博士、確保
ヴァルッテリは、その日、言いようのない嫌悪感がその身にまとわりついているように感じていた。
安心できる、家の中でもその嫌悪感は拭い去れなかった。
──なにか、何処かから、ずっと見られている気がしているのだ。
自分の行動が逐一、監視されている。これは、自国にいた時、研究所での感覚に似ていた。
研究所では、ほんとうの意味で、監視されていた。
モニタリングとでもいうのか、スマートウォッチのような器具を渡されて、二十四時間毎日、心拍数や血圧、血糖など、全て調べられて記録される。
……毎分毎秒だ。
生活リズムが不規則になりがちな研究者の命を守る施術との名目だったが、その実ただの監視だ。
他企業へのリーク等がないかも併せて監視の対象になっているのだ。
主に、ライバル企業であるZaphrex社など、研究内容や研究者自身も含めて渡らないようにと、神経をすり減らしているところだ。
その、どことなくひりついた感覚が、今、まさにヴァルッテリの神経に障る。
今は、ただの外国人滞在者だ。
特に研究などもしてはいない。しかも、素性を隠している状態だ。
けれど──
過去五年の間、こんな感覚になったことはなかった。
植村家、なんてことはない住宅街の中にある一軒の家。
道路の先──黒い乗用車が、エンジン音もなく、じっと止まっていた。
誰も乗っていないように見える。
……けれど、窓はすべてスモークがかかっていて、中の様子はまったくわからない。
一瞬、こちらに視線が向いたような錯覚。
そしてその瞬間、車は唐突にエンジンを吹かして去っていった。
ヴァルッテリの脳内に危険信号が点る。
──数年に一度、Zaphrex社から今は使っていないメールのアカウント宛にメールがポツリと届くことがある。
位置情報などで探索をしているのだろう。
今は、生化学研究を退いているヴァルッテリだが、その頭脳は、数年が経った今でも第一人者であることは変わりがないのだ。
だから、Zaphrex社にとっては喉から手が出るほど欲しい人材だったのだ。
まさか、とは思ったが。
自分のいる位置がZaphrex社に筒抜けなのか。……それが、恐ろしかった。
Zaphrex社は、拐かしなどもお手のものだからだ。
自分の命を奪われるのは、まだいい。
けれど──自分の頭脳を搾り取られ、その成果で、また無数の人命が踏みつけられるのなら。
それは、自分が誰かの死体の上に立つのと同じだ。
……そんなもの、もう見たくない。
元の企業にいてもそうだったように。
だが、Zaphrex社はそれ以上のことをする。
ヴァルッテリは、自身の研究によって無辜の命が費やされるのは、もう見たくないのだ。
この地には、Zaphrex社のプラント施設があることは、植村家で厄介になる前にも知っていた事実ではあった。
けれども、ひっそりと生きていれば、なんてことはないだろうと思っていたのは、やはり甘い考えだったようだ。
今では、展久や燈乃、仰との四人の生活が、自分の主軸である。
それを手放す事、その考えでさえ、思い描くに苦しみが襲ってくる。
ヴァルッテリは、苦しんでいた。
「──そうか。ここには、もういられないのか……」
背筋が凍る音。
ピンポーン。
呼び鈴が鳴った。
*
「燈乃!ヴァルッテリが、どこを探しても見つからないんだよ!」
植村 展久は息を切らし、上着の襟を乱したまま、目の奥を真っ赤にして叫んだ。
五時間目、正門から、一台の乗用車が入ってきて翠月学園の玄関前に止まった。
慌てた様子で降りてきた人物を見ると、燈乃は動揺した。
祖父の展久だ。
燈乃はなんとか、岩室 亜結の連れ去りから少しだけ心を落ち着けるのに成功し、教室の椅子に座っていたときであった。
心は、亜結のことばかりだ。
そこに、祖父の登場ときた。
燈乃は、教師に保健室へ行くと告げて、廊下に出た。そして、玄関へ急ぎ、靴を履き替え外に出た。
そこへ、冒頭の言葉が飛んできた。
「ヴァルッテリが、居なくなったんだよ。数名の男たちに連れ去られた!」
「え。お爺ちゃん。話が見えない」
「そろそろ、昼時間だからとリビングに降りたら、玄関先でヴァルッテリと黒服の男たちがもみ合ってた。じいちゃんはヴァルッテリを助けようとしたんだが、もう一人の男に押さえられて、身動きできないようにされた。その隙にヴァルッテリが連れ去られた」
「どうして──」
燈乃の顔は、みるみる青ざめていく。
亜結だけじゃなくて、ヴァルッテリまでなんて。
「その時、ヴァルッテリがZaphrex社とか言ってたし、男たちがヴァルッテリのことを博士って呼んでた。じいちゃんは、ヴァルッテリを守れなかった……」
展久は強く頭を振った。
「Zaphrex社といえば、お前だ。この頃は、進退伺いも来ないが、何度も奴らが来ていたろう。ヴァルッテリも心配だが、燈乃、お前まで連れ去られたらと、心配で」
そこまで、展久は言うと泣き笑いの顔をした。
「燈乃、良かった。無事で……」
燈乃の背後から、足音を立てて駆け寄ってきた。楠浦 滉だ。
息を弾ませながらも、その目は強く、揺れていなかった。
「あの!植村さんのご家族の方ですか?」
「うん。そうだが?君は?」
「植村さんの同級生です。楠浦 滉といいます。話、少し、聞こえちゃいました。ごめんなさい。もし、そのヴァルッテリさんって人を助けに行きたいなら、僕も連れて行ってください!」
「どういうことかね」
燈乃と滉は代わる代わる状況を説明した。
「まさか……あの元気娘が……」
「亜結だって、そんなことになるなんて思っていなかったの。だから、助けに行きたいの。もしかしたら、ヴァルッテリも同じ施設にいるかも……」
燈乃の声は震えていた。でも、その目は迷っていなかった。
「お祖父ちゃん、お願い。連れて行って!」
燈乃は意を決したように、展久のジャケットを掴んだ。
*
「お初にお目にかかります。ヴァルッテリ・サールト博士」
実働部隊によって連れ去られたヴァルッテリは、直後車内で打たれた麻酔薬によって前後不覚になっていた。
時計もスマートフォンも奪い取られている。
窓はない部屋だ、何時かは推し量ることが出来なかった。
ソファにもたれるように座らされていたヴァルッテリは、居ずまいを正した。
「君は、誰ですか……。いや、その前に、私を帰してください。こんなところに、私は用はありません」
「おや、いつもの片言の日本語はどうしたんですか?随分と流暢にお話になるじゃないですか。さすがサールト博士だ。7カ国語堪能な上、日本語も実はマスターしていらっしゃるなんて」
男が笑う。ネームプレートを見ると、主任研究官、成尾 勇と書いてある。
所属先はわからないが、ある程度の役職のある研究者なのだろう。
ヴァルッテリは、その成尾のネームプレートを引っ張った。
「主任研究官さんが、私になんの用なんですかね。この落ちぶれた科学者なんかに」
成尾は喉の奥で笑った。
「あなたのあの研究が、今日の生化学界の礎を築いたといっても過言ではありません。それに、あなたは様々な研究で、自身の生体を鍵とし、その鍵がなければ発生できないという仕掛けを作って、地球の裏側に消えた。いやぁ、後進の研究者をよっぽど信用されていなかったんですな」
成尾は、ヴァルッテリの顎に手をやった。
「ようこそサールト博士。これからはZaphrex社の全精力をもって、お迎えいたしますよ」
ヴァルッテリはその手を払うと、
「私は、もう、研究者からは身を引いた一般人です。家に帰らせてください」と言ったものの、成尾には毛頭そのつもりはなかった。鼻で笑うだけであった。
*
亜結は、もう、自分の力で行動など出来ないほどに自由を奪われていた。
拘束や猿轡などは、前出の通りだが、効率的に幸福感を倍増させる薬などの投与が始まっていたのである。
まだ、投与は始まったばかりだ。いま、止めることができれば、脳はそれほど壊されずに済む。
だが、実験は、亜結を崩壊させても止まらないだろう。
このプラントにおいて、実験対象者には人権など微塵もないのだ。
幸福感を与えるのは、人は幸福感においてどれほどの能力を開花させうるのかという実験をしている。
そして、その実験において、亜結──被験者5238は目覚ましい成果を上げた。
驚くほどの数値が観測された。
──その中で、亜結は夢を見ている。
過去世からの夢ではない。今まで見たことのない世界。
誰かに頼られ、自分がスーパーヒーローになっていくような全能感のある夢だった。
ふと、片隅を見ると、男性が膝を抱えて座っている。
「どうしたの?こんなところで。泣いてるの?」
男性の肩がふるっと震えた。男性は、俯いているだけだ。
全能感に満ち満ちた、亜結は男性を元気づける。
「嫌なことは確かにあるよ。でも、それにめげちゃダメ。絶対うまくいくようになっているんだから」
「こんな僕でも、そんな風にうまくいくかな」
「うん!絶対よ!絶対にうまくいくわ」
男性は、軽くうなずいたように見えた
「僕、やってみるよ」
──その時、プラントの片隅に打ち捨てられた被験者5126の体が跳ね上がった。
モニタリングしていた職員が、慌てて上役を呼んだ。
「第二研究保全区画の被験者の数値がおかしいのです。何度観測してもさっきの倍になります」
「被験者5126だって?この前、あの、プラント事故を起こした被験者じゃないか。早く落ち着かせろ。そうでないととんでもないことになるぞ」
その時、まるでシンクロするように、被験者5238──亜結の数値も数倍に跳ね上がる。
建物の東翼と西翼、同時での発露だ。
職員たちは騒然となった。
このままでは、他の被験者にも影響を与えてしまう。
すぐに鎮静剤などの投与なども行われたが、焼け石に水だった。
亜結の数値はどんどん高まっていき──亜結は唐突に目を見開いた。
そして、身をなんとか起こすと、しっかりと付けられていた拘束具がなぜかはらりと落ちていった。
「生きてるって素晴らしい!」
──まだ、くすりの影響があるのかもしれない。
「……剣、か。あの夢の中では、ちゃんと持ててたのに」
亜結は拾った定規を、剣のように構えた。幻影がまだ視界に残っている。
男性職員が掴みかかってきた瞬間、その腕の動きを"先に"読んで──亜結は定規を振り下ろした。
「今の私は、ちょっとだけ最強かもしれない」
男性職員は、ドオと倒れた。
「さて、次は誰かな?」




