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チャージ・タイム  作者: 有未


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第一章【出会い】

 突然のことだった。思い出と呼べる程の年月が経っても、それは強烈過ぎて決して色褪せることがなかった。






 ――朝が訪れた。私がいつも通りに制服に着替えて部屋を出ると、そこには家族の誰の姿もなく、朝食もなく、まるで当たり前のように家中が、しんと静まり返っていた。両親の寝室と妹の部屋を覗いてみても、誰もいない。不審に思いつつも私は学校へ行く為、家を出た。思えば、普段通りの行動を取ることで私は冷静さを保とうとしていたのかもしれない。


 しかし、家から駅までの道すがら誰にも出会わず、駅に着いても駅員の一人すら見掛けないとなると、さすがに異様さを感じて来る。ぴ、という定期券を認識する音が妙に空々しく、ひどく大きく響いたようだ。そして、駅のホームにたった一人で立つ私の姿はどこか滑稽で浮いているように思えた。辺りを見回しても、やはり人一人いなく、ただただ静まり返っている。


 ふと見上げた電光掲示板には電車の来る時刻は示されているものの、それを過ぎても電車がやって来ることはなかった。どれくらい待ったのだろう。平素ならば十分に一本は来る電車は一向に来ることはなく、電光掲示板の表示が空しく変化して行くだけだ。勿論、アナウンスなども入らない。私は諦めて家へ帰ることにした。






 帰路でも出会う人はいなかった。それどころか人の話し声も足音も気配も感じられない。朝特有の、鳥の声もなかった。こんなにも不気味な静寂を味わったことは初めてだった。

 家の玄関扉を開けることが何となく躊躇われた。そこは間違いなく私の家なのだが、今までの様子を振り返ると、得体の知れない恐怖感が、じわりと滲むように込み上げて来る。だが、意を決して鍵を差し込み、扉を開ける。すると、開かれた扉の向こう側には一人の見知らぬ女性が佇んでいた。

 

 そして私が何か言うよりも早くに、


「おかえりなさい」


 と言って、にこりと笑った。


 つられて、「ただいま」と返したが、私はすぐに思考を取り戻す。「あなたは誰」、そう問い掛ける私に少しも怯まず、それどころか緩やかな動作で私の持っている通学鞄を受け取り、女性は、さっさと奥へ歩いて行ってしまった。


 私は慌てて靴を脱ぎ、その後を追う。途中、何かいいにおいが私の鼻を掠めた。それもそのはず、リビングのいつものテーブルの上には、まだ湯気を立てているおいしそうな料理の数々が所狭しと並べられていたのだから。私が目を丸くしていると、先程の女性が冷蔵庫をぱたんと閉めて振り返った。


「作ってみたの。朝ご飯、食べなかったんじゃないかと思って。デザートにゼリーも冷やしているところだから。朝ご飯、食べた?」


 私が無言のまま首を横に振ると、「良かった」と女性は微笑む。


「さあ、冷めない内に食べて。一日の活力は朝食からよ」


「あの」


「あたしも朝、まだなの。一緒していいかしら」


「あなたは一体どこの誰なんですか?」


「分からない?」


 分かるはずもない。初対面だ。女性は、肩口くらいまでの夜を思わせる黒髪を右耳に掛けながら、まるで心を見透かしたかのように私をじっと見ながら答えた。


「実際に会うのは初めてだけど、初対面とは少し違うと思うのよ。少なくともあたしにはあなたが誰だか分かっているし。そう思うと、少しがっかり」


「私を知ってる?」


「ええ。でも、とりあえず話は食べてからにしない? もしくは食べながら。料理は作り立てがおいしい、ね?」


 言いつつ、彼女は席に着き、にこりと笑った。私は洩れそうになった溜息を飲み込み、椅子を引く。料理は二人分にしては少し多いような気がした。だが、私達の他に誰か――私の家族――がいる気配は、今朝同様に感じられなかった。


「いただきます」


 彼女に誘われるようにして私も同じ言葉を告げる。先程からどうも彼女の言いようにされているような気がした。だが、他にどうしたらいいのだろう。昨日までいた家族の姿がないこと、街にも駅にも人が見当たらなかったこと、これらをどう考えたらいいのだろうか。とにかく、思考を正しく巡らせるにはエネルギーが必要だろう。私は思い直し、目の前で湯気を立てているコーンスープを一口、飲んでみた。


「あ、おいしい」


 一瞬、状況も忘れて生まれた言葉だった。


「本当?」


「うん」


 私が頷くと、彼女は心から嬉しそうな様子で続けた。


「嬉しいな、そう言って貰えると作った甲斐があるなあ」


 コーンスープ、卵焼き、コロッケ、ポテトサラダ、おにぎり。それぞれはどれもおいしく、また、結構な量があった。私は何度か、「おいしい」と洩らす。そのたびごとに彼女は「ありがとう」と言った。


「あの、もしかしてこれ、私の為に?」


 ある程度、箸が進んだ辺りで私が思い切って尋ねてみると、


「もしかしなくても、そうよ。おいしいって言ってくれて良かった。色々作っている内に、いつの間にかこんなに出来ちゃって。残りはお昼にでも、ね」


 と、彼女は春の陽射しのようにふわりと笑った。


 この笑顔を幾度か見ている間に、何となく気持ちが落ち着いて来ていることを私は感じていた。まだ何も、何も解決も理解もしていないというのに。この普段とはあまりにも異なる現実を。


「どうしてあたしがあなたを知っているかと言うと」


 唐突に切り出した彼女に、私は思わず身を少し乗り出し、耳を傾けた。


「それは秘密」


「はあ?」


 当てが外れ、呆れも含めて聞き返すと、彼女は更に続けた。


「だって、あたしはあなたを覚えているのにあなたはあたしを忘れている。そういうの、少し悔しいと思わない?」


 そこで同意を求められても困るというものだ。返答しかねている私を追撃するように、彼女は言う。


「あたしは、こういう日がいつか来ることをずっと待っていたのに」と。


「ずっと……?」


「そうよ。でも、忘れられているというか、覚えていられないのは仕方のないことなのかもしれないけれど」


「あの……そういえば、ここへはどうやって入ったの?」


 私は理解の及ばない事柄から逃げ出すように、話題を現実的なものへと切り替える。確かに私は今朝、鍵を閉めて家を出た。けれども彼女は私が帰る前から既に家の中にいたのだ。鍵を持っているのだろうか。あるいは最初から家にいたのだろうか。


「普通によ」


「だって、鍵が掛かっていたでしょう?」


「それは、さしたる問題じゃないわ」


「鍵屋さんを呼んだとか、そういうこと」


「そういうことじゃないわよ。気付いているでしょう、この世界に私達以外、誰もいないことを」


 そこで彼女は再び笑う。それは確かに春の陽射しのような先程のものと同じ笑顔なのに、私は間違いなく恐怖に似たものを自覚した。


 そして彼女の発した「世界」という単語が妙に頭に引っ掛かる。そこまで大きな話なのだろうか、この現在の状況は。これは私がみている夢で、いつも通りに起きていつも通りに制服に着替えてリビングに行けばいつものように両親と妹がいる、そういう当然のような現実的結末を迎えはしないのだろうか。


 あるいは、ただ、普段通りに家を出て駅へと向かい、忘れ物をして家に帰って来たら家族の誰もいなくて、しかし見知らぬ彼女がいた。これだけならば、目の前で微笑む名も知らぬ彼女が不法侵入者、それだけの話で済む。だが、誰もいない街を駅を、私はどう説明付けたらいいのだろう。少しの間、引っ込んでいた疑問と困惑が、たちまちにして雲のように立ち込めて行く。


「行きたいと思えばどこにでも行ける。世界中、どこにでも。それと気が付かないだけで誰でもそういう力は持っているのよ、あなたも、あたしも」


 彼女は、どこか現実離れした抽象的なことを述べる。


 料理から昇る湯気は、いつの間にかすっかりと消えていた。彼女は立ち上がり、勝手知ったるといった感じで台所の下からサランラップを取り出し、料理に一つずつ丁寧にラップを掛け、冷蔵庫へと仕舞って行く。最後にポテトサラダを仕舞い、「ゼリー、冷えたみたいだけど、食べる?」と振り返りながら尋ねた。私が頷くはずもなかった。それを彼女は分かっていたのか、静かに冷蔵庫を閉めて元のように椅子に座った。


「あなたは何をしたいの?」


 不意に彼女が尋ねる。ここには私と彼女しかいないのだ、私に尋ねているのだろう。


「みんな、どこに行ったのかなって」


 心なしか俯いたまま、私は言った。これが夢であるならば、それでいい。むしろ、夢でないならば、一体何だというのだろうか。私は何故ここにいて、皆はどこにいて、彼女は誰なのか?


「それなら、一夜限りの夢だと思えばいいじゃない? 長い一生の内、こんなことだってあるわよ。別に、あたしやあなたの頭がおかしくなったわけでも世界がおかしくなったわけでもない。ただ、一夜限りの夢、あるいは白昼夢、あるいは『いつか』が来た、それだけのことだと思えば。すぐに過ぎるわ、こんな時間は。楽しめばいいのよ」


 またも彼女は抽象的なことを私に告げる。いよいよ以て私の頭の中は混乱を極めて行く。まるで、たった一人で放り出されたような不安を感じる。そう思って顔を上げると彼女と目が合った。そう、一人きりではなかった。けれど、どうしたらいいのだろう。


「ねえ、花は好き?」


 脈絡なく、彼女は私に問う。


「好き、だけど」


「じゃあ、今から夏海(なつみ)の好きな花を買いに花屋さんに行かない? きっと気分が明るくなると思うよ」


「私の名前、知ってるの」


「知ってるよ。あたしはあなたを知っているって、さっき言ったじゃない。それで、花屋さん、行く?」


 彼女のクロスグリの実のような瞳が、覗き込むように私を見つめる。吸い込まれそうだった。静寂に押し抱かれた空間の中で、私が向かい合うことの出来る相手は彼女しかいなかったのだ。私は、知らず頷いていた。


 私達は立ち上がり、家から出る。鍵を閉める音が、いやに冷たく大きく響く。夏を間近に控えた空は高く遠く青く、太陽の光もやや強かったが、鳥も蝉も鳴かない誰もいない街は、私の知っているそれではないようで、やはり恐怖が募った。


「行こう」


 差し出された彼女の手は白く、重ねてみると柔らかく、ほんのりと温かかった。それだけが私の救いだった。

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