嘘と闇と
Zaphrex本社──
ボストン中心部の金融街寄りに、ガラス張りの高層ビルが陽光を跳ね返してそびえていた。
この時期は雨の多い地域だが、その日は珍しく暖かな陽光が降り注いでいる。
周囲には歴史的建造物と近代ビルが混在し、街の喧騒を映すように反射している。
入口では警備員たちが侵入者を常にチェックし、ロビーには吹き抜けのガラス天井、大理石の床、モダンアートと企業ロゴが光を受けて煌めいていた。
四方津 健児は、呼び出しを受けてこの場にいる自分を呪った。
今頃、不倫相手と楽しくゴルフをしているだろうに──クソ、忌々しい。
ここまで来て、ダグラス・ランドン・コニックCOOからネチネチと叱責されるのだ。
たまったものではない。四方津は、頭を振った。
生方 広充は現場の人間だ。
同期ではあったが、自分とは道が違う。
確かに一流大学出ではないが、そんな奴の学歴の低さなど覚えているだけで無駄な話だ。
ため息を大きく吐き、エレベーターの中で肩を落とす四方津。
周囲から見れば、叱責を恐れてのため息にしか見えないだろう。
しかし、その吐息は──生方のことを思い出してしまった自分自身への、やり場のない苛立ちだった。
*
四方津は、重い足取りでCOOオフィスの前に立った。
厚い扉の向こうから、ダグラス・ランドン・コニックの低く鋭い声が漏れてくる。
「四方津、入れ」
息を整え、ノックもせずに扉を開けた。広く、モダンなオフィスには巨大なガラス窓からボストンの街並みが見渡せる。
窓際の机の向こうに、COOは書類の山を前に、腕組みして座っていた。
机の上には、コンピュータと電話、そして傍らに冷たく光る水差しとグラス。
「君、現場じゃないとはいえ、どうして生方以上の成果を出せないのかね?」
声に含まれる鋭さが、四方津の背筋を冷たく走った。
「このままじゃ、CEO肝煎りの生方に負けるぞ」と、言葉は続く。
四方津は、言い訳を考えようと口を開いたが、COOの目はそれを許さなかった。
自分の過去の努力も、学歴も、法規専門で現場に手は出せないことも、すべて否定されるような視線だった。
「……申し訳ありません」と、四方津は絞り出すように答えた。
声は小さく、しかし確かな苛立ちを内包していた。
心の中で、生方を思い浮かべずにはいられない。
あの男は現場で成果を上げるだけで、何もかもが簡単に見えるのだ。
COOはため息をつき、手元の書類に目を落とした。
「君に必要なのは、もっと現場感覚を持つことだ。理論だけでは、ここでは通用しない」
四方津は拳を机の下で握りしめた。現場に出られない自分と、何もかも現場で勝ち続ける生方への憤り。
どうすることもできず、ただ目の前のCOOに叱責され続けるしかない状況に、胸が詰まった。
会話が続く中、四方津の目は徐々に潤んでいった。
自分が無力であること、そして、このままでは生方に勝てないという現実──すべてが重くのしかかる。
COOのオフィスを出る前、その冷たい視線を背に、四方津は決意とも自暴自棄ともつかぬ思いを抱き、街の喧騒へと足を向けた。
行き先は、宿泊先のホテルのバー。ここでなら、少しだけ現実から逃れられる──そう思っていた。
*
よくもまあ、これほど嘘と欲にまみれた人間がいるものだ。
この世界の創造主を思い浮かべて、やれやれとセイリュウは同情した。
自分であれば、この世界など、いっそのこと一飲みにしてしまうのに。
お優しいことだなぁ。
バーの仄かなろうそくのゆらめきにラリックのレッドクリスタルのタンブラーに入ったダークラムが揺らいだ。
セイリュウはすでに、自身の姿をどのようにも変えられるだけの魔力を回復させていた。
その出で立ちは深いネイビーのスーツ、白いシャツに銀のカフリンクスが光った。
所作は、上流階級のものとしか見えなかったろう。
背筋を伸ばして座る様は、いかにも洗練されている。
背景に低くジャズやクラシックのBGMが流れており、グラスの音が響く。
四方津は、エレベーターが開くと、足を進めたが少しよろけた。
なんとか気を持ち直して、バーに入ってきた。
カウンターに着くと、忌々しげにバーテンダーにウィスキーストレートを頼む。
バーテンダーはお首にも出さないで、注文を受けると、静かに四方津の前にカットグラスのロックグラスを差し出した。
グラスが琥珀色の液体を透明に輝かせるが、その芳香を味わうこと無く、四方津は食道に流し込んだ。
「アイツが、あのプラントでの失敗さえしなければ、ここで、こうして飲むこともなかったのに」
ついつい出るのは恨み節である。
そのバーの片隅にいたセイリュウは、四方津の芳香が気に入ったようだった。
すなわち嘘の匂いである。
人というのは、行動する時少しばかり嘘を付く。
光のものは、違うだろう。だが、闇のものはどうだ。
その行動は、全て己の思いや心、そういう正しいものだけだろうか。
否。
全て、正しいわけではないだろう。
それは、本当の自分の心に嘘を付く行為だ。
それは、突き詰めれば、周囲にも拡がっていく嘘だ。
その嘘は、悪の一歩だ。
そこから、悪が始まるのだ。
闇は、その嘘から、深まっていくのだ。
そして、セイリュウがいる、このバーに。
四方津は、心が、黒く沈んでいくような重たさを感じて何遍目かわからないようなため息をついた。
既にグラスは四杯にも上っている。
それでも、今日は酔えなかった。
五杯目を注文しようとした時──
「Excuseme,sir?」若い白人男性から、呼びかけられた。
「い、YES?」
四方津は、少し、引きながら返事を返した。
本水牛のボタンがはめられたヘリンボーンの生地を使ったスーツだ。
四方津の給料では、おいそれとは購入が難しい。
体型にもピッタリと沿っているその仕上がりは、ひと目見ただけでオーダースーツとわかる。
つい、四方津はくたびれた自身のスーツと見比べてはため息をついた。
「もしかして、日本の方ですか?よかったら、日本の話を聞かせてください」と男性が言うとバーテンダーに向けて合図した。
合図を受けたバーテンダーは、静かな所作で五杯目のウィスキーを四方津に差し出した。
それを、四方津はまた一気に飲み干した。
「それで、何が聞きたいんですか」
かかった──とセイリュウは人好きのする笑顔の裏でほくそ笑んだ。
*
どこだ……ここは……
うう。酒のせいで、頭が回らない。
もう、あれだけでやめておけばよかったんだ。
あいつ──……なんと名乗ったんだっけか。
それすら、今、出てこないところを見ると、どれほど、飲んだんだろうな。
四方津は、その身を起こそうと……
だが、体の感触が、もう、なかった。
自分の体の感覚が、既に、空なのだ。
重いわけでもなく、逆に軽やかでもない。
空だ。
慌てて、周囲を見渡す。
──あれは、俺だ……!
見ると、取ってあったホテルの一室。その片隅に骸が一つ、転がっている。
しどけなく壁に身を預けて。
そこへ、バーで呼びかけられた白人男性が、右手を差し出した。
体は、不自然な曲がり方をしながら、その右手に吸い寄せられて──
そして、消えた。
四方津は、その夜数え切れないほどの声にならない叫び声を上げたが、今も、また、その悲鳴を上げた。
白人男性の眼は、そうして叫んでいる四方津の姿を捉えると、凄惨な笑みをその顔面に貼り付けた。
精神体しか残っていない四方津の頭を、正確に捉えると。
「いい状態だな」と口に持っていき、そのまま、飲み込んだ。
四方津のかすかな、本当にほんの少しの意識が、生方への恨み節を残した。
「ほう。これは、面白い。次は、日本か」
セイリュウにとって、時間も空間も意味を持たない。
行こうと思えば、どこにでも行ける。
制約は存在しない。
四方津の意識が消えゆくその傍らで、かすかな生方への意識──それが、次の手となった。
*
昼下がり──生方のオフィスだ。
高層ビルの一角、日本支社の広めの部屋を与えられている。
窓からは、忙しない都会の街並みが映り込んでくる。
デスク上のモニターと書類を見比べながら、実験の進捗をチェック中だ。
生方は集中していたが、どことなく響いてくる一定のノイズに、その瞬間顔を上げた。
窓の光が少し揺らいだように見えた、が──首を傾げるも、部屋の中には何も変化のあるものはなかった。
「気のせいか──」
書類にまた目を落とすも、自身の心の中、なにか危険信号のようなものが灯るのを感じた。
そして、書類から目を上げると、そこには、人好きのする笑顔の白人男性がそっと立っていた。
「なんだね!きみは!どこから入ってきたんだね!」
慌てて、生方が声を荒げる。
「お前が、生方か──」
白人男性は、流暢な日本語で、そう問うた。
生方は、緊急時に警備を呼ぶボタンを押すと、その男から距離を取った。
すぐに警備員たちが、生方のオフィスに飛び込んできたが、白人男性が手を一振りしただけで、壁にひどい音を立ててぶち当たり絶命する。
男は、また、右手を差し出し、魂を吸い込んだ。
「ひぃ!なん……なんだ……!あんた!一体!?」
生方も、殺されるのではと恐ろしくなり、身を縮めた。
「答えよ。お前が、生方か──でなければ、殺す」
「はい……私が生方です!ころさないでくれぇ!」
その瞬間、生方の頭の中に、これまでの人生の全てが走馬灯のように駆け巡った。
必死に積み上げてきたキャリア、守ってきた平穏な日常、全てがこの一瞬で無に帰すかもしれない。
いや、帰すのだ。
この男の手に、自分の命は紙屑同然に扱われる。
尿意がこみ上げてきて、もう、どうしようもなかった。
ガタガタと震える、生方の足元には、尿溜りが出来ていた。
もはや、羞恥心も何もなかった。
「よし、そのかわりに、我の手となり動くのだ。良いな」
どんな要求をしてくるのかは、全くわからないけれど、生方は、一も二もなく赤ベコのように必死で首を縦に振っていた。
恐怖に支配され、思考回路は停止していた。
ただ生き延びるためだけに、本能が「従え」と叫んでいた。




