第二章【名前】
しばらくの間、私達は無言のまま街を歩いた。私の名前を知っていた彼女はこの街のことも知っているのか、私に聞かずとも商店街の方へと足を向け、花屋への道を辿っているようだった。
昼に近くなっているのか太陽が高い位置できらきらと輝いているのを、手を翳して確かめる。これが現実ではないとは思えなかった。つまり、私の夢だとは、とても思えなかった。こんなにも五感や色感がはっきりとしている夢があるだろうか。
「ねえ、夏海」
再び、彼女が私の名前を呼ぶ。そういえば私は彼女の名前を知らない。
「その前に、名前を教えてくれる?」
私がそう言うと、何故か彼女は沈黙する。そして、少しした後に「好きに呼んでいいわ」と、どこか投げ遣りにも取れる言い方で告げた。
「好きにって言われても」
「本当にいいの、何でも」
今度は私が困って沈黙する番だった。代わりに彼女が口を開く。
「何か確立しているものを持っていることはいいとしても、そういうものを一つ一つ人に打ち明けて行くたび、自分が縛られて行くような気がするのよね。必要以上に形作られてしまうというか。あたしはこういう人間です、って言うことでしょう。そうして行く内にだんだん無意識にそれを演じてしまう気がしない? 何も伝えないままっていうのも、さびしいけど。お互いはお互いを知るまでが楽しくて幸せなのよ。一概にそうとも言い切れないけどね。とにかく好きに呼んで」
やはり彼女の言うことはほとんどが具体的ではなく、私はそれらをどう捉えていいものか考えあぐねてしまう。だが、全く理解出来ないわけではない。しかしながら私には今、彼女しかいないのに、その彼女の名前すら分からないままというのは余計に不安が募るような気がした。私は少しでも分かることを増やしたいのだろう、この現実において。けれど、彼女からは、はっきりとした意思を感じた。私の好きなように呼ぶしかないのだろう。
「じゃあ、晴海でいいかな」
「晴海と夏海か。姉妹みたいでいいわね」
夏を控えた太陽を背負って彼女――晴海は私を見下ろし、笑った。私は、その笑顔に、どうしてか安堵を覚えた。
「よろしく、夏海」
「よろしく、晴海」
お互いの名前を、お互いが知る。それだけなのに私はその瞬間、確かに笑顔になれたことを自覚した。
やがて着いた花屋には、最早、当たり前のように人はいなかった。ただ、色取り取りの花々がどこか場違いのように明るい色彩を私達の前に顕している。無人のカウンターの右奥には、夏を象徴する黄金色の向日葵が大きく花開いているのが見えた。私の視線を追ったのだろう、「向日葵が好きなの?」と晴海が尋ねる。私が肯定すると、「じゃあ向日葵にしましょう」と晴海は足を進め、一本、二本、とそれを手にし始める。
「勝手に持って行ったら駄目だよ」
「お金を置いておくしかないわね、誰もいないのだから」
晴海はその手に五本の向日葵を抱え、手近にあった紙で器用に包むと、ポケットから小銭を出してカウンターに置く。それでいいものかどうか私は後ろ髪を引かれる思いで店を出た。実際に振り返ってみても店の奥から誰かが出て来る気配はなく、私は晴海に手を引かれるまま店を後にした。雲一つない空は嘘のように青く、遠かった。




