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『さあ、水を飲んで』

作者: 永井 耕一


『さあ、水を飲んで』

近未来、二〇二七年の夏。

世界中の中規模都市は、濁った蜃気楼しんきろうのように熱気に揺らめき、その輪郭さえも歪んで見えていた。日中の街路には、一片の影すらもう見ることはできない。燃えるアスファルトは、ゆっくりと息を吐くように熱を放ち、建物の窓という窓は固く閉ざされていた。沈黙を破るのは、息も絶え絶えの冷房機が吐き出す低い唸りと、酷使された送電網がきしみながら漏らす、どこか人間めいたうめき声だけだった。

その音は、空気の影に潜むほど弱々しいのに、不気味なまでにしつこく耳にまとわりつき、聞く者の体温までも、じわじわと奪っていくようだった。

地球温暖化は、ついに日中の気温を五十五度――人の皮膚を焼き、肺を焦がす、死の数値へと押し上げた。

外気に一歩でも踏み出せば、灼熱は容赦なく肉体を襲い、誰もが確実に熱中症という死の入口へと追い込まれる。

その日の正午、全ての全国チャンネルに緊急ニュースが流れた。

「政府は本日より、日の出から日没まで、防護装備なしでの外出を禁止しました」。

緊急ニュースの直後、大手テレビ局は、気象予報士であり防災アドバイザーでもある専門家のコメントを放送した。

「東京都の方針の背景には、昭和三十九年の東京五輪時を彷彿とさせる、水不足への危機対応があります。

当時、給水は一日わずか数時間に限られ、自衛隊らが水を運搬。昭和四十五年には、二十三区で地下水汲み上げが全面禁止されました。

今回の措置は、市民を飢渇きかつから守るための防衛策といえます。

――やがてこの街は、息づく音を失い、沈む太陽をただ待つばかりとなるでしょう。」

人々は、薄暗く密閉された部屋に押し込められ、テレビ放送に釘付けになっていた。光を遮る厚いカーテンの向こうでは、容赦ない太陽光がじわじわと街を焼き尽くしている。水は配給制に移行し、命の滴は共同水槽から汲み上げられる。しかし、その補給は日ごとに間延びし、やがて数日、さらには数十日と、間が空くようになっていた。                                                         

東京都水道局の設備技師が、貯水槽の底を覗き込んだ。

そこには、もはや冷たさも透明さも失われ、濁りきった液面が、かすかに揺れているだけだった。

「風ひとつないはずなのに……水面が、揺れている。

底の闇から――青白い指が、そっと水を……撫でている。」

栗田彩は、蒸し風呂のような一間きりのアパートで、息を潜めるように身を縮めていた。壁は灼熱を孕み、指先で触れれば皮膚が剥がれそうなほどだ。

台所の片隅、埃をかぶった床に置かれたプラスチックのボトル――残された水は、わずか一リットル。

透き通った液面は、暗がりの中で光を弾き返し、生体反応を拒む無機の刃となって、彼女の脳内信号から「生きる」という衝動を、薄く、そして確実に削ぎ落としていこうとしていた。

かつて顔を合わせることもなかった近所の住人たちは、夜になると、小声である病の名を囁き合った――「乾き病」。

熱波とともに忍び寄るその病は、皮膚の瑞々しさを奪い、体の奥底に潜む渇きの欲望を際限なく膨れ上がらせ、やがて心さえも侵食する。理性は枯れ、残るのは水を求める獣の本能だけだった。

被害者の唇は石のようにひび割れ、舌は腐った果実のように腫れ上がり、肌は羊皮紙のごとく脆く乾き切った状態で発見された。それに、恐ろしいことに――その顔には、時に生者の歯型が肉を抉るほど深く刻まれていることさえあった。まるで最後の一滴を奪い合う刹那、狂気が牙を剥いたかのように。

命の危険にさらされた彩は、かつて耳にした地下貯水槽のことを思い出していた。 廃線となった地下鉄・銀座線新橋駅には、幻のホームへと続くトンネルがある――そのさらに奥深く、永き眠りにつく古い地下貯水槽がひっそりと口を閉ざしているという噂を、かつて耳にしたことがあった。そこに湛えられた水は、近年の汚染や濁りに侵される以前のもの。だが、それはただ澄みきった冷たさを守っているのではない。底知れぬ闇の中で、幾十年も脈を打つように息づき、静かに訪れた者を待ち構えているのだ――。

灼熱の危険を逃れるため、夜更けに彩は、その噂だけを頼りに外へ踏み出した。外気は湿り気を帯びた獣の息のようにまとわりつき、肌の毛穴ひとつ残らず塞ぎ込む。熱は、獲物を追う捕食者の息づかいのように背後から忍び寄り彩の呼吸を浅く奪っていった。視界の奥で、夜はただの闇ではなく、じわじわと形を変える腐肉のように脈動していた。

それでも、彼女は一歩も引き返さず、闇の奥へと進んでいった。 水の在処を求め、音もなく口を開けるトンネルの闇の中へ――そこは、冷たさより先に、別の何かが待っている場所のように思えた。

彩は、ついにそれを見つけた。見たのだ――決して逃れようのない“それ”を。

地下深く――闇の底に、ぽっかりと口を開けた古びた貯水槽。

冷たく湿った石壁には、長い歳月を刻む黴の匂いが、重く、息苦しいほどに満ちていた。

そこに満ちている水は、どこかおかしかった。

ひんやりとした冷たさが、空気を通して肌に触れてくる。

深い暗さは、ただ光を拒んでいるだけではない――そこには確かに、彼女を見つめ返す「目」のような感覚があった。

彩は、躊躇なく両手でその水をすくい、ためらいもせずひと口含んだ。

次の瞬間、彼女の脳裏を、洪水のような幻視が襲いかかる。

太古を流れた大河のうねりのごとく――濁流だくりゅうに呑まれるように、音もなく沈んでいった村々の残影が押し寄せる。

そして、何世紀ものあいだ帯水層を養い続けてきた、無数の死者たちの眠る姿――骨の白さまでもが、水に静かに溶け込んでいた。

その味は、まるで腐敗を隠すための甘味のようだった。 その時、脳の奥深く――血の匂いを帯びた声が、ねっとりと囁いた。

「……分け与えろ」 その囁きは、水脈を伝う低周波のようであり、同時に、人ならぬものが耳元で静かに呼吸しているかのようでもあった。

彩は、ふらつく足取りで家路についた。 扉を閉めた瞬間、喉を焼き尽くすような渇きが、再び全身を締め上げた。 冷たい闇を抱えたその水――わずか一滴が、命を繋ぐ最後の鎖だった。      そう思うと、指は自然とボトルの(ふた)ひねっていた。

やがて、灼熱に包まれた部屋の中にいるというのに、彼女の肌は不自然なほど冷えていった。

その冷たさは、その水を口にした者の体温を容赦なく奪い去り、喉をひび割れさせるほどの渇きを、骨の髄まで深く植え付けていった。

それは、ただの病ではない。もっと原始的で、深く、名を持たぬ呪いだった。

その水に触れた者は皆、狂気に取り憑かれたようにそれを求め、台所や浴室を這いずるように探し回る。

だが、もう建物の貯水槽は数日のうちに底を突き、湿った音を最後に干上がっていた。残された選択は――この呪いの水を飲むことだけだった。

そして夜ごと、一人、また一人と、住人たちは姿を消し始めた。

隣人たちは虚ろな目で彩の部屋の前を通り過ぎ、音も立てずに階段を降りていく。

その足が向かう先は、ただ一つ――あの地下のトンネル。

闇の底から、冷たく甘い囁きが、彼らをゆっくりと呼び寄せていた。

一週間後、救助隊は、沈黙に沈んだ建物へと突入した。

扉が軋む音と同時に、彼らの頬を撫でたのは――外気の灼熱とは対極にある、不自然な冷気。

それは冷房の涼しさではなかった。

まるで、この建物そのものが、内部から熱を吸い尽くしているかのようだった。

薄闇の廊下を進むにつれ、足音は吸い込まれるように消えていった。

やがて彼らは、建物の最奥にある一室で、彼女を見つける。

彩は床に座り、影の中で静かに微笑んでいた。

その傍らには、陶器の水差し――中に満ちているのは、光を一切返さぬ、 底知れぬ黒い水だった。

彼女はそれを両手で抱え、ゆっくりと差し出した。

唇が、氷のような声を紡ぐ(つむぐ)。

「……さあ、飲んで。もう二度と――喉が渇くことはないわ。」

その言葉が終わるのと同時に、コップの中の黒い水面が、かすかに波打った。

まるで、その中の何かが笑ったかのように。


終わり


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