【第十五話:白檀の再会 —— 鷹狩りの果て】
天正の年月が流れる中、五郎はもはや「徳川家康」そのものであった。
浜松城で政務に没頭する五郎の背中を、石川数正はじっと見つめていた。
長篠以降、五郎は眠る間も惜しんで働き、敵対する者には容赦ない「怪物」として振る舞い続けている。
(……このままでは、五郎殿の魂が壊れてしまう)
数正は決意した。自分が背負わせた絶望の重荷が、主君を殺そうとしている。
彼を「家康」という器にするためには非情さが必要だった。だが、今の五郎はただの「冷たい抜け殻」になり果てている。
そんなある日のことである。
石川数正が、沈鬱な面持ちの五郎に鷹狩りを進言した。
「殿。近頃は政務が重なっておられます。たまには遠出をし、羽を伸ばされるのがよろしいかと」
数正に導かれるまま、僅かな供回りを連れて馬を走らせた五郎は、やがて見覚えのある山道に差し掛かった。
鼻をつく土の匂い、木々の隙間から差し込む光。そこは、五郎がかつて「名もなき小僧」として過ごし、薬草を摘み、本多忠真から兵法の理を叩き込まれた、あの山寺であった。
「……数正。なぜ、ここへ」
五郎の問いに、数正は答えず、ただ静かに一箇所を指し示した。
寺の裏手、老いた松の木の下に、新しくはないが手厚く祀られた一基の墓があった。
「……ここに、真の家康公が眠っておられます」
数正の言葉に、五郎は息を呑んだ。
三方ヶ原の泥濘の中で果てた兄。その遺骸は、酒井忠次と服部半蔵の手によって、敵の目を盗み、密かに戦場から引き上げられていたのだ。兄が愛した弟が育ったこの寺に、兄は静かに、しかし徳川の真の主として、誰にも知られぬまま眠っていた。
五郎は墓前に跪き、初めて「兄の弟」として涙を流した。家康の名を背負い、怪物を演じ続けてきた孤独な数年間。その重圧が、兄の魂の前でようやく解き放たれていくようであった。
だが、数正の計らいはそれだけではなかった。
「……墓守の女を呼んでおります。西郷と申す、身寄りのない未亡人にございます」
数正が呼びかけると、本堂の影から、一人の女が静かに歩み寄ってきた。
その足音が止まった瞬間、五郎の鼻腔を、懐かしい香りが掠めた。
白檀の香り。
「……五郎様。お久しゅうございます」
聞き間違うはずのない、穏やかで温かな声。
顔を上げた五郎の目に飛び込んできたのは、数正によって『始末された』はずの、お愛の姿であった。
五郎の正体を知るお愛は、徳川の秘密を守るためには「消される」運命にあった。しかし、数正は主君の心が完全に壊れることを恐れ、あえて彼女を殺さず、西郷という名を与えてこの寺へ隠したのである。五郎の過去を、そして兄の眠る場所を守る墓守として。
「お愛……。生きて、いたのか」
「数正殿が、私に新たな道を与えてくださいました。ここで、五郎様と家康公をお守りするようにと」
「お愛!」
五郎は彼女に駆け寄り、その細い肩を抱きしめた。
怪物の仮面が剥がれ落ち、二十代の青年の顔に戻った五郎が、子供のように声を上げて泣く。
「数正が、殺したと……! お前を殺したと言ったのだ!」
「……違います、五郎様。数正様は、私を逃がすために、自ら泥を被られたのです」
お愛は五郎の涙を優しく拭い、背後で平伏する数正を見つめた。
「数正様は、この数年、毎月のようにここへ文を届けてくださいました。『殿は今、地獄を歩いておられる。私を憎むことで、ようやく立っておられる。……お愛殿、どうか生きていてくれ。いつか、殿に人間としての心を取り戻していただく、その日まで』と……」
五郎は衝撃に打たれ、数正を振り返った。
数正は地面に額をこすりつけ、肩を震わせていた。
「……数正。お前、ずっと独りで……」
「……申し訳ございませぬ。……五郎殿。貴方様を、本物の家康公にするためには、私の命に代えても『嘘』を貫かねばならなんだ。……貴方様に憎まれるたび、私の心も千々に裂けました。……ですが、これでようやく……」
数正の目から、溢れんばかりの涙が畳に落ちる。
五郎は、自分を怪物に仕立て上げた仇だと思っていた男が、実は誰よりも自分を愛し、守り抜こうとしていたことを知った。
「数正。……すまなかった。お前を、あんなに恨んで……」
「いいえ。……おかえりなさいませ。五郎様」
五郎はお愛の手を握り、数正の肩に手を置いた。
三人の間に流れる、数年越しの真実。
冷酷な怪物・家康ではなく、一人の人間・五郎が戻ってきた瞬間だった。
兄の墓標と、白檀の香りに包まれた愛する人。
五郎は、自分が守るべきものの本当の意味を、この懐かしき寺で再び取り戻したのである。




