拒絶か受容か
あの夢を見てから、休みがちだった部活に海老塚 香那美は正式に休部届を出した。
それなりに打ち込んでいた。
弓道部、弓を引き絞る瞬間、あの張り詰めた空気、所作。
どれも肌にしっくりときていたし、大切な時間だった。
でも──あの夢を見てから。
自分のことがヴァルマと呼ばれる、あの夢を見てから。
心がついていかなくなった。
前世で、弓の名手だったから弓が好きだったのか、
元々、自分の香那美自身の選択として好きになったのか。
全くわからなくなってしまった。
チームメイトは、休部届を出した今でも、誘いに来てくれる。
香那美の実力なら、成績上位を狙えるからと。
しかし、香那美自身の心が、本当の心がどこにあるのかわからなくなってしまったのだ。
こんな精神では、射位に立っても集中なんか出来ない。
私には、もう、弓はだめなのかな。
香那美は、誰もいない放課後の教室で、弓道場の方を窓から見ながら、ぼろぼろと泣いた。
教室の窓に海風が当たって音を立てる。
「あ。海老塚。大丈夫か?」
そんな時、声がした。
香那美は、慌てて涙をぐいと手の甲でぬぐった。
そして、ゆっくりと振り返った。
「なんで、あんたが居るの。弓達。クラス違うわよ」
2-D 弓達 吹雪だ。
同じ弓道部である。吹雪は、弓道部のエースだ。
インターハイ出場経験もある。
「ちょっと、講習受けてて遅くなったんだ。海老塚さ、弓道、もう、辞めるのか?もうすぐ、大会もあるのに」
「やめたくない。今のままじゃやめられない。でも、今の気持ちでいたら、怪我もするし。皆に迷惑かけちゃうもの」
「そっか」
「私ね。変な夢、見るんだ。夢の中でね。弓がすごくうまい女の人なの。でもね。その人だったから、弓がすきだったのか、私が、そのままの私だったから、弓がすきなのか。全然わかんなくなっちゃったの」
「そうなのか」吹雪は思案顔になる。
香那美は、その顔を見ずに話を続けた。
「どっちも、自分だってわかるの。でもね。それを認めたら、今の自分ってどこに行っちゃうのか、わからなくて。すごく怖くて」
「僕もなにか変なこと、言ってもいいかな」
「うん?……いいけど」
「海老塚は、その前の人生みたいなのを思って、混乱しちゃってるだけだと思うんだ。僕もそういうことあったから。でも、僕はその後も、僕自身で変わらなかった。それから、そのあと、もっと今の人生が大切になった。これは、僕自身のこと。でも、海老塚は海老塚自身のペースで考えたらいいと思う。だれも、強制なんか出来ないししないから」
吹雪は、それだけを言うとじゃあねと自身は部活に向かった。
香那美は窓を開けた。
潮風に混じって少し冷たい春の風が、香那美の髪を揺らした。
*
古久保 秀亮は、トレーニングウェアの袖で、走り込みの汗を拭った。
マネージャーに袖じゃなくてタオルを使えと言われるが、面倒だった。
柔道は小学校から始めた。近くの生活館で柔道教室があったからだ。
保育園の年少さんまでは秀亮もあまり体の強い子供ではなかった。
保育園はよく散歩に歩かせるところだった。
通っているうちに、熱もあんまり出さなくなり、風邪も引かなくなった。
それからは検診の度に健康優良児という印が押されている。
その経験が親にとっては体をより強くしてほしいという願いになったのだろう。
小学校一年生の頃から、白帯をつけて畳の上に立った。
秀亮は順調に強くなった。体格も順当に大きくなっていく。
そうして、小学校卒業の頃には茶帯をつけていた。
中学も高校も選んだのは柔道部だった。
今、あの夢を見て、秀亮は自分の選択が間違っていないと思った。
自分の力、技、心が強ければ、背中にいる仲間たちを守れるからだ。
夢の中で秀亮自身は、前線に立つタンクだ。
強くなればなるほど、仲間を守れる。
秀亮は一層基礎体力づくりのトレーニングに打ち込んだ。
道場に戻ると、女子生徒たちがまだ騒いでいた。
ギャラリーは皆、剣道部のアイツを見ている。
満園 一樹だ。
男から見ても、あのビジュアルはずるいと思う。
切れ長の目も涼しげで黒髪の短髪がよく似合っている。
そして、剣道のことは、あまりわからないが傍から見ていても群を抜いて強いのだろう。
だが、周りで見ている女子生徒たちよ。君たちは勘違いしている。
あいつがかっこいいのは外見じゃない。
中身なんだ。
同じ道場を剣道部と柔道部は半分にして使っている。
そうすると、同じ由縁という意識が勝手に生まれる。
一樹は自分たちの清掃が早く終わると、柔道部までやってきては、掃除を手伝ったり、主将を捕まえておかしな話ばかりしている。
憎めないやつだ。
まだ。友達ではないが、いいやつだと思っていた。──夢を見てから、その一樹がイェレだとわかった。
だが、楠浦 滉、……マウヌには話しかけられても、一樹に話しかけるのは少しハードルが高かった。
おそらくは──決定事項かもしれないが──
夢の中のイェレと同じくらいの熱量で言葉をかわしてくれるとは思ってはいても、
それが難しかった。
何しろ、相手はイケメンだ。かたや自分は汗にまみれた不細工だ。
自分は、特に見た目が悪いだろうと思う。
秀亮はそんなふうに引け目を感じていた。
けれども、本人の名誉を守るためだが、決して不細工ではない。
確かに一重まぶたでほんの少し団子鼻だが。
精神性は顔に出る。精悍な顔立ちをしているのだ。
そして、心根通り優しい顔立ちもしていた。
秀亮は用意されている更衣室で柔道着に着替えると、畳に戻って精神を集中させた。
*
サナはまた、大神官に呼ばれていた。
今回は早めに訪れたが、それでもやはり遅かったようだ。
本来であれば聖女たるもの、常に神殿に居て民の話を聞き、エルガ=ノアス神に祈りを捧げるのが筋である。
だが、サナはこの地域、ルアヴェリシアの守り手、ヴェルデ・ガルダの一員だった。
この世界の誰もが戦えるわけではない。やはり選ばれた一握りの者だけなのだ。
もともと、サナは剣の使い手として、ヴェルデ・ガルダの一員になった。
ある事件がきっかけで、精神の奥に眠っていた聖女性が目覚めたのだ。
それは、目覚めたすぐにしては凄まじい力だった。
帰還した折、大神官によって聖女と認定されたのだ。
そして、大騒動が起きた。
通常、先述したが、聖女は神殿に居るのが常だ。
だが、サナはそれを決して選ばなかった。
今までと同じようにヴェルデ・ガルダの宿舎で暮らすというのだ。
そんなことは認められないと神殿の誰もが、ルアヴェリシアの民がそう言うのだった。
けれどもサナは、どうなだめすかしても首を縦に振らなかった。
当代の聖女はそれまでの二十年ほどの間いなかった。
そうなると神殿の神聖力が、少なくなる。
昨今、集落の神聖力が落ちてきたことが問題になったところに、サナの聖女としての覚醒だ。
そしてその力は、歴代の聖女以上の力を示していた。
そのサナが、もし、ヴェルデ・ガルダをやめさせ、そして、その宿舎から追い出すというのであれば、聖女にはならないという。
神聖力が尽きかけているルアヴェリシアにとって、聖女の台頭が一番だ。
押し問答が数週間続いたが、最後には神殿が折れた。
だが、それには条件が当然ついた。
週二回でいいから、神殿で過ごす時間を作ってくれというものだ。
実はヴェルデ・ガルダ自体の力も神聖力を使っていつも以上の力を出しているのだ。
その神聖力が無くなってしまうというのであれば、仲間を失うこととイコールになってしまう。
サナは泣く泣く条件を飲んだ。
サナが、神殿に入り、そして祈る──ルアヴェリシアの神聖力は、みるみる回復し満ち満ちていった。
近年これほどまでに、神聖力が回復したことはなかったのである。
けれども、サナは当初の約束より、ヴェルデ・ガルダでいることを選んでいた。
何があろうとも、週二回のお勤めから神殿を抜け出し、ヴェルデ・ガルダの宿舎に戻った。
そこを、大神官はいつも乞うのだ。聖女は神殿に居るべきだと。
サナは、そのお小言も嫌すぎて逃げる。
まさに悪循環だ。
「だってね。私は、皆と森にいるのが好きなのに、それがだめだって叱られるの。耐えられると思う?」
それを聞いたヴェルデ・ガルダの面々は一様に首を横に振る。
ヴェルデ・ガルダにとって、サナは大事な戦力でもあった。
サナの剣は誰よりも機敏で重い。ソードマスターであるイェレをも時には凌駕するほどだ。
そこへきて、神聖力のバカ高い聖女なのだ。
治癒の力も半端じゃなかった。
ヴェルデ・ガルダとしては、居なくてはいけない人材だ。
相思相愛というやつだ。
そして──
戦いにも相当の神聖力が必要だった。戦いには、欠かせない存在だが、同時に祈りにも必要な存在であった。
ヴェルデ・ガルダのリーダー・アウノは、
「サナ自身がどうしたらいいか、本当はわかっているから、俺はサナを信じる」と言ってくれた。
サナの心はそれだけで救われたのだ。
かくして、今のように週二回神殿で祈るという変則的な聖女が出来上がったのである。
戦いの最中であれば、神殿にサナだけを戻すというのは難しいので、平時という扱いにはなる。
だが、その変則的な祈り方でも、良かったのだ。
ルアヴェリシアの民は、これで太平な世界が続くと誰もが安堵していた。
*
サナが聖女の力を発現させた時、真逆の力を発現させた者がいた。
兄のセイリュウだ。
だが、それはすぐに溢れ出ることはなかった。セイリュウの中でゆっくりと己を育んでいったのだ。
セイリュウ自身も違和感こそあれ、それが何だかはわからなかった。
ただ、ゆっくりと──
自身の好きなものが今までと変わっていくのに、戸惑いと──また、快感を感じていた。
温厚で優しかったセイリュウはゆっくりと──冷酷で残忍な性格に変わっていく。
人を傷つけ、嘲り、罵った。
そして、ルアヴェリシアを追われた。その事も癇に障った。
だから、ルアヴェリシアを、それを取り巻く世界を滅ぼそうと思った。
その時には、もう、サナやクリスティアンの知るセイリュウではなかった。
人の皮を被った獣であったのだ。




