焦り
岩室 亜結は、2-Cの教室の後ろのドアから、意を決して隣の教室に向かった。
満園 一樹と、弓達 吹雪に会うためだ。
亜結の記憶は、ほぼ覚醒状態にある。
あくまで勘だが、一樹と吹雪の記憶もおそらくは完全に戻っている。
また、こちらも何故かはわからないけれど、なにか、この先とんでもないことが起きるような気がして仕方ないのだ。
1999の年──という昔あったノストラダムスの大予言のような事かもしれない。
そう、結局はなにもないかもしれない。
けれども、亜結は今、動かなければならないと己の心に突き動かされていた。
二人のクラスは2-D、後ろのドアをくぐればすぐだ。
亜結は、そっと、前のドアから覗き見をした。
すると──
後方の窓際の席で黒髪の少年が机の上に座り、周囲の男子生徒と大きな声で談笑している。
「あ、いた。あの!すみません!」
亜結はあまり物事を深く考える質ではない。
どちらかというと脊髄反射的な勢いがある。
亜結の声は予想以上に大きかった。
2-Dの誰もが振り向くと、亜結に視線が集まった。
「満園くんと弓達くんにちょっと、お話があるんですけど、いいですか?」
どっと歓声と囃し立てるような声がし、指笛が鳴った。
「お!イケメン二人って流石に贅沢じゃん?」
「茶化すなよ」と笑いながら、一樹、そしてそれに遅れるように吹雪が来た。
「二人に、話したいことがあって、こっち来てください」
その時、植村 燈乃が隣のクラスの騒ぎに気がついて見に来た。
亜結が一樹と吹雪を呼び出して、会話を始めたところだった。
「え。亜結?なにやってんの?」
「だって、今のままじゃ本当にやばいの。この二人がいないと、負けるのよ」と亜結は言う。
その目は真剣だった。
「燈乃、あんたもサナなんだから、無関係じゃないんだからね!」
訝しい顔を燈乃はするが、亜結の剣幕に一旦黙る。
四人は、人気の少ない新校舎に移動した。
*
「それで?話ってなに?」
一樹が尋ねる。その顔は面白がっているようだった。
「満園くん。弓達くん。いや、イェレとオスク。二人は今の状況わかってる?」
「今の状況って?」吹雪が受け取る。
燈乃は、首を傾げた。自分のことがサナだとわかったものの、夢はそれほど進んでいないからだ。
亜結が、つい行動してしまうほど、懸念することがいまいちわからない。
「セイリュウのこと。皆はどう思っているのか、教えて。このままじゃ、私達、っていうか地球が滅んじゃうかもしれない。それが嫌なの。だから、二人に来てもらった。ねぇ、どうするの?私はどうしたらいい?」
亜結の顔はどことなく青い。
「なぁ。俺達が目覚めているって、どうしてわかった?」一樹が、首を傾げながら問うた。
「そんなの、絆があるもの。自然とわかるわよ。それより、ほんとにどうするの」
「シルカ。落ち着いて」
吹雪が、亜結を前世の時の名前で呼んだ。亜結は肩を震わせた。
「私、名乗ってない。でも、やっぱり、わかるんだ」
吹雪は、亜結を落ち着かせるようなトーンで続ける。
「ああ、僕はわかってた。前からね。でも、サナはまだ、この状況さっぱりわからないでしょう」
サナと呼ばれた燈乃はただただうなずいた。
「亜結が怖がっているのはなんとなくわかるけど、それがなんでなのかは全然わかんない。ごめんね、亜結」
「シルカ。一旦落ち着いて。サナが今、この状況なら、セイリュウは、まだ目覚めてないか、目覚めていても動けないくらいの状況じゃないかな。僕もそこには注視している。まだ、安心していていいよ」
それまで、黙っていた一樹が口を開いた。
「……ううん。話はわかる。残念ながらな。でも、俺らに、今の俺らには全然関係なくないか。今は、俺ら、新しい人生送ってるんだから。過去にとらわれる必要はないと思うんだ」
「イェレ……どうして?イェレの力がないと、私達戦えないのに」
「俺の力なんか!当てにするなよ!お前はいつもそうだよな!シルカ!」
一樹が突然激高した。
自分でも驚いたのか、気まずい顔をして、踵を返しそのまま教室に戻ってしまった。
「シルカ……今のは、君が悪いよ。前にも、イェレに怒られてた。そのままの言い草だったよ」
「私、またやっちゃったんだ。そのたびに今みたいにオスクに治せって言われちゃうの。ほんと、昔みたいね」
亜結は肩をすくめた。
「今度会ったら、イェレに謝ります」
「うん。そうした方が良い。大丈夫。今の一樹も本当にいいやつだから」
吹雪はニッコリと笑った。
燈乃は、その笑顔を見たことがある──と心の奥底で感じていた。
*
ヴァルッテリが植村家で、暮らすようになってからはや五年が過ぎた。
その時のヴァルッテリ・サールトは、北海道を巡っている徒歩の旅人だった。
日本語はまだ拙かったが、ボディランゲージでなんとかやり過ごしてきたのだ。
新千歳空港から札幌を経由し、稚内を目指し、オホーツク紋別に降り、知床を通り、襟裳岬に立ち寄って、熱で倒れた。
そこに偶然通りかかったのが、燈乃と仰の祖父、植村 展久だ。
展久は、近くの医院に連れて行こうと思ったが、時間外のため休診になっていた。
誰とも知らない外国人のヴァルッテリを、励ましながら、一時間と少し離れた救急病院に連れて行った展久。
点滴をし、少し回復傾向のヴァルッテリを当時は一人暮らしの自宅へ連れて行った。
そして、「熱が下がるまで、ここでしばらく休むといい」とヴァルッテリに言ったのだった。
ヴァルッテリは、泣きながら展久にたどたどしい日本語で礼を言った。
──数日後、すっかり熱が下がったヴァルッテリは、展久に辞去の挨拶をした。
それでも、その時、どことなく、またこの家に戻ってくるという、変な予感はあったのだ。
その予感は、展久とヴァルッテリ双方にあったのだという。
けれども、そんなはずはないと二人ともその予感を自分の考えから排除した。
ヴァルッテリは、徒歩の旅を再開した。
数時間後、とあるコンビニエンスストアに立ち寄ったところ、財布を展久宅に忘れてきたことに気が付いた。
だが、電話番号も住所もわからない。
立ち尽くしているところに、軽トラックに乗った展久がやってきた。
ほんの数日とはいえ、見知った顔が自分を探してくれたことが、ヴァルッテリは本当に嬉しかった。
実は、ヴァルッテリには事情があった。
実際は、ただの徒歩旅を楽しんでいるわけではなかったのだ。
──とある事件が起き、国を追われたのだ。
日本のような異文化の国であれば、その片隅で、外国人が命を落としても、なんのニュースにもならないだろうと思ったのだ。
展久の見ず知らずの自分に対しての、ここまでの心を尽くしてくれる様子を見て、出来たら、死に場所じゃなくて、生きるための場所にしたいとヴァルッテリは感じた。
「Sir, would you please allow me to stay at your home once more?」
──あなたの家にもう一度一緒に帰りたい。
ヴァルッテリの声は震えていたが、その瞳はまっすぐだった。
展久は、言葉がわからないまでも、その気持はなんとなく伝わったので、有無を言わさず頷いた。
ヴァルッテリは展久の家に入ると、よく働き、そして、より深く日本語を学んだ。
生活費は、母国の貯金をいくらか崩していたので、それを充てたのだった。
*
Zaphrax社の上層部は、行方をくらませた天才生化学者ヴァルッテリ・サールトを全世界的に探していた。
今、まさに進めようとしているプロジェクトに必要だったからだ。
そのプロジェクトは、ヴァルッテリが国を追われる事になったプロジェクトの派生であった。
それは、不治の病の治療研究が元になった研究だった。
だが、ヴァルッテリの手を次第に離れ、研究は次第に独り歩きし、気づいたときには徐々に研究の目的が「優生学的な選別」へとすり替えられていった。
人類の“進化”と称し、遺伝的疾患を持つ胎児の選別、架空の「理想的遺伝子」を持つ者だけを残すような技術開発へと、研究は無言のままシフトしていった。
自身の研究が兵器や毒素に転用されていたのだ。
それを、なんとか止めようともしたのだったが、走り出し、大手生化学企業がスポンサーになっていて、ヴァルッテリ一人の意見だけでは、止まらない事態になっていた。
ヴァルッテリはその情報をリークし、国外へとそのまま飛んだ。
だが、どこへ行っても追手はやってきた。
どこにも逃げ場がないことに、やがてヴァルッテリは絶望した。
そして、日本ならと来たのだった。
そして、現在、ヴァルッテリの名前で始められていた研究を紐解いたのが、Zaphrax社だ。
この研究を転用させれば、Zaphrax社の現プロジェクトが格段と進められる。
Zaphrax社は、あの研究データの断片から、独自に“人工適応細胞”の生成実験を始めていた。
だが、どうしても「ヴァルッテリのキー配列」が解けなかった。
それを転用するには、稀代の天才科学者ヴァルッテリ・サールトの力が必要だった。
だからこそ、Zaphrax社は──探しているのだ。
あの研究を継ぐ者として、彼以外を認めていなかった。
だが、ヴァルッテリには、戻る気はまったくなかった。
このまま、北海道・日高の片隅で過ごしていようと、そう強く思っていた。
この町はいい。
ヴァルッテリの生家も、北の海沿いにあった。潮風が吹き、霧笛が響き、冬になると街全体が凍てついていた。
この町も似ている。
そして、何よりもいいのは──
誰も彼を「データ」として見ない。
誰も、「天才」とは呼ばない。
誰も、「ヴァルッテリ・サールト」として期待しない。
ただ、潮騒が聴こえてくる。
それだけで、生きていてもいいと思えた。
展久の家のドアを開けると、かつての生家のような懐かしさがあった。
まるで、祖父母や両親が迎えてくれるような気がする。
……いや、今はもう、展久と、燈乃と、仰が笑って「おかえり」と言ってくれる。それだけで、もう十分だった。
だからこそ、彼は──自分がかつて、どんな研究をしていたかを知られたくなかった。
名声などもういらない。
過去に何を称えられ、何を否定されたとしても──
彼はただ、この小さな町で、静かに、誰かと笑って生きていたかったのだ。




