第2話 不安─ふあん─
茶色い尻尾がちょんと揺れる。
ちょっとした動作で動いては、ポニーテールに束ねられた髪は落ち着かない様子で揺れていた。
寂しく玄関の隅っこに置いてある自販機で、よみはどれを買おうか迷っているみたいだ。
人差し指をボタン前に翳しては、戻して腕を組んで悩んでいる。
「あ、さめさめ」
視線に気付いたのか、よみはボクを見ると笑顔を浮かべた。
「さめさめもジュース?」
「まあね。お茶もいいけど、ジュースも乙なモノだ」
「飲み過ぎは良くないけどね」
「そりゃそうだ」
塩分の取り過ぎは病気に繋がるしね。
好きな物でも、過剰な摂取は危険だ。
「今日は青のりジュースだあ──えいっ」
──ガコンッ
ボタンに反応して缶が落ち、それをよみは取り出し口から取り出す。
「何その失敗感漂ってくる製造会社の革命商品。美味しいのか?」
「それは飲んでからのお楽しみ!さめさめだっていつも変なジュースばかり買うじゃん」
「まあな」
ボクの手には『青りんごサイダーミックス』と、炭酸を意識されてロゴのスチール缶がやってきた。
「よみよりはまともだけどね」
「何それー、毎日寝坊してるさめさめに言われたくない~」
プシュッ、とプルタブを上げると、炭酸が弾け泡立つ。
一口呷ると、のどが潤って口内に染み渡る。
──美味しい。一言で片付けるには惜しいけど、それ以上に、のどの渇きがを安堵感を齎してそうさせる。
「美味いぜ」
「教室に戻ってから飲みなよさめさめー」
「そういうオマエは既に飲み干してるじゃないか」
「だって待てなかったんだもん!」
まるで主人の命令が聞けない子犬だな。
尻尾振って自由に動き回って迷惑掛ける。
「えいやっ」
野球選手の様な動作をして、空き缶をダストシュートする──パンッ──決して空き缶がしてはいけない音を放って、一瞬にしてゴミ箱は爆発して月のクレーターの如く足跡を残した。
「失敗しちゃった☆」
「失敗しちゃった☆じゃねーよ。料理で砂糖と塩を間違えたドジっ子みたいな風に言うな。あざとかわいいけどさ、やってることはクーデターと変わりない」
「──かわいい……?」
思わぬ所に反応して、頬から朱色に染め上げて顔を熟す寸前の林檎色に変えて行く。
人は見たくない部分は目を閉じ、見たい所だけ目を大きく開けて見る。それは防衛本能で、無意識に見たいモノと見たくないモノを切り分けて区別するのと同じことだ。
何も入ってないとわかっているのに、わざわざ箱の中身を開ける人はいないだろう。
「ほら行くよ、授業に遅れる」
「あ、待って!」
待てと言われて待つのは飼い慣らされた犬だけだ。
* * * * *
誰も居なくなった教室で机に突っ伏す。
教室はオレンジの夕焼けに彩られ、グラデーションに飾られる。
「行くか」
誰にでもなく、言葉を吐いて教室から出る。
足が向かうのは、女子トイレ──先日に訪れた場所だ。
「ここ、だよな……」
奥から二番目の個室の目の前に立つ。
開けてみると、最初から何もなかったかのように、そこは綺麗に片付けられていた。
異臭はもうしていなくて、消臭剤のフルーツの香りが漂ってくる。
きっと匂いを打ち消す為に誰かが置いたのだろう。
──そう、ここで何が起きたか知ってる人物が。
「探し物は見つかったのかしら──穀雨君?」
入口には黒髪の少女が気取って立っていた。
「気取ってはないわよ」
──失礼な事言わないでよね
ボクの隣で腰に手を当て、モデルみたいな立ち方をする。
ここで何が起こったのか、知っているはずなのに、動じずに平然としている。
「彼女は気の毒だった。運が悪かった──そうとしか言えないわね」
悪魔だと思った。
淡々と上辺だけのその発言に、同情も何もない。
ただ、そう言うしかないだけ。他に掛ける言葉がないんだ。
彼女は冷酷なだけで、温情がないわけじゃない……はずだ。
きっと心のどこかで情があって──
「ないわ」
その一言で希望が打ち砕かれる。
「人は必ず死を迎える。死というのは原因はともあれ平等なの。彼女の死が早まっただけのこと。それが〝殺人〟であってもね」
冷酷だった。どこまでも冷酷で、言葉の一つ一つが冷たく、氷柱のように尖ったものだった。
ボクとは違う生き物だ──滲む汗が波紋を描いて反発する。
「世界に何百万という人がいるけれど、彼女はその中の一人に過ぎない。死んでも誰も気にしないわ。それとも、あなたは気にするのかしら?」
──人はまだこんなにも多くいるというのに。
夜月という人の皮を被った女は、人の形をした化け物だ。
化け物だから、人じゃないから、人が死んでも平気なんだ。
「どう思うと勝手。だけどね、突然訪れる〝死〟ってのは誰にでもあるのよ。例外なく」
──穀雨くんも、ね。
不吉なことを言い残し、動きに合わせて髪は靡いてはひらひらと宙を踊る。
背を向ける彼女の姿は──あの人を連想させる。ボクと陽向……たった二人の兄妹を残して出て行った、あの人に。
夜月と名乗る彼女は、妹である陽向だ。いつもの変な電波を飛ばしてるのか、本当に多重人格で、別の人格に切り替わっているのか……わからない。
けど、彼女はボクの妹だ。それには変わりない。
ボク達を置いていった〝あの人〟に──似ているのだとしてもだ。
胸の奥からざわめく波紋が広がっては消え行く。
何度も打ち付け、揺さぶってぐらつかせる。
「……なんだよ」
ボクはその背中を見送ることしかできずに立ち尽くした。
* * * * *
突然目の前に巨乳の女の子が現れたら、どうしますか?
「捨てるね」
「いやいや、そんな笑顔満開に怖いこと言うなよ」
太陽の光というより、ダークマターの暗さが滲んで広がっている。
「せっかく父さんが送ってきたんだからさ、もう少し丁重に扱おうよ」
「よみよみの父さんではありませんから」
「いやそうなんだけどさ」
ヤケに細長いダンボールの中に、ボクかそれ以上の大きさの人形が入っていた。
それは今さっき届いた物で、差出人はボクの父親だ。
父さんはアニメや漫画、フィギュアなどが大好きな世間でいう所謂〝オタク〟であり、出掛け先で何かしら見つけて家に送り込んではボク達に片付けさせる、よくわからない人だ。
壊せばもちろん文句言うし、置く場所が悪ければ細かい指示を出して何がどう如何に重要なのかを説明口調で垂れるくせに、めんどうなのか家に送るだけ送って帰宅するまで放置だ。
本当に自由奔放というか、やりたいことをやりたい時にやる──そんな人である。
そんな人が今回寄越したのは、等身大のアニメか何かのキャラの人形で、胸が小さいのを気にしてるよみにとっては余程憎い『巨乳キャラ』だ。
それを見てよみはダークというか邪悪なオーラを放ちながら笑顔を顔に貼り付け、今にもバラして処理しそうな雰囲気だ。
どうにかしないと、このままではタダじゃ済まされない。……父さんが。
「ま、まぁとりあえず物置に閉まっておこう。どうこうするにも、今じゃなくてもいいだろ」
登校前の朝の有意義な時間に、好きでもない人形の相手をしててもどうしようもない。
ボク的には割と好きな方だけども。
「さめさめ、今変なこと考えてなかった?」
「き、気のせいだろ……それより、朝ご飯にしよう。お腹が減った」
「うん。そうだね」
──あとで片付けないとね……火炙りで。
今もどこかで生きてる父親の苦悶する顔を脳裏に浮かべてしまう、よみの独り言だった。
* * * * *
学校というのはいつも代わり映えがない。
校舎、玄関、廊下、教室、生徒……そんないつもの風景は平和という安息を経て日々重ねて行く。
いや、日々変わりつつあるけれど、どれも同じに見えて変わっていないように見えるだけかもしれない。
そんな哲学的なことを語るのは、何を隠そうこのボクだった。
生徒みんなが気楽に過ごせる1日の中のひとつである放課後、ボクは気取って遠い目をしながら誰もいない教室で窓の外を優しく見つめる。
「さめさめが妹に毒された」
誰もいないって言ったな?
──あれは嘘だ。
「毒されてないよ。ただ、今まで相棒だった奴が一瞬にしてあの世に逝ってしまうと、なんだか寂しくてね。悟った様なことをつい、ね」
「そっか。大変だったね」
「あぁ……特によみ、お前のせいでね」
朝の恨み、絶対に忘れない。
「ひどーい。早く起きないさめさめが悪いんだー!よみのせいにしたらダメ」
「じゃあ妖怪のせいにでもしろと言うのか」
「あ、いいねそれ。全部妖怪のせい!」
「オマエも人のせいにしてるじゃんか……」
「妖怪は人じゃありませんから!」
「堂々言うことでもないだろうが。揚げ足取るなよ」
加害者って、大抵は自分がやったことを忘れるよね。
興味がないものから順に脳内メモリから消えてなくなる。
「それよりさめさめ、早く帰るよ。今日はさめさめの大好きな美少女いっぱいの二次元住人が出る深夜番組の予約をしないといけないんだから」
「ボクじゃなくてお父さんが大好きなんだ!」
「でも嫌いじゃないんでしょ?」
「まぁ、嫌いじゃない」
父は平面世界の住人を愛してやまないインドアな人だ。
趣味は人それぞれだが、あの人はどこか特殊だった。
何が特殊かって、二次元の女の子が好きなことじゃない。ただ……
「それにしてもさめさめのお父さんって──変な人だよね。どうしてあんな平面でしか生きられない女の子にさ、イジメられるのが好きなんだろ?」
考えていたことを口に出すよみ。
「イジメられるのがじゃなくて、上から目線で罵られるのがいいらしいよ……──本人曰く」
すこぶるどうでもいい情報だけど。
「さめさめのお父さんは細かいね。きっと大変だったと思うよ、さめさめのお母さん。変態な人が相手で」
「……」
すごい言われようだ。まったくその通りなんだけど。
親二人共、性格に難があって、出逢いに紆余曲折して苦労したらしい。
どんなことがあったのかは詳しくは教えてくれなかったけれど、何かあったのは間違いがなかった。
母は言っていた。
──とてもロマンチックとは言い難かったわ
じゃあどんな出逢いをして、どんな風に二人はくっついたのか。ボクはとても気になったけれど、両親共に誤魔化すばかりで、はぐらかすことしかしなかった。
だけどボクは二人に感謝している。こうしてボクはここにいるのだから。
「そろっと部活に行かなきゃ」
「おう」
「さめさめは先に帰って夕飯の支度……はいいから、陽向ちゃんに遅くなるって言っておいて」
「わかった」
料理を任せようとしたけど、ボクが料理できないのを思い出して諦めたな。
前に何度か同じようなやりとりをして、ボクと陽向が料理を試みたことがあったけど、その時は台所が地震でも見舞われたかのような惨事になってしまったことがある。
片付けたのはよみだ。それ以来ボクや陽向に台所には踏み込ませなくなった。
よみと別れ、軽くのどが渇いて自販機の前に立つ。
「どーれーにーしーよーおーかー……」
「なっ」
──ピッ、ガコン
神の手と思しき細く白い手が勝手に選び、取り出し口からそれを取り出す。
さらにはプルタブを開け一口飲んで渡してきた。
「はい、穀雨君」
「……」
──チャリン
新しくコインを取り出して自分で選ぶ。
──プシュッ
「うん、うまいつ」
「もう、女の子の親切は受け取らないといけないんだよ」
「それは親切じゃなくて押し売りだ。勝手に選んでおいてそれはないだろ」
「女の子が飲んだ缶はご褒美だよ?」
「ご褒美じゃないし、ボクは嬉しくない」
「それは残念」
──んくんく、ぷは!
小紅色を彩ったマカロンを付けたツインテールが揺れる。
「というか、キミは何者?前にボクの名前当ててたよね」
「ふふん♪那由多は那由多だよ。それ以上でも以下でもない」
歯の奥に物が挟まったような自己紹介をする彼女はどこか読めない雰囲気を孕んでいた。
何か隠している……そんな気がする。
って、それはみんなそうか。でも、ここまであからさまじゃない。
……気のせいじゃなければいいけど。
× × × × ×
虚空に撒かれた線は一つになり、収束して柱になって立ち上る。
──ぽちゃ……ぽちゃん……。
水溜まりに落ちる滴は誰かが泣いてるかのように物静かで、その場を優しく包み込む。
「……」
息はしても、ジッとする。
今動いたら、見つかってしまう。
人ではない、何かが──そこにいるから。
不安定な形の体、モヤモヤとした影、そして二つの窪み……顔のようなモノはずっとこちらを見ていている気がしてならない。
だから気を逸らしてはいけない。逸らしたその時は──……きっと、食べられてしまうから。
ここでずっと耐えながら、嵐の前の静けさにならない事を祈っている……。
× × × × ×
──その日……ボクは遭遇してしまった。
木偶の坊──とでも言えばいいのだろうか。
人ではない何かだった。のっぺらい顔に二つの窪みを付け、カタカタと手足を鳴らしてこっちを覗き見ている。
まるでそれは、何かしでかすのを待っているかのような……そんな〝監視〟みたいな様子だった。
それが女子トイレの個室での事件から一週間後の出来事だった。