5.夜の回廊にて
聖女殿の回廊には、灯された蝋燭の火がわずかに揺れていた。
神官長セト・ロセッティは、静かにその中を歩いていた。石造りの床に響く足音は規則正しく、だが彼の胸の内には、解のない思考が重く沈んでいた。
その少し前――
「神官長、夜分に失礼を」
声をかけてきたのは、副神官長ディセルだった。歳は三十を少し越えた頃、長身で痩せ型の男だ。淡い栗色の髪を後ろで束ね、銀の縁取りが施された聖衣をきちりと着こなしている。冷静沈着な眼差しと、どこか距離を保つような言葉遣いが印象的な人物である。
「巡回の報告書を執務室に置いておきました。マナ様のお部屋周辺にも異常はありません。……それと、巫女たちには様子を見ながら対応するよう伝えてあります」
「助かる。ありがとう、ディセル」
「いえ。……あの方が一日も早く落ち着かれますように」
丁寧に一礼すると、ディセルは回廊の向こうへと静かに去っていった。
再び、蝋燭の炎が揺れる音だけが残る。
(少女を異世界から呼び寄せたこの決断は、果たして正しかったのか)
聖女召喚――それは国の存亡をかけた儀式だった。結界が弱まり、魔物の侵攻が現実のものとなりつつある今、五大神殿は残された最後の手段として、異界に救いを求めた。
その結果として現れたのが、あの少女――マナだった。
セトは足を止め、夜風にわずかに揺れる窓辺のカーテン越しに、月を見上げた。
(彼女が、この国の希望だ。それは間違いない。
だが同時に、この国のために犠牲になった存在でもある)
そのとき、足音が近づく気配がした。
「……セト様」
声の主は、赤毛の巫女――リリーだった。彼女は深く頭を下げ、静かに立っていた。
「夜分に失礼いたします」
「……構わない。何かあったか」
セトの声はいつも通りだったが、その眼差しにはほんのわずかな警戒が宿っていた。予感は的中する。
「……マナ様のことです」
その名が出た瞬間、セトの目がわずかに伏せられた。
「今日もほとんど何も召し上がらず、水もほんの少し……声も、一言も……。あの方は、まるで息を潜めるようにして過ごしておられます」
しばらく沈黙が落ちた。リリーの言葉は事実であり、セトもそれを否定するつもりはなかった。
「……彼女に対して、私たちがしていることは理不尽だ。だが、必要だった」
セトは窓の外を見つめたまま、低く静かに言った。
「この国を守るためには、誰かが“選ばれなければ”ならなかった。彼女が、その“誰か”だった……しかし」
リリーは何も言わなかった。だがその沈黙は、怒りでも反発でもなく、ただ受け止めようとする苦悩に満ちていた。
セトがようやくリリーの方に視線を戻す。
「彼女を呼んだのは、私たちだ。その責任は、最後まで果たさなければならない」
リリーはゆっくりとうなずいた。
「……聖女様がどれほど混乱されているか、そばで見ていて痛いほど分かります。突然異なる世界に呼ばれて、その理由も責任も一方的に背負わされた。受け入れるには、あまりにも重すぎます」
リリーはまっすぐにセトを見つめながら続けた。
「ですが、これは“選ばれた者”だから仕方がない、で済ませてよいことではないはずです。必要なことであったとしても、それは正しさの証明にはなりません」
少しだけ声の調子を落としながら、言葉を締めくくる。
「私は、聖女様を“役目”としてではなく、一人の人として支えたいと思っています」
セトはわずかに目を細める。
「ああ、頼む」
風が再びカーテンを揺らす。ふたりはしばらく黙ったまま、静かな夜に身を委ねていた。
そしてセトは思う。
(彼女を召喚したことを悔いることはない。だが、その重さから目を逸らすことも、決してない)
やがて彼は、再び歩き出した。