58.香煙と企て
王妃殿の回廊に、重厚な足音がゆっくりと響いた。
「レイナ、大丈夫か?」
扉を開けて現れたのは、威圧感を纏った一人の男――アーヴェルト侯爵。王都屈指の名門にして、ラーデンリア随一の実力貴族。その厳しい目がレイナの姿を確認した瞬間、怒りを滲ませた声が響いた。
「アルヴァンの奴……正妃と王女を幽閉するとは、王とはいえ許しがたい」
レイナは静かに立ち上がり、微笑みながら父に歩み寄る。
「お父様のおかげで、こうして外に出られたわ。ありがとう、やっぱりお父様は頼りになるわ」
その声には甘えるような響きがあったが、瞳の奥は冷ややかに光っていた。
「でも……アルヴァンはまだ私を疑っているわ。そろそろ“潮時”かもしれないわね」
アーヴェルトは短く頷いた。
「リリアナが正式に“聖女”と認定されてから動くつもりだったが……カリオンとあの新たな聖女のせいで、計画が大きく狂った」
「まあいいじゃない。お父様がカリオンにすべての罪を被せてくれたおかげで、今の私たちがあるのですもの。それで……彼の様子は?」
「屋敷の地下牢に閉じ込めてある。目と耳の確かな者をつけてな。相変わらず“赦しを”だの“私の光が”だのと……意味のわからぬことばかり呟いている」
「ふうん……でも、何かあったときの“足止め”くらいにはなってくれそうね」
レイナは窓の外を一瞥し、振り返って静かに問う。
「――計画は、順調に進んでいるの? エルグレア帝国との交渉はどうだったのかしら?」
「問題ない。“神の結界”や結界石、聖女の役割……こちらが渡した情報を受け取ったときの皇帝オルテリオの目は愉快だった。まるで宝でも見つけたような顔をしておったわ」
エルグレア帝国――それはラーデンリアの北方に広がる、かつては幾つもの小国に分かれていた広大な大陸地帯。
十数年前、現皇帝オルテリオが〈蒼き古竜ヴァルトゼル〉を従えて現れ、その超常の力と圧倒的な軍略により、数年をかけて諸国を制圧・統合し、新たに帝国として打ち立てられた。
今や帝国は、強大な軍事力と経済力を誇り、南方のラーデンリア王国とも交易の往来があるが、両国の関係はあくまで表面的なものであり、正式な同盟は一度として結ばれていない。
信仰と神の加護を重んじるラーデンリアと、竜の力と統治によって築かれたエルグレア――その価値観の隔たりは深く、容易に歩み寄ることはできなかった。
帝国が築かれたこの地は、古くから“神の奇跡”とは縁遠く、聖なる加護や伝承のない土地であった。力と秩序のみが支配の理とされてきた風土である。
だが、オルテリオが〈古竜〉を従え、ひとつの国を成したという事実は、信仰なきこの国にとって初めて得た“神話”となった。
そして今、彼はさらに新たな奇跡――“聖女”という存在までも、その手中に収めようとしている。
「やはり、“神の奇跡”の存在は、信仰なき大国にとって喉から手が出るほどの代物のようね」
レイナは香炉に手を伸ばし、蓋を静かに閉じる。妖しく甘い香りが空気に満ちていく。
「こちらの準備も万全よ。リリアナが聖女候補として五大神殿への“祈りの巡礼”をしている間に、私も同行して、少しずつ……《偽聖の器》へ力を移してきたの。もちろん、カリオンには気づかせずにね。禁術《偽祈の儀》を使えば、私の祈りだけで結界石に蓄えられた聖なる魔力が、静かに器へと吸い寄せられていくのよ……ふふ、まるで、自ら望んで差し出しているみたいにね」
「結界石に残る力は?」
「ほとんど移し終えているから、結界石にはもはや皮一枚の加護しか残っていないわ。いざとなれば、この国の守りは一気に崩れるでしょうね。まあ、私とリリアナを聖女に選ばなかったこの国など、この先どうなろうと知ったことではないけれど」
アーヴェルトは満足げに頷く。
「では、《偽聖の器》に蓄えた力を“リリアナの聖女の奇跡”として皇帝に差し出す。代わりに、リリアナはオルテリオ皇帝の第一皇子リオネルに嫁ぐ――それが我らの取引だ」
「ええ。そして私は“聖女の母”として、王家に近づく。あの国に“聖母”という概念はない。私の存在そのものが新たな象徴になるわ」
「帝国の連中は、力にばかり目が眩んでいる。“魅了の術”など、想像すら及ぶまい」
レイナは口元に笑みを浮かべ、軽やかに髪をかき上げた。
「“聖なる光”も、“女の武器”も、使いこなしてこそ。手段を選ばずして、どうして皇帝に近づけるというの?
そしてお父様も“帝国貴族”として新たな称号を受けるわ。侯爵なんて小さな肩書きじゃない……あの帝国で、皇族の外戚として讃えられるのよ」
「実に頼もしい娘だ」
アーヴェルトは椅子から立ち上がり、部屋をゆっくりと歩く。そしてふと立ち止まり、声を落として問う。
「――《偽聖の器》は、どこに保管してある?」
レイナの瞳にわずかな警戒の色が浮かぶ。だがすぐに笑みに変わり、さらりと応えた。
「誰も知らない場所よ。カリオンがいない今、あの場所を知っているのは私だけ」
窓の外へ視線を流しながら、声を潜める。
「今は監視の目がきつくて、動けないけれど……ほとぼりが冷めたら、“手元”に戻すつもりよ。心配いらないわ」
「それでいい」
アーヴェルトは頷き、再び歩を進める。
「カリオンが言っていた“真の聖女”など、今さら脅威ではない。言葉も信憑性を失い、地下牢に繋がれている。いざとなれば……黙らせれば済む」
「ええ。もう私たちの前に立ちはだかる者はいない。“神の奇跡”も、“聖なる名声”も――これからは私たちのものよ」
レイナは紅茶の入った盃を優雅に傾けながら、静かに微笑んだ。
その目元には、怒りも焦りもない。
――あの時、彼らは“私ではない誰か”を選んだ。
聖女として。そして、王の隣に立つ者として。
すべてを奪っておいて、まるで当然のように光の中を歩いていた女……。
選ばれなかった者が、何を思い、何を捨ててきたかも知らずに。
王妃という冠を手にしても、その傷は癒えなかった。
だから私は誓ったの。あの女を超える存在になると――
この国の光に背を向け、もっと大きな舞台で、
帝国で、“聖母”として崇められる未来を手に入れる。
この美貌と、魅了の力があれば……皇帝すら、私の意のまま。
私とリリアナこそが、この世界の“新たな聖の血脈”になるのよ。
その瞳には、すでに別の光が映っていた。香の煙が静かに揺れ、陰謀の熱を孕んだ空気が、誰もいない天井へと立ちのぼっていった。




