第1話 夜顔─よるがお─
──水が弾ける音がした。
ぽちゃん、ぽちゃん、と雫が落ちては弾け、水面に波紋を描いてはそれを単調に繰り返す。
そんな様子がこちらから見えていた。
真っ暗闇に剥き出したコンクリートに溜まった水面に光が当たり、まるで砂漠の中の蜃気楼が映し出したオアシスの様に存在していた。
掴もうと思って掴めるわけでもない。
そこに見えてはいるけれど、触れはしなかった。
「……」
無言で見つめる赤い点が二つ。
こちらをジッと見ているのか、それとも自分の影なのかわからないその点は、何かを見つめて動かない。
──水は変わらず弾けて、波紋を描いていた。
× × × × ×
──ビュンッ
そんな風を切るような鋭い音で目を覚ました。
「──っ!?」
言葉も出ない叫びを上げながら飛び起きる。
背筋を伝う汗が、本能が察した危険信号からの恐怖だと示していた。
ただの汗っかきなのかもしれないが。
「あ、起きた♪」
笑顔を浮かべて迎えてくれる幼なじみの女の子は、いつでも振り下ろせるように手を刀にして構えている。
それが死に際に現れる死神に思えて背筋が震え、唇が不自然に吊り上がる。
「朝ご飯出来てるよ、早く降りて来てねっ」
「あ、あぁ……」
バタンッ、と扉を閉めて出て行く姿を見送り、視線だけを枕元の目覚まし時計に移すと、真っ二つになって中の機械がバラバラになっていた。
リビングには妹の陽向がソファに座って本を読んでいた。
「体育座りするな。パンツ見えるぞ」
「……兄様。大丈夫、世界には私と兄様だけだから」
「またわけがわからないこと言って」
背表紙に横文字のタイトルが書いてある小難しい本を膝に乗せて読んでいた妹の脚を、ソファから降ろす。
すると、頬を膨らませて睨む陽向。
「文句あるなら最初から言う事聞いとけ」
「……兄様、イケず」
元から半目でやる気なさそうな目ではあったが、頬を膨らませるとそれが強調されてかわいさを生む。
「ほら、早く食べて食べて」
「急かすなよ。陽向のパンツの色を脳内補完してんだか」
「何か言った?」──グシャッ
「何も言ってません(白目)」
時速60キロの車に轢かれた胡桃が潰れ弾ける瞬間が脳内にリフレインされた。
幼なじみは目が笑ってない綺麗な笑顔で林檎ジュースを物理的に作り出していた。ただし、ジュースは手から床に湧き水如く滴り落ちてはいるが。
この怪力女は千代田よみと言い、家が近所にあって腐れ縁で幼なじみだ。怪力と言うと、怒って手当たり次第に物を投げつけてくる凶暴さが──
「……何か言った?」
「いや、マジで何も言ってない」
「ふーん……」
疑う様な眼差しを向ける。
光がない濁った目、それだけで畏縮してしまう。
なんだろうか、何か開けてはイケない扉を開いてしまいそうな……そんな感覚がする。
「はい、あーん」
「あ、あーん」
「美味しい?」
「美味しいよ」
「良かったぁ♪」
と、会話だけ切り取ればラブラブカップルに見えるだろうか。
実際は脅迫ジミた心地しかしない味気ない朝食なのだが。
ボクを無理矢理座らせ、人形のように次々とスクランブルエッグや味噌汁を無理矢理詰め込み、手早く食器を片付ける幼なじみの姿は──猫を被った悪魔だった(※個人の感想です)。
「ボクは白米派なんだけど」
「だったら早く起きようね」
「ハイ」
武力を行使する幼なじみには勝てないのか。
否、勝つ方法があるはず──なんだけど、強く出れないのが悲しい。
「兄様、先に行きますね」
「お、おう」
その小さな体躯で一人リビングを出て行く陽向は、どこか寂しげだった。
早寝早起きがモットーの陽向は、ボクやよみ(こいつはボクに付き合ってるだけだが)より出るのが早い。
あまり運動が得意ではないのだが、普段の生活は健康的だ。
「さめさめ、よみ達も早く行こう」
「おう」
ちなみにさめさめとはボクのことだ。よみ曰く、穀雨は言いにくいから『さめさめ』らしい。
昔からのことだから今さら気にはしないが、何かにつけてあだ名を付ける癖はどうにかしてほしい。
「……どうにもならないだろうけど」
「さめさめっ」
「はいよ」
* * * * *
教室に入って自分の机に突っ伏す。
インドアな体力がジリジリと減って教室で尽きた。
「だらしないよ、さめさめ」
「体育会系のオマエと違って、ボクはもやしなんだよ……」
「自分でもやしって言う人初めて見たよ」
自分で言っててそうだなと思った。
よみはぐったりしているボクを見て、だらしないなぁと呟きながらも後ろの席に座る。
「さめさめはもっと体力付けるべきだよ。あんまりだらしないと、モテるものもモテないよ?」
余計なお世話だ、そう思いながらそんなわけないと顔を起こさず手を振った。
昼休みに入ると、よみはボクに無理矢理小銭を持たせて言った。
「飲み物買ってきて」
「なんでボクが」
「いいから」
ナチュナルな笑顔を向けてパシり扱い。
さり気に酷いのではないだろうか。
まぁ、行くけどさ。
「わかったよ。何がいいの」
「炭酸じゃなければなんでも」
「おっけ」
よみは炭酸が苦手で、口にすることは滅多にない。
それ以前に食事に炭酸なのが気に入らないってのもあるみたいだが。
一階の玄関隅に置かれてある一台の筐体は静かに立っていた。
種類は豊富な方なのだが、好みがマイナーなのか誰も買おうとしない。よっぽど物好きでないと。
「それがボクなんだろうけど」
ボタンを押してオレンジのラベルの炭酸の缶を取り出し口から取り出す。
スチール缶って高いよな。そんなに量があるわけでもないのに、アルミ缶と同じ値段……だがそこがいい。
よみの分の飲み物も買い、振り向くとマカロンが浮いていた。
いや、髪飾りか。
「君もこの自販機で買うんだね」
微笑んだ女の子が後ろに立っていた。
頭の両端、小学生みたいなツインテールにくっついたマカロンは鮮やかな小紅色をしていて、毒っぽくてゲテモノな感じはするけど、お菓子としては美味しそうだ。
「これは那由多のだからあげないんだよ」
そう言いつつ庇うようにマカロンを抑える。
マカロンを見ていたのがわかったのだろうか。
「別に貰う気はないよ」
「あはは。あげてもいいよ。那由多も一緒に貰ってくれるのならね」
「いや、いらないけど」
「即答なんだ。残念だな~」
──ピッ、ガコン
彼女は残念そうに見えない笑顔を貼り付け、ボクとは違う味の同じ種類の炭酸ジュースを取り出すと、ボクに見せ付ける。
「那由多も好きなんだ、これ」
そうなんだとしか応えようのないボクの言葉のボキャブラリの貧困さが少し悩ましい。
「もうひとつのそれ、幼なじみの?」
「うん」
「そっか。那由多はもう行くね。またね──穀雨くん」
彼女、自分を那由多と呼ぶ少女はボクの名を呼んで立ち去って行く。
それに倣ってボクもその場を離れる。
──どうしてボクの名前を知っていたんだろうか。
そんな疑問は教室に戻ってよみとジャレている内にどっか行っていた。
* * * * *
放課後になるとよみは部活ですぐに居なくなり、ボクは何をするでもなく校内をうろついていた。
足は気の向くままに、気付けば屋上に来ていた。
山の向こうから赤のグラデーションが空に彩られ、夕暮れを報告していた。
夜も近いこの時間帯、風は冷たく肌をなでる。
夕暮れの背景に重なる影、それは人型をしていた。
「──台なしね」
人型の影は落ち着いた声で呟いた。
というか陽向だった。
フェンス越しに空を見上げ儚げに映る少女。
「何してんだ?」
「私に話し掛けるのね、あなた。私は成らざる者を追っているの。邪魔をしないで頂戴」
いつも電波だとは思っていたが、ここまでこじらせるとは。甘くし過ぎたか?
一声掛ければこの対応だ、いつもと違う雰囲気だが、それも電波をこじらせたせいだろう。
「陽向、帰ろうぜ」
「──陽向?誰のこと」
「誰のことって、陽向、ふざけてないで一緒に帰るぞ」
「触らないで!」
陽向の手を掴み引くと、それが不服だとでも言うように振り払った。
これは陽向の取る行動じゃない、陽向は乱暴なことはしないのに……。
「陽向、どうしたんだ?」
「陽向なんて子は知らないわ。私は〝夜月〟よ。間違えないで」
「……何を言ってるんだ。お前は陽向だ」
「あら、言い張るのね。きっと誰かと間違っているのよ。世界には三人は似た人がいるって言うわ。私はその陽向って人のそっくりさんの一人なのね」
淡々と、いつもと全然違う雰囲気でそんなことを言う。
何がどうしたっていうんだ。
まるで人が変わったみたいに話す陽向、そう、それは『中身が誰かと入れ替わった』みたいに。
外見は陽向なのに、人格は別人で、知らない奴だ。
これは俗に言う……多重人格者って奴じゃないのか?
「近くも遠からずってところね。多重人格とは本来他者から見て異常な事よ。他人から見たら精神がイかれてる様にしか見えない」
何を言ってるのかわからない。
いや、意味としてはわかるが、なんでそんなことを言い始めたのかがわからない。
というか、ボクはうっかり口を滑らせたか?なんで思ってる事がわかったんだ。
「あなたは何も言ってないわ。私が〝覗いた〟の」
──あなたの頭の中をね。
不敵に笑い、何か意味ありげに含んだその笑みはどこか冷酷さを際立たせていた。
「覗いたって……」
「目を見たらあなたが何を考えているのかわかるわ」
目──言われて気付く。彼女の瞳が赤色に輝いていることに。
陽向の瞳の色は〝青〟だ。
いつの間に変わっていたんだ。
「──気になる?」
「何がだ」
「そう。とぼけるのね」
ふふ、と笑いフェンスの向こうの空を見上げる。
もうすぐ日は完全に落ちて、紺色の夜が支配を告げる。
陽向の行動はいつも芝居がかっているが、今日のは何か違う気がする。何がどうだとは言えないが、どこかが違う。
「私は私よ」
──それ以上でもそれ以下でもないわ。
微笑みの中の瞳は、どこか冷ややかだ。
ボクは彼女の底の見えない冷たさが、恐ろしく感じた。
* * * * *
「どうして着いてくるのかしらね」
「オマエに何かあったら心配だから。それだけ」
「ふーん」
大して興味もなさそうにして校内をうろつき歩く。
誰もいなくなった校舎は静かで、世界から切り離された空間みたいに感じた。
ただ昼から夜になっただけなのに、こうも雰囲気が変わると、不安になる。
「どこに行くんだ?」
「どこだと思う?」
質問を質問で返してきた。
本当に心配なのは陽向であって、夜月だなんて電波をこじらせた危ない女ではない。が、体は陽向のモノだ。
返してくれるまでは傍にいないとな。
陽向とは別人というのが本当なら、の話だがな。
「夜ってね、出やすいのよ」
「何が?」
「体から切り離された魂、俗に言う幽霊ね」
「女の子の幽霊なら歓迎する」
「……」
ゾクッとする鋭い目つき、視線は何か開けてはならない扉をこじ開けてしまう様な気がした。
それは刺激的で、体を震え上がらせた。
「幽霊は夜に出るというけれど、それは絶対ではないの。昼間にも出るのよ。元は生あるものだったのだから当たり前なことなのよ」
「でもそれって、明るくても暗くても、出るとこには出るってことだよね?」
「そう。霊というのは人や動物の念の塊なの。感情や衝動とか、心に溜まった思いとか気持ちが集まったモノ。だから死んで成仏できなければ現世に留まってさまようの。それが特定的なら自縛霊にもなりかねないわ」
「幽霊と自縛霊って違うの?」
ふと思った疑問を投げる。
「幽霊は浮遊霊、つまり束縛がない自由型の霊ね。死んだことも知らないでただそこにいるだけ。動けても、何もできやしないわ」
「自縛霊は?」
「未練とか復讐心とか、負の感情を残したまま亡くなって死んだ場所に居着くのよ。殺されたのなら復讐を、忘れ形見があるならそれを求めて。最悪周りを巻き込むわ」
「つまり……霊ってのは死んだ時の状況によっては害悪になってしまうのか。怖いな」
「本当に害悪なのは生きてる方よ。だって死んだ側は生きてる側に干渉できないんだもの」
「そういうもの?」
「そういうものよ」
思ったより応えてくれけど、どこまでが本気なのかわからない。
というより、なぜ今幽霊の話なんてしたのか。まさか、本当に出るとでも言うのか。
「死んでる人は生きてる人に干渉できないってことは、その逆、生きてる人が死んだ人に干渉はどうなの?」
「ふふ──試してみる?」
ゾクッ。背筋に電気が通った様に寒気がした。
陽向、いや、夜月は扉の前で笑う。
ちっともその赤く光る瞳は笑ってはいなかった。
「ここは……」
女子トイレ?なんでこんな所に来たんだ。
何かあるのか?いや、それにしても良くわからない。
目的は?というか、ボクが入ってもいいのかな……。
「入っても大丈夫よ。それだけでは軽蔑しないから」
「いや、でもさ。夜で無人だからって、女子トイレに入るには抵抗があるよ……」
「根性無し」
「うぐっ」
陽向の口から冷たい言葉が出ると、グサッとくる。
本物であってもなくても、姿は陽向だ。どんなに台詞や表情が別人でも、そこだけはどうもな……心に響くんだよ。
「いいからとっとと入りなさいよ。グズ」
「……ぐっ、妹の顔でそういう汚い言葉使わないでくれるかな……」
「私がどんな言葉を使おうと勝手よ」
なんだろう、すごく胸が痛む。
筆に付着した絵の具がバケツの中の水に付けた瞬間、無造作に広がるかの様に。
「早くして。待たされるのは嫌いなの」
「……わかったよ」
未だ知らない神秘の領域に足を踏み込む。
ふわっとした檸檬の香りが鼻に刺激が──来なかった。変わりに名状しがたい腐臭の様な物が鼻を刺激した。
「──!?」
漫画やアニメみたいに、いい香りが漂って清潔感を保っているかと思ったけれど、それは幻想として打ち砕かれた。
思っていたのとは違う。まるで何かが腐って何日も経った後の様な悪臭が鼻をへし折る勢いでくすぶり、神経を毒に掛け鈍らせる。
「何なんだこの臭い……っ」
「開けてみたらわかるんじゃないかしら?ほら、そこの扉、とか」
「扉……?」
トイレの個室──女子トイレは元から個室しかないが──奥から二番目、どうやらそこがこの悪臭の漂う原因が眠ってるようだ。
手を掛けるが鍵が掛かっていて開かない。
それを見てひな──夜月はポケットからコインを取り出して、鍵をいじくってこじ開けた。
「……」
「見ないの?」
挑発的な笑みでこちらを見る。
赤い瞳が沈む寸前の夕暮れの光に反射して揺れる。
完全に落ちた光は闇に飲まれ、静かな世界を呼び起こす。
行ってはいけないと警鐘が頭にジンジンと痛みとして響く──なのに、足はそれに背き、ブラックホールに流れ込む隕石……惹かれ会う極の磁石の如く勝手に動く。
開かずの間を開けようとする中学生の知的好奇心みたく、興味はあるが……そこに何があるのか、恐怖が、そこに入るなという警告をさっきから体の震えとして表れている。
「そこには何があるのか」
──知りたいとは思わない?
その言葉が胸の内、渦巻く欲求の後押しをした。
キィィィィ──響く鉄の擦られた音が、扉の向こうにある光景を映すのに印象深くさせ、目の当たりにした瞬間の演出の効果を上げた。
「──っ!?」
悲惨だった。
ボクはすぐさまその場で、逃げたい衝動より有り得ない現実による畏怖が足をすくませ、へたり込んだ。
声が出ない。
「──美しい。そうは思わない?」
──この人は何を言っているんだろう?
赤い絵の具が飛び散り、個室の中は真っ赤に燃えていた。
便器の上に人だったモノが座って俯いている。
へたり込んだ事で見えたその顔は、へしゃげて誰だかわからなくなっている。
制服は女物だったから女生徒だとわかる。女子トイレだというのもあるが、この現状では考えても考えられない。
目に焼き付く。無理矢理録画させられているみたいに、こびりついて離れない。
停止は出来ない。
目にした異常な光景と、鼻を殴る異臭が顔の穴という穴から入ってきては、胃の中の消化し切ってはいないモノを、まるで掴み取りみたいに手を大きくして掴み、持って行く。
「んんっ!?!??」
口に手を当てる。
「出ましょう。アナタにはキツかったみたいね」
手を引かれる。
「ぁ゛ぁ゛っ……げぇえええええぇぇ──っっ」
男子トイレに移動して、洋式の便器にしがみついて吐き出した。
出す物全部出して、リノリウムの廊下に戻っては四つん這いになって肩で息をする。
「顔が潰されて誰だかわからなかったわね」
夜月はさっきの光景を目の当たりにしたというのに、落ち着いている。
怖い。さっきの女生徒の惨状も、こいつの冷たさも。全部。
胃がキリキリする。ザラつく口を噛み締め、何もなかった風に平然と腕を組む彼女を見上げ、睨み付ける。
「……人が殺されていた」
「そうね。きっと首の頸動脈を切られたのね、あの血の量は普通じゃないわ。顔はハンマーか何か、鉄の塊で何度も──」
「人が殺されたんだっっっ!!!」
顔が熱い。ボクは彼女の胸元を掴み、怒鳴った。
寂しさの闇が包む廊下に木霊する。
「なんでオマエは……そんなに冷静なんだ──っ?!」
「私は探し物をしているの。それはここになかった。それだけよ」
「それだけ……?」
「殺されたのは運が悪かったとしか言いようがないわ。私には関係ないもの」
そのあまりにも無慈悲で冷酷な言葉は、ボクの怒りや恐怖というマイナスの感情を逆撫でした。
「もういい……オマエは、人じゃない」
「どこへ行くの?」
「帰る」
非情な彼女から背を向け、そのまま前へと進む。
もうこれ以上夜月と名乗る、ボクの妹の日向ソックリの頭がイカレタ奴とは、一緒には居られない。
「……?」
──視線、どこからか感じた気配。
気のせいだと頭を振って、ポケットに手を突っ込んだ。
廊下のリノリウムの叩く靴の音が、暗闇に吸い込まれて行った。
* * * * *
「……悲劇だ」
もはや鉄屑としても機能を持さない、粉々になってしまい交換も効かない、切れた導線から火花がチリチリと散る廃れたパソコンを目の当たりにして、ボクは嘆く。
「やっちゃった──てへ☆」
「てへ、じゃねーよ。どうしてくれるんだよ……コツコツと日頃から集めた大事なデータが一瞬で吹っ飛んだよ」
「また集めたらいいじゃん?」
「それが出来たら、こんなに落ち込まないよ……」
昨今、著作やらポルノやら厳しくなる中、消えて行く貴重な動画とか画像が取りまとめられていた何TBという大量のデータは、瞬きをするその一瞬でお釈迦様となった。
それも、力の加減を知らないたった一人の幼なじみの女の子の手によって、簡単に。
「ちゃんと起きないさめさめが悪いんだよ、ちゃんと目覚まし掛けて起きてくれたら、こんな風に嘆く事なんてなかったのに」
「それにしたってこれはあまりにも惨いぞ。何年も前から少しずつ積み上げた土の山が、通りかかったブルドーザーにあっさりと崩されるんだ……世の中は非情だよ」
ブルドーザーって誰の事なのかな──
よみは呆れ顔でボクを見る。
「世の中はそういうモノだよ。どんなに嘆いても、どんなにもがいても、相手がそれを可哀想と思っても手を差し伸べて貰えない。だってめんどくさいもん。人は見返りが無いと簡単に人を見捨てるんだよ、だからお金で取引される」
見返り──それはギブアンドテイクということだ。
こちらが求めるモノを差し出す代わりに、相手側にもこちらの求めるモノを要求する。
それは合理的で、どちらも納得の出来る等価交換。モノの大きさではなく、両者の価値観の相違だ。純粋に両者の条件に合っていさえばそれでいい。
だけどパソコンはもう帰らぬモノとなったが。
「そんな事よりさめさめ、早く着替えて。朝ご飯食べてさっさと学校行かないとまた遅刻だよ」
何度遅刻したら気が済むの、と説教的なよみの背中を押して部屋から出して着替える。
言われた通り、一刻も早く着替えて行かないと、遅刻しそうな時刻だった。
「兄様、何かあったのです?」
「パソコンが一台天国へ旅立った」
「……心中お察しします」
手を合わせ合掌する日向は変わらず畏まった様子だった。
昨日の夜のあの出来事は嘘だと吐くかの様に、その姿は元のままだった。
嘘なら嘘でいいけどな。むしろ、嘘の方が気が楽だ。
「さめさめ、早く食べてー!」
「わかった」
テーブルの上には味噌汁の中にご飯がぶっ込まれていた。
「先に失礼します」
「おう、気をつけてな」
「はい」
「さめさめ!」
日向の背中を見送ってから席に着くと、よみに味噌汁によってグズグズになったご飯を口に無理矢理飲まされた。
「っ!?」
思ったよりもイケた。
ご飯を噛み締める度に滲み出る甘さと、味噌汁の旨味が絶妙に合わさってハーモニーを奏でていた。
が、よみのねじ込んだ牛乳によって、ぶち壊されてしまったが。それでもまだ味は生きていた。
「よし、食器を片付けてさっさと行こう!」
よみに手を引かれて玄関を出る頃には昨日の出来事なんて忘れていた。