第四章【共有】
晴海と出会って六日目の夕方。私はあまり部屋から出ることがなかったが、その日、階下に下りてみるとリビングのソファで本を読んでいる晴海の姿があった。私に気が付いた晴海は顔を上げ、「お腹でも空いた?」と尋ねる。私は首を横に振る。晴海の手元に視線を落とすと、月の満ち欠けやクレーターの写真が目に入った。
「宇宙に、興味があるの?」
「うん、好きよ。小学生の時、理科で習ってからかな、いいなって思ったのは」
「晴海にも小学生の頃があったの?」
「あるわよ、夏海にもあるでしょう」
「私にはあるけど」
「あたしにはなさそう?」
私は晴海のことをどこか現実として捉えられていない自分に、その時、気が付いた。
「ごめん、そういうわけじゃないんだ」
「いいのよ」
さして気にしていなさそうな素振りで晴海は本に再度、目を落とす。私もそれを追い掛けるようにして眺めた。確かに、小学生の頃に月の満ち欠けや星の動きについて習った記憶がある。月は自らが光っているわけではないと知って驚いたことや、夏の大三角などを思い出して行く。
「いつか行ってみたいなあ」
晴海が、ぽつりと言った。
「宇宙に?」
「そうね。今はこうして眺めるくらいしか出来ないけれど」
それは初めて晴海が告げた彼女の本心のような気がした。晴海の言うことはほとんどが抽象的であった中、唯一、具体的で、本当のことのように思えた。晴海の言うことが皆、本当ではないという意味ではない。ただ、どこか遠い夢のように思えていた晴海の存在が、私はその時、ほんの少しだけ近付いたように思えたのだ。
「朝と夜があるのは太陽があるからで、星は昼間も存在していて、月は姿を変えているように見えるけれど実際はそうではなくて。そういうことを習うのがすごく楽しかったな。夏海は何が好き?」
不意に目を合わせ、尋ねられる。浮かんだのは夏という季節と向日葵の花。だが、私はそれをそのまま口に出すことは出来なかった。晴海の問いに深い意味はないのかもしれない。だが、私はもっと別のことを尋ねられているように思えたのだ。もっと、自分の根底に根付く、何かを。それが私にはすぐ出て来なかった。
「夏海?」
晴海が不思議そうに私の名前を呼ぶ。私は、かぶりを振った。
夕食までの少しの間、私達は一緒に同じ本を読んだ。晴海がページを捲るたび、そこには太陽系や星々、宇宙が広がって行く。幾つかの言葉を交わしながら同じものを見るのは、とても楽しいひとときだった。共有、という言葉が脳裏に浮かぶ。私は久しく、それを感じていなかったことをこの時に思い出したのだった。
私は途中、本ではなく晴海を見ていた。いつしか彼女に「夏海」と自分の名を呼ばれることに、私は違和感を覚えなくなっていた。どうして晴海は私の名前を知っていたのだろう。それだけではない、そもそも彼女は誰なのだろう。私は今、何をしているのだろう……。
――あの日、私はいつものように目を覚ました。いつも通りの朝のはずだった。窓を開ければカーテンが揺れて、朝ご飯のにおいがして、家族がいて。駅に向かって、電車に乗って、学校へ。勉強をして、友人と話して。そして家へと帰って来る。普通の日々の一部分、一日という単位の生活。それが、あの日も変わらず訪れ、終わると信じて疑わなかった。
けれども私の家には私しかいなかった。一人きり、誰もいない街を歩き、無音の中を進んだ。駅も無人で、電光掲示板だけが空しく光り、電車は待てどもやっては来なかった。そして、やはり一人きりで帰ってみれば、彼女が、晴海がいた。全ては、あの日から。あの日から始まって、今、この瞬間が訪れている。始まりは、あの日。晴海と初めて出会った日。いつ終わるとも知れない、この不可思議な時間を私はほんの少し愛おしく思った。ほんの少し、違和感や恐怖を忘れて。
晴海の横顔は、宇宙に夢を馳せているのか、とても美しかった。




