6.差し込む光
朝の空気は、どこか肌寒かった。
マナはその日もベッドに横たわったまま、窓に背を向けていた。目は開いているのに、そこには何も映っていない。
リリーが静かに扉を開ける音がした。
気配を感じても、マナは反応しない。もう慣れた、いつもの朝だった。
けれど――今日のリリーの腕には、トレイのほかにもうひとつ、花瓶が抱えられていた。
「……おはようございます、マナ様。朝食をお持ちしました」
そして、窓辺にそっと、淡いピンクの縁取りを持つ一輪のバラを置く。
「庭のバラがとてもきれいに咲いたので、お願いして切らせてもらいました。
マナ様のお部屋に、どうしても飾りたくて」
沈黙のままの部屋に、風がひとすじ、薄いカーテンを揺らした。
やがて――マナがゆっくりと身を起こし、窓辺の花を見た、瞳に、ほんのわずかな光が差し込んだ気がした。
「……ストロベリーアイス……」
リリーが驚いて顔を上げる。
「……それは?」
「お母さんが……大好きだったバラに、そっくりなんです」
声はか細かったが、確かにリリーに届いた。
その響きが、まるで冬の湖にひとすじの光が差したように、胸に沁みた。
「“ストロベリーアイス”っていう名前。ちょっと……美味しそうですよね」
マナは、ぎこちなく笑った。
「私が生まれた時には、もうお父さんはいませんでした。
お母さんが、夜遅くまで働いて……ずっと、ひとりで私を育ててくれました。
大変なことばっかりで、助けてくれる人なんて、誰もいなくて……
それでも、二人で支え合って、毎日を生きてきたんです」
マナの声が震える。
けれど、それは心の奥からあふれる言葉だった。
「母の日に、少しずつ貯めたお小遣いで……このバラの鉢を買ったら、
お母さん、すごく喜んでくれて。
それ以来ずっと、“お母さんが世界で一番好きな花はこれだよ”って、
大切に育ててくれました……」
話しながら、マナの目に涙がにじんでいく。
「こんなに……お母さんと離れたことが、つらいなんて……私、高校生にもなって、まだまだ……ダメですね……」
そう言って、マナは声を殺すように泣いた。
リリーはそっと、そばに膝をつき、何も言わずにマナの肩に手を添える。
「……私たちを助けてくれる人なんていなかったのに……そんな私が、この世界で……誰かを救うなんて、できるのかな……?」
その問いに、リリーは小さく息を吐いて、ゆっくりと話し出した。
「……マナ様の気持ち、分かります。
私も男爵である父が亡くなって、領地を追われて……頼れる親戚もなく、妹と母と三人で細々と暮らしていました。
妹は、持病がありました。けれど薬は高価で、どれだけ願っても手に入れることはできませんでした。
周りに頼れる人もおらず、日に日に弱っていく妹を、ただ見ていることしかできず……」
リリーの声は穏やかだったが、その奥には隠しきれない痛みがにじんでいた。
「そのとき……年老いた子爵の後妻として、私を迎えたいという話があったのです。
その人は、これまでに何度も若い女性を娶ってはすぐに亡くならせているという噂のある方で……
領民の間でも、あまり良い評判はありませんでした。
私がその人のもとに嫁げば、妹の薬代が手に入る。母も妹も、私を必死で止めました。
でも……私は、婚約を受け入れてしまいました」
リリーはわずかにまぶたを閉じ、言葉を選ぶように続けた
「……けれど、結婚式の前日、妹はそのことを知って自ら命を絶ちました。そして……母も、後を追うように……」
マナは言葉を失い、ただそっと息をのんだ
「私……すべてを壊してしまったと思いました。守りたかったはずの二人を、結局、私が手放してしまった」
リリーは視線を落としたまま、わずかに唇を震わせた。
「その後私も二人のあとを追おうとしたのです。しかし湖に身を投げようとしていた所、偶然通りかかった第一神殿騎士団の副団長、ライナルト様に助けられました。」
「ライナルト様は、何も言わずに、ただ静かに私の話を聞いてくださいました。それから私をセリオス神殿へ連れてきてくださり、セト様のお力もあって……子爵との婚約は白紙になりました。
あのとき、私は本当に救われたのです。こうして今、巫女としてこの神殿で暮らすことが許されているのも、お二人のおかげだと思っています」
そして、静かに微笑む。
「……マナ様が、今、あの頃の私と同じように、大切なものをすべて失ったようなお気持ちで、絶望の中にいらっしゃるのだと思うと……私にできることでしたら、何でも――マナ様のお力になりたいのです」
リリーの静かな語りの中に潜む、深くて消えない痛み。
マナは息を呑み、言葉を失った。
(……そんな過去が、リリーさんにあったなんて)
ほんの少し前まで、リリーはただ自分の身の回りの世話をしてくれる人、としか見えていなかった。
でも今、目の前にいるのは――かつてすべてを失いかけ、それでも生きようとしてきた人だった。
誰にも頼れず、愛する人を守れなかった自責の中で、それでも誰かの言葉に救われて、立ち上がってきた人。
私とあまり歳も変わらないはずなのに――
どうしてこんなにも、強くて、優しいのだろう。
(……私だけじゃない……)
今の今まで自分ひとりが、世界でいちばん不幸だと思っていた。
でも違った。リリーもまた、大切な人を喪い、絶望の淵をのぞいたことがある。
それでも、今こうして誰かのために手を差し伸べようとしてくれている。
マナの胸の奥に、何かがふわりと灯った気がした。
「……そんなことが……あったんですね……。リリーさん……それなのに、こんな私に優しい言葉を……。
……いえ、それだから……私のこと、心配してくださっているんですね。……ありがとうございます」
マナは伏せたままの視線を上げることなく、かすかに肩を震わせながらそう呟いた。
声はか細く、けれど、その奥には確かに感情があった。
リリーは何も言わず、ただそっと――膝をついたまま、マナの手の上に自分の手を重ねた。
冷たくなりかけていた指先に、じんわりと温もりが伝わる。
マナは驚いたように小さく瞬きをし、それでも手を引こうとはしなかった。
「……焦らなくて、いいのです」
リリーは小さく、けれどはっきりとそう告げた。
「ひとりで歩き出すのが怖いなら……誰かと一緒でも、かまわないのですから」
言葉はマナの胸の奥に、そっと沁み込んでいくようで、その声に――その手に、心が救われていくのを感じていた。
窓の外では、春の風がバラの花弁をそっと揺らしていた。
まるで、少女の心がほんの少しだけ、ほどけ始めたことを、祝福するように。
その夜――
マナはベッドの上で、静かに天井を見つめていた。
眠ろうとしても、まぶたは閉じられなかった。
リリーの声が、まだ耳の奥に残っている。
「お力になりたいのです」
あの言葉を思い出すたび、胸の奥がふわりと揺れた。
(……どうして、あんなふうに)
自分は何もできていない。
この世界に来てから、ただ泣いて、戸惑って――誰の役にも立てなかったのに。
それでも、あの手は温かくて、まっすぐだった。
触れられた瞬間、言葉より先に、涙がにじみそうになった。
(……何もできない、わたしなんかのために)
その思いが、まだどこか信じられなくて、けれど確かに心に残っていた。
そう――この世界に来た、あの最初の夜とは違う。
誰とも話さず、声も出せず、ベッドの中でただじっと耐えていた、あの夜とは。
ほんの少しだけ、心の奥に光が差したような気がした。
(……ありがとう、リリーさん)
声にはならなかったけれど、胸の奥で何度も繰り返す。
そしてマナは、ようやく目を閉じた。
孤独な夜は、まだ続いている。
けれど、たったひとつの温もりが――そっと、寄り添っていた。