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60.散る想い

 レイナの私室を後にしたリリアナは、自分の部屋へ戻るつもりで歩き出したはずだった。けれど、気づけば足は迷うように神殿の方角へと向かっていた。

 

 ──また、探している。いつものように。

 無意識に、目が彷徨う。あの、青緑の髪。風に揺れる淡い衣。誰よりも神聖で、誰よりも遠い、あの人の姿を。


 「セト様……」

 

 つぶやいた名に、熱がにじむ。


 (……今日も、会えないかもしれない)


 そう思った矢先――

 視線の先、回廊の向こうに人影が揺れた。


 陽光を背に、静かに歩くひとつの姿。

 光に透ける髪は水面のように揺れ、涼しげな翠の瞳が、どこか遠くの空を見つめているようだった。


 その姿に、リリアナは息を飲んだ。

 裾をつまみ、思わず駆け寄っていた。


 「セト様、あの……!」

 

 その声に、セトは足を止めた。ふわりと微笑み、まるで何もなかったかのように、穏やかに言う。


 「これは、リリアナ様。どうされましたか?」


 その声音が、胸を締めつける。優しい。優しいのに、どうしてこんなにも遠いのだろう。昔から、ずっとそうだった。あの幼い日の、聖女見習いとして初めて彼に出会ったときから――


 「ご、ごきげんよう。少しだけ……お時間をいただけますか?」


 「ええ、もちろん。お話くらいなら、いつでも」

 

 セトが微笑んで礼を返す。


 けれど――言いたいことはたくさんあるはずなのに、うまく言葉にならなかった。

 胸の奥で、思いだけが静かに渦を巻いている。


 (なにか、なにか言わなきゃ。気持ちを……でもどうやって?)


 「……その……選定の儀でのことですが、あれは……カリオン様が、勝手になさったことでして……わたくしも、お母様も、何も関わってはおりませんの」


 それは、用意されたような綺麗な台詞だった。自分でもなぜ口にしたのか、わからなかった。ただ、“疑われたくない”という焦りが言葉を先走らせた。

 セトの微笑が、ほんのわずかに止まった。


 「……そうですか」


 たった一言。けれどその声には、確かに冷たく薄い霧のような失望が混じっていた。


 「そう仰るのですね、リリアナ様」


 静かに言われたその言葉に、リリアナは反射的に一歩踏み出す。


 「セト様……っ」


 心が先に動いていた。気づけば彼の手を取っていた。淡く冷たいその手。リリアナの指先は微かに震えていた。


 「それなのに……お父様は、わたくしを疑っていらして……っ」


 声が震える。感情があふれ、胸が痛んだ。


 「監視を……つけられているのです。いつも誰かに見られているようで、息苦しくて……」


 睫毛を濡らし、うるんだ瞳でセトを見上げる。無意識にすがるような、母譲りの仕草。けれど彼女は知らなかった。セトがもっとも嫌う“媚び”の形をなぞっていたことを。

 彼女はただ、願っていたのだ。

 

 ――どうか、わたくしを見て。心から、見て。

 

 しかし――

 セトは、その手をそっと、外した。

 その仕草はあまりに優しく、そして冷たかった。


 「……リリアナ様」


 名を呼ぶその声に、氷のような静寂が宿る。


 「あなたが……以前から私にかけようとしていた“魅了”の魔力。……わたしが気づいていないと、お思いでしたか?」



 時間が止まった。心音すら消えた気がした。



 「……そんな……」


 リリアナの唇が震える。瞳から光が消えていく。


 「セト様……気づいて……いらしたの……?」


 「わたしは神官です。神殿の気の流れや人の気配には、誰よりも敏いつもりです。あなたが、幾度となく――私の心を縛ろうとしたことも、すべて……感じておりました」


 セトの声は静かだった。激情はなかった。だからこそ、余計に鋭く胸に突き刺さる。


 「では……では……わたくしのこの気持ちも……ご存知だったのですね……?」


 セトは目を伏せ、少しだけ視線を逸らした。


 「たとえ魔力で相手の心を傾けたとしても、それは“真実の想い”ではありません。嘘の上に立つ感情に、何の価値があるのでしょうか」


 「っ……違いますわ……っ! わたくしは、ただ……あなたに、見てほしくて……!」


 声が割れる。涙がこぼれる。


 「あなたに、私を見て欲しかったのです! 一度でもいいから……王女でも、聖女候補としてでもなく……“わたくし”という人間を――!」


 セトは、静かに、ただそれだけを見つめていた。


 「……私は、“人の心を操ろうとする魔力”を用いる方を、心から信じることはできません」


 その言葉に込められたのは、拒絶ではなく、揺るぎない信念だった。だからこそ、いっそう残酷に響いた。


 「それでは……リリアナ様」


 セトは一礼すらせず、背を向ける。


 「……どうか、これ以上、ご自身の誇りを損なわれませんように」


 そして、静かに歩き去った。足音すら残さず、彼の気配は、神殿の静寂に溶けていった。

リリアナはその場に立ち尽くしていた。全てが終わったあと、ようやく、自分が一人きりになったことに気づいた。

残されたリリアナは、床に影のように立ち尽くしていた。

胸が、痛い。息ができない。感情が音もなく崩れていく。


 「……わたくしは……」


 唇からこぼれたのは、もはや言葉にならない息混じりの囁きだった。


 「王女として……何をしても、許されると……そう信じて、生きてまいりましたのに……」


 震える声に、彼女自身が怯える。


 「どんな言葉を選んでも、どんな振る舞いをしても……笑顔で受け入れられるのが、当然で……それが、“誇り”なのだと……そう、教えられて……」


 ゆっくりと目を伏せる。睫毛に涙が宿り、光に揺れる。


 「わたくしは……“正しい”王女として生きてきたはずですわ……そうでなければ、わたくしには……なにも、残らなくなってしまう……のに……!」


 声が詰まり、喉が痛んだ。


 「……なのに……どうして……」


 セトの背が脳裏に浮かぶ。背を向けられた感触だけが、身体に焼き付いていた。


 「……どうして……たった一人……心から、好きになった方にすら……」


 瞳から、大粒の涙がひとすじ、頬を伝った。


 「――軽蔑されてしまうの……?」


 呟きは、石造りの回廊に吸い込まれ、誰にも届かない。

 崩れそうになる膝をどうにか堪え、壁へ手をついた。冷たい石の感触が、今の彼女には唯一の現実だった。


 「……セト様……」


 名を呼ぶことすら、罪のように感じた。けれど、呼ばずにはいられなかった。


 「わたくしの……何が、いけなかったの……?」


 「“好き”という気持ちすら、否定されてしまうのなら……いったい、わたくしはどうやって……誰かを想えばよいの……?」


 胸が痛くて、涙が止まらなくて、それでも王女として泣き崩れることだけは、許されない。

 それが、リリアナ・グランディアとして生まれた者の“矜持”だった。唇を噛み締め、肩を震わせながら、彼女は静かに涙をこぼし続けた。

 

 ――その時

 

 

 ――かわいそうに……、あの神官に傷つけられたの?――


 

 誰かの声が聞こえて、リリアナがハッと顔を上げる。周りを見渡しても誰も居ない。


 

 ――君は、何も悪くないよ。さあ、こっちに来て。ここにいるよ――


 

 リリアナは声のする方へ、引き寄せられるようにして進んでいく。

 そこは――神殿の裏手にひっそりと佇む、小さな礼拝室の前だった。

 今では訪れる者もなく、扉には薄く埃が積もっている。壁をつたう蔦と風化した聖句の彫刻が、この場所が長く忘れられていたことを物語っていた。

 まるで時の流れから取り残されたようなその場所に、リリアナは立ち尽くす。

 


 ――ここだよ、リリアナ。中に入って――


 

 心はどこかで警鐘を鳴らしていた。この声に応じてはいけない、この扉を開けてはいけない。

 それなのに――リリアナは震える手で礼拝室の扉をそっと開いた。

 

 闇の中、ひときわ冷たい空気が頬をなでた。

 水のように澄んだ、けれどどこか艶めいた声が、再び彼女の内に忍び込む。


 ――そう……ここなら、誰にも邪魔されない。君の痛みも、怒りも、すべて僕が知っている――


 リリアナは小さく震えた。けれど、その声は、優しく、甘く、心を包み込んでくる。


 ――君がどんなに耐えてきたか……その涙が、僕には見えるよ――


 わずかに伸ばした指先が、ひときわ暗い石壁に触れる――その奥には、知られてはならない“何か”が、静かに脈打っていた。

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