10 怠惰
倉庫内。
雨音が、鉄板に叩きつけられる。
滴る水。
錆の匂い。
血の匂い。
——倒れている。
対象。
元・適合者。
男。
二十代後半。
右腕が異形化。
骨と肉が歪み、黒く脈打っている。
まだ、生きている。
「……う、あ……」
かすれた声。
目だけが、こちらを見ていた。
恐怖。
懇願。
……人間の目。
氷室が、俺の横に来る。
コツン。
何かを胸に押し当てられた。
拳銃だった。
冷たい金属。
「はい」
氷室は、微笑む。
「村野くん」
「仕上げ、お願いします」
……え?
「え……」
声が、出ない。
「急所は、ここ」
額に指を当てる。
「一発で終わりますよ」
対象が、俺を見る。
「……たす……け……」
喉が、締まる。
『……いや……だめ……』
マモリガミが泣きそうになる。
手が、震え始めた。
「撃てませんか?」
氷室は首を傾げる。
「彼はもう、人じゃないんですよ?」
違う。
……違う。
まだ、喋ってる。
まだ、見てる。
まだ、生きてる。
「……無理です……」
絞り出す。
「俺には……」
「できません……」
沈黙。
次の瞬間——
久我が、一歩前に出た。
「……失格だな」
低い声。
感情ゼロ。
「命令違反」
「処理不能」
腰の端末を操作する。
ピッ。
俺のスーツが、微かに振動した。
「第10課所属・村野智也」
「処分対象候補に指定」
——頭が、真っ白になる。
「え……?」
「戦場で躊躇する者は」
「いずれ、暴走する」
久我の目が、俺を貫く。
「危険因子だ」
氷室は、くすっと笑う。
「妥当ですね」
「やっぱり、甘い」
——終わった。
そう、思った瞬間。
「はいはい、そこまで~」
軽い声。
場違いなくらい、明るい。
後方から。
東雲だった。
傘も差さず、
いつもの気の抜けた顔。
「いやぁ、怖いねぇ」
「第四課って」
氷室が振り向く。
「……東雲さん?」
東雲は肩をすくめる。
「侵食率、見た?」
端末を指で叩く。
俺のモニター表示。
《侵食率:42.3%》
規定値——60%未満。
「まだ、全然セーフでしょ」
「なのにさ」
にこっと笑う。
「新人君をいじめないでくれるかなぁ」
空気が、張り詰める。
久我が言う。
「感情に流された事実は——」
「うんうん、わかる」
東雲は遮る。
「でもさ」
対象を見る。
まだ、息をしている男を見る。
「今ここで殺せって言われて」
「即、引き金引ける新人の方が」
少しだけ、声が低くなる。
「俺は怖いけどね」
氷室が目を細める。
「……情を肯定すると?」
「否定しないよ」
「制御できるなら、ね」
東雲は、俺を見る。
「村野くん」
「はい……」
「今、怖かった?」
「……はい」
「逃げたかった?」
「……はい」
「でも、逃げなかったね」
ぽん、と肩を叩く。
「十分だよ、今は」
沈黙。
久我が、数秒考え——
端末を閉じた。
「……保留とする」
処分対象表示が、消える。
足から、力が抜けた。
氷室は、少しだけつまらなさそうに笑う。
「……残念」
「もう少しで、壊れそうだったのに」
怖い。
本気で言ってる。
東雲が手を叩く。
「はい、じゃあ仕切り直し」
「対象は回収ルートで」
「久我くん、拘束お願い」
久我は無言で頷く。
対象に抑制具を装着する。
「……あ……ありがとう……」
男が、かすかに言った。
胸が、痛む。
車へ戻る途中。
東雲が、俺の横を歩く。
「ね」
「はい?」
「今日さ」
少しだけ真面目な声。
「君、ちゃんと“人間”でいられたよ」
雨の中で、微笑った。
「それ、簡単そうで」
「一番、難しいんだ」
俺は、何も言えなかった。
ただ、
拳を握りしめて、前を見た。
——雨の中、静かに涙が流れた




