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28.セリオス神殿・中庭のひととき

 セト・ロセッティは書斎で一通の手紙を読み終えると、静かにそれを畳んだ。

 それはノエリア神殿神官長、ルカからの私信だった。


 ――聖女マナ様に関わる件で、できるだけ早く来てほしい。この地に“聖女と深い関係を持つ存在”が現れた。


 淡々とした文面の奥に潜む、確かな切迫感。

 セトは手紙を胸元に収めると、静かに立ち上がった。

 歩みを進め、中庭に面した回廊へ出る。

 春の陽射しが白い石畳を照らし、草花の香りが風に乗って流れていた。

 ふと目を向けた先――

 花壇の前には、マナとリリーの姿があった。

 マナは淡い紫の花に指を伸ばし、そっと触れて微笑んでいる。

 その傍らでリリーがしゃがみ込み、小さな虫を追い払っていた。


 「マナ」


 呼びかけると、マナがこちらに気づき、少しだけ表情をほころばせた。


 「少しだけ、お時間いただけますか? あちらで、お話でも」


 セトが指差したのは、中庭の一角にある小さなテラス席だった。

 白い石のテーブルと、蔦の絡まるアーチ。風に揺れる布のひさしが、陽をやわらかく遮っている。

 マナは「はい」と頷き、リリーに小さく目を向けた。

 それを見て、セトが続ける。


 「リリー。お茶を、ああ、できれば……彼女の好きな紅茶で」


 「わかりました、すぐにお持ちします」


 リリーはにこりと笑って小さく一礼し、軽やかな足取りでテラスを離れた。

 セトはマナと並んで席に着くと、少しの沈黙のあと、静かに口を開いた。


 「実は、これから数日ほど、神殿を留守にすることになりまして」


 マナの眉がわずかに寄る。


 「……どこかへ、行かれるのですか?」


 「ええ。ノエリア神殿へ。少し、大事な用件がありまして。すぐ戻ります。長くはかかりません」


 その言葉に、マナの表情がほんのわずかに曇る。


 「……そうなんですね……」


 セトはその様子を見て、一瞬だけ胸の奥に言葉がせり上がるのを感じた。


 (……今、そばを離れるべきじゃないのかもしれない)


 そんな思いが、声にはならず、呼吸の奥で静かに沈んでいく。

 だがセトは顔色ひとつ変えず、いつもの穏やかな口調で続けた。


 「大丈夫。マナのことは、大神官カリオン様にお願いしてあります。信頼できる方です」


 「……カリオン様……」


 マナはその名を繰り返すように呟き、視線をそらした。


 (カリオン様……少しだけしか接したことがない。優しそうだけど、どこか近寄りがたくて……)


 マナの指先がそっと膝の上で握られる。

 その小さな不安の動きを、セトは見逃さなかった。


 彼は一瞬だけ迷い――けれど、迷いのままに、そっとその手の上に自分の手を重ねた。

 優しく、けれど確かな体温で。


 マナは驚いたように目を見開いた。

 けれど、振り払おうとはしなかった。ただ、そのぬくもりに、ほんのわずか指先が応える。

 セトはかすかに目を伏せたまま、言葉を選ぶように口を開く。


 「……そんなに心配しないでください。ほんの数日で戻りますから」


 その声は、いつも通り穏やかで落ち着いていた。

 マナは数秒の沈黙ののち、そっと微笑んだ。

 どこか照れたように目を伏せながら、小さく頷く。


 「……はい。気をつけて、行ってらっしゃいませ、セト様」


 彼女の声は、まるで春先の風のようにかすかで、あたたかだった。

 セトはゆっくりと手を離すと、柔らかな視線をマナに残し、立ち上がった。

 そこへちょうどリリーがお茶を運んできて、白い石のテーブルに湯気を立てる紅茶を並べる。

 セトは軽くリリーに頷いてから、ふたたびマナの前に頭を下げる。


 「……では、行ってまいります。マナの心が、穏やかでありますように」


 「……はい。セト様も、どうかお気をつけて」


 その声には、ほんのかすかに、名残惜しさが滲んでいた。

 その言葉を残し、セトは静かに背を向けた。

 白い法衣が風をはらみ、やがて中庭の光の中へと消えていく。

 マナはその背を見送りながら、胸の奥に残ったわずかな温もりにそっと手を添える。


 ――何だろう、この感じ。


 遠くなっていく背中を見つめながら、マナはふと、小さく息を吐いた。

 

 そして――

 数刻後、セリオス神殿の白い石門が開かれ、セト・ロセッティは東の地を目指して旅立った。

 青く晴れた空の下、彼の法衣が風に揺れながら、まっすぐに消えていく。

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