【第十三話:設楽ヶ原の怪物 —— 灰の眼、血の雨】
天正三年(一五七五年)、五月。三河国、設楽ヶ原。
織田・徳川連合軍と、武田勝頼率いる最強の騎馬軍団が、歴史を分かつ一戦を前に対峙していた。
徳川陣営の最前線。そこに、黄金色の具足を纏った「徳川家康」が立っていた。
かつてその具足を纏っていた男――臆病で優しかった兄は、三方ヶ原の泥の中で果てた。今、その中に入っているのは、最愛の女性を自らの「嘘」のために奪われ、心を殺した弟、五郎であった。
「……殿。武田の先鋒、山県昌景の赤備えが動きました」
背後に控える石川数正の声が、死神の報告のように響く。五郎は眉一つ動かさず、ただ眼前の戦場を見つめていた。その瞳は、すべてを焼き尽くした後の灰のように冷たく、底知れない暗闇を湛えている。
一方、織田信長は、本陣から徳川陣営の様子を眺め、言いようのない違和感に眉をひそめていた。
信長が知る家康は、臆病だが誠実で、どこか自信なげに愛想笑いを浮かべる「弟分」であった。だが、目の前に座る男はどうだ。
「……徳川殿。随分と面構えが変わったな。三方ヶ原で信玄に追い回されたのが、そんなに堪えたか?」
信長がいつものように傲慢な笑みで挑発する。だが、五郎は眉一つ動かさなかった。冷徹な瞳で信長を真っ直ぐに見据え、低く、重みのある声で言い放つ。
「信長殿。昔語りは無用。……私は、武田を根絶やしにするためにここへ来た。そのためなら、この設楽ヶ原を敵味方の血で海に変えても構わぬ」
信長はその気迫に、思わず言葉を飲み込んだ。
(……こいつは、誰なんだ? 瞳の奥に、人の温かみが微塵もない。まるで、一度死んで地獄から戻ってきた鬼ではないか)
「ほう……。ならば聞こう。我が三千の鉄砲隊、どう使うつもりだ?」
「待つ必要などない。……柵の向こうへ誘い込み、骨の髄まで撃ち抜く。逃げる者は背後から刺せ。慈悲など、この戦場には一滴も残してはならぬ」
五郎の言葉には、お愛を失い、自分の人生を捨てた男の「虚無」が宿っていた。兄が守りたかった徳川という国を、ただ維持するためだけに、彼は感情を捨て去った。その冷徹さは、信長をして戦慄させるに十分だった。
戦が始まった。
武田最強の赤備えが、怒濤の勢いで連合軍の鉄砲柵へと突っ込んでくる。それは、三方ヶ原で徳川軍を壊滅させた、あの恐怖の再現であった。
「……殿! 敵の先鋒、柵まであと五十間! ……お命令を!」
家臣が叫ぶ。かつての兄・家康なら、ここで恐怖に震え、家臣の命を惜しんで撤退を考えたかもしれない。だが、今の五郎は違う。感情を捨て去った「怪物」にとって、戦はただの「効率的な殲滅作業」に過ぎない。
五郎はゆっくりと、死神の鎌を振るうかのように、采配を掲げた。
「……放て」
その声は驚くほど低く、冷たかった。
次の瞬間、轟音が響き渡り、設楽ヶ原の空を硝煙が覆いつくした。三千挺の鉄砲が一斉に火を噴き、武田の騎馬隊を、骨の髄までなぎ倒していく。
惨状であった。最強と謳われた赤備えが、声も上げられず、鉄の雨に撃ち抜かれて次々と地に伏していく。その光景に、織田の将たちが息を呑み、恐怖すら感じる中、五郎だけは表情一つ変えずに立ち尽くしていた。
「……殿。味方の柵も、敵の死体で潰されかけております」
「構わぬ。死体を盾にしろ。……慈悲など、この戦場には一滴も残してはならぬ」
山県昌景が討ち取られたという報が入った時、五郎はふっと、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「……山県殿。あの夜の酒の礼だ。地獄で、私の兄に詫びるがいい。そして、私のお愛の匂いを嗅ぐがいい。……お前たちの死が、徳川の『嘘』を、また一つ強固にした」
その瞳には、勝利の喜びなど微塵もなく、ただ冷たい復讐の炎が、静かに燃え続けていた。その横顔を見た信長は、初めて「徳川家康」という男に恐怖を覚えた。
(こいつを生かしておけば、いずれ織田を食う……。いや、それ以上に、この男の『闇』が恐ろしい)
信長は、自分以上の「魔王」が隣に立っているような錯覚に陥っていた。
戦後。
勝利に沸く連合軍。だが、徳川の陣中だけは、凍りついたような静寂が支配していた。
五郎は、返り血を拭うことさえせず、ただ一人で兄の遺した『元康』の紙を眺めていた。
そこへ、石川数正が静かに近づく。
「……殿。信長公がお呼びです。あまりの変貌ぶりに、疑念を抱かれたご様子」
「……構わぬ。数正、お前が言ったのだ。私は、絶望を糧にする怪物になれと」
五郎は数正を、お愛を奪った仇として、そして共犯者として、憎しみを込めて睨みつけた。
「信長が疑うなら、疑わせておけ。私が本物か偽物かなど、もはやどうでもいい。……ただ、徳川を脅かす者は、誰であろうと私が排除する。たとえそれが、岡崎にいる私の家族であってもだ」
数正は、その言葉に潜む「殺意」の鋭さに、背筋が凍った。影武者として担ぎ上げた五郎は、数正の想像を遥かに超える、孤独な『覇者』へと変貌を遂げていた。
独りになった時、五郎は血の匂いにまみれた手で、お愛の匂い袋を嗅いだ。
その指先が、わずかに震えた。
「五郎」としての残滓が、まだ、怪物の心の奥底で、かすかに脈打っていた。




