一匹。私はその美しさに感動している。美しい人間様には滅多にお目にかかれなくなった今、彼女たちのような屈託の無い笑顔と産まれたばかりのような肌、髪、化学物質の蓄積されていない肉体。
そして音楽。
さなえは昔から動物たちを慰めるのにうたを歌っていた。今でもそれは変わらない。彼女は音楽の重要性を身に沁みて実感している。歌はあらゆるものの仲裁の役割を果たすのだ。そしてあらゆるものの架け橋にもなりうる。
千代にとっても音楽は切っても切り離せない存在である。私は今まで寝言を聴いていただけなのかも知れない、とまで言わせた音楽とはどんなものなのだろうか。それほどまでの衝撃と興奮を私も味わう事が出来たなら・・・。
どんな音楽も言葉にならないから音楽なのだ。そして、音楽が言葉に変換されることはまずないだろう。それはクロージングタイムに歌詞がなかったからとか、さなえが田舎から出てきた千代にほんの少しの笑みをみせたからとか、隣で口を開けているカエルが千代を哀れみの片目で見ていたからとか、そんな事ではない。顔も名前も知らなかった、外国のおじさんが奏でる自由で豊かなメロディが、遠く離れた小娘の小さく広い心に染み付いたから。そんな千代のなにものにも依存はしないが決して孤独ではない心が、一つの温かな場所に溶け込んだのだ。
千代の不安定な心は次第に解されてゆき、あれほど乱れていた呼吸の落ち着きを感じていた。一安心した私は、千代に少しばかりの糖分を窓から投げた。
私はとても嬉しかった。美しい者同士は結ばれる運命にあるのだと改めて感じたし、二人の間に引き合う力が存在していたのは間違いないだろう。
黒で統一した洋服を身に纏う千代。それは混沌とした感情の表れでも、荒んだ心の表現でも、乱れた自律神経の叫びでも何でもない。もちろん、洋服を選ぶ手軽さを重視している訳でもない。そのようなお手軽な女に見えるだろうか。まるで生きる事を放棄していながら食い意地の張った、今にも千切れそうだが決して千切れてはくれない弛んだ脂肪と欲望を引きずっている女とは大違いなのだ。それは目の前のさなえも同じである。
ここでさなえは黒猫と呼ばれているらしい。本名とあだ名の由来を千代に嬉しそうに語る。黒猫の媚びないところと、愛想がないところ、そして真っ黒なところ。
「そんなところが私に似ているらしいわよ。」
媚びていない、と言うよりは甘える事を知らないように思う。千代はそう感じている。黒猫は、仲間の猫たちとうまく溶け込めないのだ。それは自分の色のせいでもあるし、他の猫たちの色のせいでもある。
目の前に表れた真っ黒な千代を、他人のような気がしないと言い、また千代も真っ黒な黒猫に親近感を抱いていた。それは黒という何色にも溶け込めないが何色でも飲み込んでしまう色のおかげだ。
そして私もその仲間なのだ。
私は誇らしげな気持ちを抱えて、雲一つない空へ羽ばたいた。高く飛べば飛ぶ程濁りの少なくなる青い空は、私をどこまでも際立たせどこまでも黒く染めてくれる。決して掴む事の出来ない空間は何時の時も自由に、どんな時も私が飛ぶ事を許してくれ、また私の飛行を楽しんでいるかのように歓迎してくれるのだ。
次々と仲間達が私のあとを付いてくるが、私は振り向かずに前を向いている。黒猫と千代の黒には似ても似つかない黒い街並を見下ろしながら、地上の煙を吸い込みながら、地上の波に酔いながら、それでも地上の濁流に飲まれる事はなく、意気揚々と旅を楽しんでいる。それだけだ。
例えどこかで人間様が争っていようと、殺されていようと、私のいる場所に線を引く事など無理なのだ。
線を引く、これこそが痛みの原因であるということに人間様はどうして気付けないのだろう。
学校のグラウンドに引かれる白線とは違う、目に見えない線と線は、敵対心を呼び起こし攻撃的な人間様を育て上げる。
何一つ違いなどないはずだ。
目に見えるものの違いはあるが、目に見えない血や骨は皆同じはずである。なのにどうして人間様は目に見える違いを目に見えない線で区別したがるのだろう。そうして区別することによって、己をどこか高い場所へと祀りたいだけなのだろうか。
自分を高く祀るには、相手を低く貶めるという方法もあることを知った。
私はその方法を知ってからというものの、何か見てはいけない人間様の裏側をこの目でハッキリと見てしまったような気がして怖かった。人間様の裏には、また裏がありその裏にも裏があるからだ。何枚にも重なりあう人間様の人格は、この世の何にも勝る程の恐怖を持っていると思った。そしてその恐怖は、どこからともなくやってきては消え、やってきては飛んでゆく。私が生え変わるようにして変化してゆく。
ただ、私は生え変わっても同じ黒である。
人間様は、生え変わる度に変色してゆく。
そして、虹色のような美しい色に変色する人間様が沢山いる、と思ったら大間違いだ。
ひどい色をした人間様がうじゃうじゃいる中で、私が目を付けたのがさなえと千代だった。二人のオーラは、美しい色に輝いているのだ。
その色彩は二人を包むだけでなく、雫のように跡を残してゆく。
ひとっ飛びした後に、私が黒猫たちの元へ戻ると、あのカエルが私の方を見て、僕の目を返してくれないかと呟いた。僕の目は人間様がむしりとっていった。あの二人とは違う色の髪の毛を生やしていて、女ではなかった。僕はとっさの出来事に、動いてはいけないという掟を忘れ腕を伸ばしそうになったが、僕の目をむしり取った人間様が僕を床に叩き付けたので痛みに負けて動けなくなったのだ。
生憎私には余りの眼球など持ち合わせていない。返してくれと言っても、私が取ったわけではないのだ。
そこで私はカエルに
「人間様に義眼でもつけてもらったらどうだい」
と、提案してみたのだった。
カエルは空洞から涙のような液体をこぼし、もし今でももう一つ目があったなら、あの二人の美しさが倍になっていたのにと、悔しがっていた。