【第十四話:冷えた凱旋、遠い背中】
長篠の戦勝に沸く浜松城。
広間では家臣たちが酒を酌み交わし、武田の猛攻を凌ぎ切った喜びを爆発させていた。しかし、主君の座に座る五郎の周囲だけは、冬の夜のような静寂が漂っている。
そこへ、一人の若武者が進み出た。
嫡男・信康である。彼はこの戦で初陣に近い功を立て、父に認められることを切に願っていた。
「父上。……長篠での勝利、誠におめでとうございます。私も微力ながら、敵の首級を三つ挙げ、殿の一翼を担いました」
信康の瞳には、期待が宿っていた。
かつての父――兄・家康なら、ここで「よくやった、信康。怪我はなかったか」と破顔し、自分の手で息子の肩を叩いたはずだ。
だが、五郎は杯を口に運ぶ手も止めず、冷徹な一瞥を投げただけだった。
「……そうか。徳川の嫡男として、最低限の働きはしたようだな」
「……え?」
信康の顔から、血の気が引く。
五郎の声には、称賛も、ましてや親としての慈しみも一滴も混じっていなかった。あるのは、兵器の性能を確認するような、無機質な評価だけだ。
「戦とは、首を競う場ではない。効率よく敵を削り、徳川という器を守るための作業だ。信康、お前の戦いぶりは、いささか功を焦り、無駄な動きが多かったと報告を受けている」
「父上……。私は、徳川の名を汚さぬよう、必死に……」
「必死になど、誰でもやっている。……下がれ。これからは私を父と呼ぶな。戦場では『殿』、あるいは『上様』と呼べ。……公私の区別がつかぬ者に、この国は任せられぬ」
信康は唇を震わせ、畳に拳を押し当てた。
その横で見ていた酒井忠次や他の重臣たちさえも、今の「家康」のあまりの冷淡さに、かける言葉を失っている。
「……失礼、いたしました。……殿」
信康は絞り出すような声でそう言うと、逃げるように広間を去っていった。
その背中を、五郎は見送ることもせず、ただ次の書状へと目を向けた。
「……五郎殿。少々、厳しすぎたのではございませぬか」
家臣たちが下がり、一人になった奥の間で、石川数正が静かに声をかけた。
「……厳しすぎる? 数正、お前が私をこう変えたのではないか」
五郎は、懐から血の滲んだ『元康』の紙と、お愛の形見である匂い袋を取り出した。
独りになった時だけ、怪物の仮面がわずかに剥がれ、絶望に震える「五郎」の顔が覗く。
「……信康に、私のような甘さを持たせてはならぬ。兄上のように、優しすぎて死ぬような男にしてはならぬのだ。……私を憎ませて、孤独に慣れさせる。それが、偽物の父である私にできる、唯一の教えだ」
「……。ですが、信康殿の心は、すでに限界にございますぞ。岡崎の築山様も、毎日のように殿への呪詛を吐いていると聞き及んでおります」
「……構わぬ。怨まれるのは、慣れている」
五郎はお愛の匂い袋を、鼻に押し当てた。
もう香りはほとんど消えかかっている。だが、その微かな残香だけが、彼が「人間」であることを繋ぎ止めていた。
懐に隠した、血に汚れた『元康』の紙。それが五郎の肌に触れるたび、焼けるような痛みが走る。
石川数正は、その存在に気づいていた。本来、秘密保持を最優先する数正ならば、真っ先に燃やし捨てさせるべき最たる証拠品である。だが、数正は一度としてそれを捨てろとは言わなかった。
(これを奪えば、この男は『怪物』にすらなれず、ただの抜け殻になる)
数正は、五郎の内に残るわずかな「人間」の破片を、その紙一枚に託していた。それは冷徹な策士である数正が、主君の影となった男に許した、唯一かつ致命的な「甘え」であった。
一方、城の廊下を突き進む信康の前に、戦勝祝いに登城していた妻の五徳(信長の娘)が立ち塞がった。
「……情けない顔ね、殿。父上に褒めてもらえなかったの?」
「五徳、どいてくれ。今は独りになりたい」
「ふん。あんな冷たい男、私の父上(信長)も気味悪がっておられたわよ。『家康は三方原で魂を売ったのだ』って。……ねえ、本当は貴方も気づいているのでしょう? あの人は、もう私たちの知っているお義父様じゃないわ」
五徳の刺すような言葉が、信康の傷口を広げる。
父への不信、母への憐憫、そして妻からの軽蔑。
少年の純粋な魂は、その夜、決定的に闇へと傾いていった。
「……。母上の、言う通りだ。あの人は、怪物だ」




