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3.祈りの檻と、閉ざされた扉

 ──かすかな風の音と、甘やかな香りが漂っていた。

 ゆっくりと意識が浮かび上がる。まぶたが重く、体の芯に鉛が詰まっているようだった。


 「……ん……」


 小さく声を漏らしながら、マナはまぶたを開けた。

 目に入ったのは、繊細な刺繍の施された天蓋のカーテン。やわらかな光が揺れていて、見知らぬ場所だとすぐにわかった。


 (ここは……どこ……?)


 肌触りのよいリネンのシーツ。淡い花の香り。外の風が窓越しに木々を揺らしている音。


 「……目を覚まされたのですね」


 すぐそばから、やわらかな声がした。

 ベッドの脇に座っていたのは、マナより少し年上に見える少女だった。

 ふわりと揺れる赤毛をひとつに束ね、白を基調にした薄衣の上から、淡い青の帯を結んでいる。袖や裾には、月の模様を模した刺繍が施されていて――まるで神前に立つための衣を、そのまままとっているような――そんな清らかさがあった。

 目元に優しさを湛え、心配そうにこちらを見ている。


「ご気分はいかがですか? どこか痛むところはありませんか?」


「……えっと……あなたは……?」


 マナが戸惑いながら尋ねると、その女性は穏やかに微笑んで頭を下げた。


「わたしは、セリオス神殿で巫女をしております、リリーと申します。

しばらくの間、マナ様のお世話を仰せつかりました」


「……マナ様……?」


 なぜ自分の名前を知っているのだろう、はっきりしない頭でぼんやりと考える。

 リリーはマナの様子を見て立ち上がる。

 

 「今、神官長のセト様をお呼びしてまいります。

 もう少しだけ、お休みになっていてくださいね」


 そう言って部屋を後にすると、扉の向こうに軽やかな足音が消えていった。


 (セト……様? さっき、そんな名前……)


 眠る前に聞いたあの青年の顔が脳裏に浮かぶ。翠の瞳と静かな声。

 それが夢だったのか、現実だったのかさえ曖昧だった。

 自分の身に起きたことが、あまりにも大きすぎて、まだ心が追いついていない。


 「……帰りたい……」


 ふと、つぶやいた声が、空気に溶けていく。

 次の瞬間、再び扉が開いた。

 現れたのは、リリーに続いてあの青年だった。

 美しい青緑の髪と凛とした立ち姿。目が合うと彼は胸の前で両手を重ねて丁寧に頭を下げた。


 「ご気分はいかがですか、マナ様」


 マナはベッドの上で体を起こしながら、静かに頷いた。


 「あの……私、頭の中がぐちゃぐちゃで……何が何だか……」


 「当然です。混乱なさっているのも無理はありません。

 ゆっくりと順を追ってご説明いたします。どうか焦らずに聞いてください」


 セトの声音は落ち着いていて、どこまでも丁寧だった。まるで自分の動揺ごと包み込もうとするように。

 マナは深く息を吸い、彼の言葉に耳を傾ける準備をした。

 セトはベッドの横の椅子に静かに腰を下ろすと、少しだけ目を伏せて口を開いた。


 「まずは……あなたを私たちの都合でこの場所に呼び寄せてしまったこと、

 本当に申し訳なく思っています。」

 

 静かな声だった。けれどその言葉のひとつひとつに、確かな誠意がこもっている。

 マナは言葉を返せず、ただ黙って聞き続けるしかなかった。


 「……あなたを迎えたこの地は、ラーデンリア王国と申します。

 この国には、セリオス・ヴァレア・フリュゲル・ディアマ・ノエリアという五つの大神殿があり、それぞれが“光・水・風・大地・炎”という五つの神聖な力を担っています。

 その中でもここ、セリオス神殿は五大神殿の中枢であり、聖女をお迎えする儀式を行う、もっとも重要な聖域です。

 ……ですが、この世界には、常に“魔”の脅威がつきまといます。

 魔物と呼ばれる存在は、人知れず森や山、時には人の近くにまで現れ、日々人々の平穏を脅かしております。」


 セトは姿勢を正したまま、目を伏せて、言葉を選ぶように静かに語りを継いだ


 「遠い昔、神の導きによって現れた“聖女”は、五つの神殿に祀られた“結界石”に、自らの膨大な魔力を捧げました。

 その魔力は、それぞれの神殿の性質に合わせて安定し、結界として国全体を包み込むように張り巡らされました。

 以来、王国は魔物の侵入を防ぐ“守り”を得て、平穏を保ってきたのです。」


 「……聖女……?」


 聞き慣れないはずの言葉なのに、その響きに妙な重さを感じた。

 セトは、マナの表情をそっと見守りながら、静かに続ける。


 「聖女の魔力は、この世の理を超えた“祈り”の結晶のようでした。

 ひとたび結界石に注がれれば、それは百年もの時を超えて国を守る礎となったのです。」

 

 彼の声は祈るように穏やかで、語る言葉にはひとつひとつ、確かな重みが宿っていた。


 「そして――百年が過ぎ、結界の力が薄らぐたびに、またひとり、神に選ばれし聖女が現れ、

 魔力を注ぎ込む。

 そうしてこの国は、幾世代もの平穏を繋いできました。

 聖女は祝福の象徴であると共に、時に国そのものを守るための最後の“礎”となる存在なのです」


 セトは話を続けた。


 「ところが近年、各神殿の結界石が急速に力を失い始めました。

 本来であれば百年は保つはずの力が、わずか二十年程で限界を迎えようとしているのです」


 「そう、なんですか……」


 「はい……明確な原因はまだ掴めていません。

 ですが、各地の結界石の力が徐々に弱まりつつあります。

 本来なら、神域には一切入り込めないはずの低級魔物が、最近になって境界付近に姿を現し始めました。

 おそらく、魔の気配を遮っていた力が薄れ、本能的に“隙間”を感じ取っているのでしょう。

 このままでは――いずれ、さらに上位の魔物達も結界を越えてくるでしょう。放置すれば、王都さえも脅威に晒される日が訪れます」


 セトの語気は抑えられていたが、その言葉の重さは痛いほど伝わってきた。


 「……それで……どうして、わたしを……?」


 問いかける声はかすかに震えていた。理解よりも、戸惑いが勝っていた。

 セトは静かにうなずき、息を整えるように目を伏せてから、静かに口を開いた。

 

「……私たちは、この王国のあらゆる地より、力を持つ者たちを選び、聖女候補として迎え入れました。

 しかし――その誰もが、結界を支えるには力及ばず、神の御業を継ぐには至りませんでした」


 淡々と語られるその事実には、悔しさも焦燥もにじませぬ、厳かな響きがあった。

 

 「だからこそ、我々は決断したのです。

 ――かつてこの国を救った“聖なる異邦の乙女”と同じく、再び異世界より、

 真に聖女たる存在をお招きするべきだと」


 その瞳が、まっすぐマナを見つめる。

 運命を選んだのではなく、求められたのだという現実が、言葉よりも強く胸に迫った。

 マナはふと、胸の奥をかすめた疑問を、唇に乗せた。


 「……わたしの前にも……異世界から来た聖女が、いたんですか?」

 

 問いかけは、かすかに震えていた。

 それは恐れではなく、自分が立たされている場所の重さに、ようやく気づき始めた心の震えだった。

 セトは静かに頷き、穏やかな声で語り始める。


 「……今から二十年前。結界石の力が弱まり、

 この国が深い闇に覆われかけた時――ひとりの少女が、遥か遠き魂の座より召喚されました。

 彼女の名は“聖女サクラ”。聖女として召喚された彼女は、五つの神殿に祀られた結界石へ、自らの聖なる力を捧げたのです。

 彼女が授けたのは、すべてを焼き払う太陽のごとき断罪の光と、傷を癒し心を包み込む月のごとき静かな癒しの力――。

 その二つの光が、結界石に再び力を与え、魔を退け、国を守る護りとなりました」


 (サクラ……?)


 和風の響きを持つその名に、マナの胸が高鳴った。

 

 「そして最後には――魔の頂に立つ黒き覇王、黒帝ヴァルザを自らの身に封じ、光と共に消滅しました。

 赤子だった私の記憶には残っていませんが……神殿では今も、彼女の行いが語り継がれています」

 

 セトの、その語り口の端々に、聖女という存在への静かな敬意が感じ取れた。


 「我らが行った召喚の儀式は――

 五大神殿の祝福のもと、“光の理”に最も調和する魂を、世界の彼方より呼び寄せるものです。

 条件はただひとつ。闇を退け、結界を支えるに足る、純粋かつ強靭な“光の素質”を内に秘めていること。

 儀式は人の意志で導くものではなく、選ばれるのは常に“力にふさわしい存在”。

 そして――次の“聖女”として選ばれたのが、あなたでした。あなたの中に息づく高密度の光の魔力は、極めて稀有であり、この王国を蝕む魔の気配に抗し得る、唯一の希望たり得ると私たちは確信しています」


「……わたしが……?」


 セトの言葉を、頭では理解しようとしても、心がついてこない。

 ごく普通の女子高生として生きてきたはずの自分に、そんな力があるとは思えなかった。


 「……いきなりこんなことを言われて困惑されると思います。

 けれど、今この国が置かれている状況を、そして――あなたの力を必要としていることを、

 どうか知っておいてほしいのです。」


 セトはそう言って、ほんのわずかに眉を下げた。

 マナは、まるで自分の意志とは関係なく歯車が動き始めているような感覚に襲われていた。

 マナは膝の上で指を組んだまま、しばらく黙っていた。

 言葉を選び、何かを押し込めるように、唇をきゅっと結んでいる。

 それから、ぽつりと尋ねた。


 「……元の世界に、戻ることは……できますか?」


 その声には、期待と不安が同居していた。

 セトは少しだけ目を伏せ、ゆっくりと首を振る。


 「……結論から申し上げますと、極めて困難です」

 

 マナは目を見開いた。


 「……召喚は、一方通行なのです。

 この国の命運をかけた最後の大儀――五大神殿の力を一度に解放し、結界石そのものを“門”として用いた儀式でした。

 呼び出すために費やされた魔力は、召喚後すぐに結界の再構築に転用され、今はもう戻す術がありません。

 そして……帰すには、召喚の数十倍にも及ぶ魔力と、“世界と世界を結ぶ術式”の完全な再構築が必要です。

 そのためには、五大神殿の結界をすべて解除し、この国の守りを自ら手放すしかない。

 ……今、それを選ぶことはできないのです。この国に生きるすべての人々を、あまりに無防備なまま、脅威の前にさらすことになる――」


 淡々と語られる言葉のひとつひとつが、心に沈んでいく。まるで扉が閉じる音が、頭の中で響いた気がした。

 マナは目を伏せ、小さく息を吸い込む。

 

 「……じゃあ、わたし……もう、帰れないんですね……」


 その言葉には、誰かを責めるような響きはなかった。

 ただ、静かに――ゆっくりと崩れていくような哀しみだけが滲んでいた。


 「……申し訳ありません」


 セトの声は低く、痛みを含んでいた。

 マナはかすかに笑って首を振った。

 

 「……わたし、ちょっと……気持ちが追いついていなくて。

 何て言えばいいのか……わからなくて」


 言葉が途切れ、視線がベッドの縁に落ちる。

 滲んだ涙が、今にもこぼれそうだった。必死にこらえるその姿に、セトは思わず息を止めた。


 「……少しだけ、ひとりにしてもらってもいいですか……」


 セトは一瞬だけ目を伏せ、それから静かに頷いた。


 「わかりました。

 今後、マナ様の身の回りのことは巫女のリリーが担当いたします。

 お困りのことがありましたら、どうぞ遠慮なく彼女にお申しつけください。

 私も、このセリオス神殿内に常駐しておりますので――何かございましたら、いつでもお声がけください」


 セトは深く頭を下げ、静かに部屋を出ていった。

 扉が閉まると、部屋の空気が少し重くなったように感じた。

 マナは膝を抱えて、ゆっくりと目を閉じた。


 (なんで、こんなことに……)


 ほんの少し前まで、自分は確かに日常の中にいた。

 学校の準備をして、駅に向かって、朝練後のお母さんのおにぎりを楽しみにして――

 いつもと同じ……一日が始まるはずだったのに。


 「……お母さん……」


 小さな声が、静まり返った部屋に溶けていった。


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