8.特別な一歩
ノックの音が、午前の静けさをやさしく叩いた。
「……神官長セト・ロセッティです。
少しだけ、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
扉の向こうから聞こえるその声に、マナは一瞬ためらったが、そっとうなずいた。
代わりにリリーが扉を開け、小さく会釈する。セトはそれに軽く頷き、部屋の中へと静かに足を踏み入れた。
窓から差し込む光に照らされた部屋のテーブルには、今朝リリーが飾ったデルフィニウムが、淡い光を受けて、すっと背筋を伸ばすように咲いていた
マナは椅子に腰をかけ、黙ったままセトのほうを見た。
セトも椅子に腰を下ろし、少しだけ視線を落としてから、柔らかく口を開いた。
「……最近、少しずつ、お顔の色がよくなられていると聞いて、ほっとしていました」
「……ありがとうございます」
マナの声はかすかだったが、確かにその場に届いた。
セトは、無理に笑わず、頷くだけでそれを受け取る。
少しの沈黙が落ちて、それでも重くはならなかった。
「リリーさんが……毎日、お花を持ってきてくださるんです」
マナがぽつりと話し出す。
「それが……うれしくて。何の花かなって、思う時間があると……気持ちが軽くなります」
セトの目がやわらかくなる。
「それは、素敵なことですね」
彼は窓の外を見やった。神殿の中庭に広がる草花が、春の光に揺れているのが見える。
「ちょうど今、教会の庭で春の花が見頃を迎えています。
きっとマナ様も気に入ってくださると思います。
……よろしければ、今から少しだけ、外をご案内しても?」
マナはそっと、視線を上げ窓の外を見る。
眩しすぎない光、揺れる緑、遠くで小鳥のさえずり。
――ただそれだけの景色が、なぜだか胸をしめつけた。
「……行っても、いいんですか?」
「ええ。今日は風も穏やかで、外はとても気持ちがいいですよ」
マナは窓の外を見やった。
光に揺れる木々の葉、静かに流れる雲のかたち。
心のどこかが、そっとほぐれていくのを感じた。
ほんの一瞬、迷うように手が膝の上で揺れて――
けれどやがて、ゆっくりと指先に力がこもる。
マナは、ためらいがちに立ち上がった。
体が少しだけ重かったけれど、歩けないほどではなかった。
リリーが心配そうに控えていたが、マナは彼女に微笑んで見せた。
それを見たセトが、そっと扉を開け、マナの一歩を待った。
マナにとって、それは特別な一歩だった。
この世界に来てから、心の奥で距離を置いていた外の世界へ、自分から近づこうとしたのは初めてだった。
まだ戸惑いはある。けれど今はほんの少しだけ、外の空気に触れてみたいと思えた。
その気持ちが、自分でも意外だった。
「こちらです」
前を歩くセトの背中が、なぜか思ったよりも遠く感じなかった。
静かな廊下に響く足音は、どこかやさしく、柔らかい。
光のほうへと向かっていくマナの背中に、やわらかな春の風が寄り添っていた。