【第九話:宿命の墓標 —— 秘められた血、冬の別れ】
天正十二年、冬。
小牧・長久手での刃を収めた徳川と羽柴であったが、その実情は、秀吉による執拗な「懐柔」という名の侵食であった。
秀吉は和睦の条件として、家康の次男・於義丸(後の結城秀康)を養子として大坂へ差し出すよう求めてきた。それは名目上の養子縁組であり、実態は徳川の喉元に突きつけられた人質である。
「……断る。それだけは、断じて承服いたしかねる」
浜松城の一室。五郎は、膝の上に置いた拳を白くなるほど握りしめていた。その前には、酒井忠次と石川数正が、岩のように動かず座している。
「殿、これは感情で決すべきことではございませぬ。於義丸殿を差し出さねば、秀吉は再び大軍を動かしましょう。そうなれば、今度こそ徳川は、お愛様が守ろうとしているこの平穏と共に灰になりまする」
数正の声は冷徹であった。だが、五郎は首を振った。
「於義丸は……あの子は、兄上の、本物の家康公の血を引く、唯一の希望なのだぞ。それをあの、底知れぬ秀吉の元へ送るというのか。……私は、死んでも兄上に顔向けができぬ」
五郎の瞳には、かつて寺で経を読んでいた頃の、純粋すぎる悲しみが宿っていた。しかし、最長老の忠次が、静かに、重く口を開いた。
「……殿。貴殿が『家康』として生きる道を選んだあの日、すでに己の心は捨てたはず。……兄上への真の義理とは、その血筋を生き永らえさせること。大坂へ送れば、於義丸殿は豊臣の養子として、天下人の一翼を担うことになりまする」
数正も畳に深く頭を下げた。
「……泥は、我ら家臣も共に被ります。殿、どうか……徳川の家父長として、非情な決断を」
長い沈黙。部屋には、冬の隙間風が鳴る音だけが響いていた。
やがて、五郎は絞り出すような声で呟いた。
「……わかった。……於義丸を、大坂へ送る。……だが、出発の前に、一度だけ……一度だけでよい。あの子と二人きりで合わせよ」
数日後。
五郎は供を遠ざけ、於義丸を連れて、かつて自分が修行を積んだ山寺へと向かった。
於義丸は届け上は十一歳。『嘘』の露見を恐れた数正が出生の届けを一年ずらしたからとはいえ、その体躯はすでに並の大人よりも逞しく、眼光には亡き兄・家康の面影が色濃く漂っていた。
五郎は無言で、静かな寺の裏手にある、苔むした古い墓石の前まで彼を導いた。
そこは、三方ヶ原のあの日。酒井忠次と服部半蔵が、主君の亡骸を密かに回収し、誰の目にも触れぬよう、静かに弔った墓であった。
五郎は墓の前に跪き、持参した薬草の香を焚いた。白檀の香りが、冬の冷たい空気の中に混じり合う。
「於義丸。……ここは、父君とお前に深いゆかりのある方の眠る場所だ」
於義丸は怪訝な顔をした。目の前にいる家康公こそが自分の父ではないのか。だが、五郎の表情があまりに神聖であったため、少年は何も言わずに隣に跪いた。
「……いいか、於義丸。お前は大坂へ行く。羽柴秀吉という男は、恐ろしい男だ。だが、何があっても、お前の中に流れる誇りだけは失うな。……お前は、誰よりも尊き血を引いている。……この墓に眠る御方は、かつて嵐の中を駆け抜け、徳川の礎を築いた。……その想いを、お前が継ぐのだ」
五郎は、於義丸の肩に手を置いた。その手は、薬草を煎じ続けてきた「五郎」の手として微かに震えていた。
「……お前を遠くへやる私を、恨んでもよい。……だが、覚えておけ。私は、お前を……お前という命を、死ぬまで愛している。……それは、嘘偽りのない、私の真実だ」
於義丸は、父の言葉の真意を完全には理解できなかったかもしれない。しかし、五郎の目からこぼれた涙が、自分の手の甲に落ちるのを見て、少年は悟った。自分が行くことは、この父を、そして徳川を守るための、最も重い勤めなのだと。
「……父上。私は、恨みなどいたしませぬ。……徳川の名に恥じぬよう、大坂で、豊臣を内側から見定めて参ります」
十一歳の少年が放った、力強い言葉。
五郎は、その瞳の中に、亡き兄・家康の「覇気」が、灯火のように静かに宿っているのを見た。
「……さあ、手を合わせよう。……お前の、真の姿を見ていただくのだ」
父と子は、名もなき墓石に向かって、深く、長く手を合わせた。
冬の陽光が、影を一つに重ねて二人を照らしていた。
その後すぐ、於義丸は旅立ちの挨拶のため浜松城を訪れた。
この日、城外で隠れるように暮らしてきたお万には、五郎の計らいによって特別に城内への立ち入りが許されていた。お万は物陰から、凛々しく着飾った息子の晴れ姿を、祈るような眼差しで見守っていた。
家臣たちの見守るなか、於義丸は堂々たる足取りで、豊臣の待つ大坂へと旅立っていった。
その夜。
浜松城の寝所には、微かに白檀の香が漂っていた。
五郎は一人、天井を見つめていた。
数日前、墓前で於義丸にかけた言葉が、未だに胸の奥を鋭く抉り続けている。
「五郎様。……今日、於義丸様とお万様を、遠目に見かけました」
傍らで静かに控えていたお愛が、そっと五郎の手の上に、己の手を重ねた。五郎は視線を動かさず、ただその温もりに耳を澄ませる。
「あの頃、浜松の別邸で共にお仕えしていた頃から、あのお方は芯の強いお方でしたが……。今日お見かけしたお万様は、兄君様の面影を宿したあの子を、今日までお一人で守り抜かれた誇りに満ちて、本当にお美しゅうございました」
「……そうか」
「私を助けてくださったのは石川様でしたが、お万様をお救いになったのは酒井様。……私たちを救った御方たちも、あの子を徳川の『真の血』を絶やさぬために、あえて私たちを別の道へ歩ませたのでしょう。けれど……」
お愛の瞳に、深い申し訳なさと、隠しきれない羨望が混じった涙が浮かぶ。
「私はこうして城内で『西郷局』として貴方様に守られておりますが、お万様は側室の座も望まず、ただ独り、兄君様の記憶だけを抱いて、城外の風に耐えてこられました。それを想うと、私は……」
五郎はお愛の手を強く握り返した。 彼女もまた、武家の娘であった過去を捨て、「お愛」としての日々を「西郷局」という仮面で隠し、五郎を支える道を選んだ。お万もお愛も、形は違えど、一つの巨大な嘘を支え、守り抜くための共犯者なのだ。
「あの子を秀吉の元へやるのは、徳川の安泰のためだけではない。……兄上の血を、あんなところで絶やさぬためだ。……お愛、お前も、お万も、よく今日まで耐えてくれた。私のような男を、主と仰いで……」
五郎は目を閉じ、遠い西の空へと想いを馳せた。
今の自分が行える唯一の「嘘ではない真実」を、旅立った息子へ贈る。
(於義丸、屈してはならぬぞ。……お前の中に流れる誇りを、その身で守り抜くのだ。
……お前の中に流れるのは私の血ではないかもしれぬ。だが、私は父として、お前をどこまでも愛している。
いつかお前が、この嘘の向こう側で笑える日が来るまで、私はこの『家康』という名の鎧を脱がぬぞ)
その独白に応えるように、お愛は五郎の腕の中に静かに身を寄せた。 窓の外では、あの別邸が血に染まった惨劇の日と同じような、冷たい冬の月が静かに光っていた。




