旅立ちと餓鬼の侵攻①
豪壮な扉が、大きな音を立てて開かれた。
王と、居並ぶ者達は話を中断させてその音の方へ首を向けた。そこには、扉を両手で開けたらしい、汚れた旅装に身を包んだ男が立っていた。
男は千鳥足で部屋に二、三歩踏み込んできた。しかし、王や自分を見つめる者達の顔を見て、背筋を伸ばし、しっかりとした足取りで部屋を縦断し始めた。
部屋の中央には剣が根元まで刺さっており、男はそれを見るとスッと進路を逸らせた。そして玉座のある階段の下で跪いた。
「我が聖明なるシシアーネ陛下に申し上げます。つ、遂に我が国にも、魔物が出現しました」
その報告を聞き、玉座でつまらなそうに顎を拳で支えていた王の右の眉が持ち上がった。
「馬鹿な事を言うな。我が国にそのような事が起こる訳がないではないか。愚劣な王が治める下劣な国とは違うのだ」
「はっ、しかし……」
「陛下のお耳に虚偽の情報を入れるでない。下がれ!」」
居並ぶ者の中で、王の最も近くに立っていた者が、階段を一段下りて跪く男に雷声を浴びせ掛けた。すると男は首をすくめ体を縮ませた。
「よい。その者を責めても状況が変わる訳ではなかろう。話させてみよ」
「はっ。陛下の深い懐に恐縮致します。おい、話せ」
旅をしてきた男は俯かせた顔を怒りで歪ませた。直後顔を上げたが、その顔には怒りは表れていなかった。
「恐れながら申し上げます。北東の村“ギサーラ”に魔族が現れ、住民を……くっ、食っているとの報告がありました。容姿から“鬼”なのではという噂で、我が部隊が事実確認に向かい、付近の森を探索しました。情報通り魔族が現れ、部隊は壊滅。私は報告の為に日に夜を継いでやってきました」
王以外の者達は沈黙し、彫像のように動きを止めた。男のもたらした情報を、信じたくないのと衝撃を受けたのとの両面からだろう。
再び入口の扉が開いた。しかし、今度は音も立てずにゆっくりと。その為、凍り付いた者達は誰も気付いていなかった。
「陛下、その者の言う事は真実です」
ガラスを叩いたかのような高くて済んだ声が室内に響いた。部屋の者達は全て、正対している王以外は、体をビクッとさせて振り返った。
廊下に溢れる光を背景に、床に触れる程長いベールを被った、女性が立っていた。その後ろには女性と同じような格好をした、ベールは被っていない、四人の女性が控えていた。
「御覧下さい」
女性は白くて細い指で、部屋の中央に刺さっている剣を指差した。
「“精剣ディローム”が輝いております」
その言葉通り、剣の鍔に嵌められている赤い宝石が輝いていた。剣には光一筋も当たっていないのに。
女性の言葉に気付かされたのか、剣を見た者達は恐怖と驚愕の声を上げた。
「皆様もご存じの通り、精剣ディロームは我が国に魔界からの脅威があった時に輝くものです。そこの人が言った事は真実でしょう」
室内に静寂が訪れた。しかし王だけは気怠そうに溜息を吐いていた。
「しかし、恐れる事はありまぜん。精剣が輝いたという事は、勇者の出現もまたあったという事です。その勇者に我が国を救って貰いましょう」
垂れ込める恐怖を無視しているのか、女性は何でもないかのように涼しい声で言った。
「そうだったな。巫女よ、その勇者は何処に居る? すぐに連れてきてくれ」
階段上の男が言った。人を使役するのに慣れた口調であったが、微かに震えていた。それに気付いたのか、巫女はベールの中で微笑んだ。
「宰相閣下、お任せください。その為に参りましたので」
言い終えるや巫女は水が流れるように中央に進んできた。そして精剣ディロームの前に来ると膝をつき、指を組んで目を瞑った。
「剣に坐します精霊ディロームよ、私達に勇者の居場所をお示しください」
巫女がそう言うと、剣の赤い宝石が強く輝いた。その光は収束して巫女に向かった。直後、巫女の額に赤い光点現れた。
巫女は鞭打たれたかのように一瞬のけ反り、カッと目を開いた。その目は何も映していなかった。
「勇者の存在を感じます。これからすぐに探して参ります」
巫女はスッと立ち上がり、どこかぼんやりとした声を発した。そして出入口の方へ向き直るとゆっくり歩き始めた。
「すぐに巫女に馬車を用意させろ」
宰相が怒鳴って指示を出した。すると部屋の陰に控えていた三人の小姓が、大慌てで部屋を駆け出していった。
巫女は四人のお供を連れ、しずしずと王宮正門へ向かった。この巫女は城内でも神聖視されているらしく、一行の前を横切る者は誰も居なかった。
既に四頭立ての馬車が用意されており、巫女は当然のように乗り込んだ。お供の三人が一緒に乗り込み、残りの一人は馭者台に座った。
「お願いします」
馭者台に座ったお供が馭者に言った。すると緊張で顔を強張らせた馭者は、すぐに馬に鞭を入れた。馬車はゆっくりと動き出した。
辻や分れ道来ると、馭者台に座ったお供が巫女に声を掛ける。瞑目していた巫女は俄に目を開き、進むべき方向を口にする。このようなやり取りが何度か続いた。
ある町の入口にやってきて、巫女は馬車を降りた。初めて来たであろう町の筈なのに、巫女は真直ぐ前を向いたまま、確かな足取りで進んでいった。
目的地まで馬車で乗り付けた方が早い気がするが、お供の四人は異論を口にしなかった。
町の者達も一行が放つ荘厳な空気に息を飲んだ。一行を遠巻きに眺め、やはり一行の前を横切る者は居なかった。
巫女は一軒の家の前に立った。そして虚ろな目と感情の無い顔で進み出て、ドアノブを掴んで回した。
≪……。
傷付いた勇者は仲間の医師に言った。
「血を止めてくれたらいい。早く戦いに戻らなければ」
「分かっている。しかし慌てて出ていって大技が出せない方が困るだろう」
そう言いながらも医師は手を動かし、血が流れ出す右腕に薬を塗り、包帯を巻いた。見事に勇者の出血は止まった。
「やるな。よしっ、世界を救ってくるぜ」
勇者と医師は拳を合わせた。こんな状況なのにも関わらず笑顔も交わした。
「待たせたな」
「遅かったな。と言っても私を庇っての負傷だからな。感謝する」
「お互い様だ。二十秒、集中する時間を稼いで欲しい」
その時周囲が炎に包まれた。しかしどうやら2にんは熱さを感じていないようだった。
「ちょっと、こんな時にお喋りなんてしてないでよ」
女魔道師は全身を魔法の光に包みながら言った。彼女の力が無ければ、勇者一行は炎で焼かれていただろう。しかし彼女から怒りや危機感は感じられない。仲間を、いや勇者の力を信じているのだろう。
「ああ、悪かった」
「でも、二十秒耐えたらいいのね。絶対決めてよね」
「ああ、任せとけ」
勇者は軽く請け合ったが、目は真剣だった。
「それじゃ、行くわよ」
魔道師は戦士に声を掛けた。二人は頷き合い、魔王に向かって走った。
魔王は黒ずんだ火炎玉を投げ、戦士と魔道師を近づけまいとしてきた。しかし戦士は華麗にそれをかわし、魔道師は冷気の魔法で応戦したのだった。
その間に、勇者は顔の前に剣を垂直に立て、目を瞑って鍔に嵌っている宝石に祈りを奉げた。
魔道師の足下から雪と氷が逆巻いた。手を動かすと、それと連動して白い竜巻が身をくねらせて魔王に襲い掛かった。
「剣を!」
魔道師が叫んだ。意を汲んだ戦士は、己が持っている両刃の大剣の切先を魔道師の方へ向けた。
死闘の最中だというのに魔道師は笑い、複雑に手を動かした。その刹那戦士の大剣の鋼が白くなり、氷が混じった靄をまとった。
戦士もニヤリと不敵に笑った。大剣を正眼に構えて魔王へ向かって駆け出した。魔王も戦士を近づけまいと火球を投げてきたが、戦士はそれを切った。
左右から攻撃を受け、魔王は防戦一方になった。しかも戦士と魔道師が目まぐるしく位置を変えるので対応に追われ、徐々に両者の間合いは詰まっていった。
先程まで湛えていた余裕は消え、魔王は防戦に必死になっていた。
戦士の大剣の切先が届くまでになり、服を切り裂き、肌に細い線を付けた。魔王は焦りで顔を歪めた。そして、腰に吊るしている剣に手を伸ばした。
その刹那、魔王の指に白雷が絡みついた。魔王は痛みに顔をしかめて手を引いた。魔道師が放った雷の魔法が襲ったのだ。
魔王の攻撃の間隙が出来た。戦士はそれを見逃さなかった。戦士は魔王の胴を両断せんと大剣を横薙ぎにした。
さすがに魔王も顔を青くして体を捻った。辛くも戦士の大剣の切先から逃れた。ただ、魔王は剣を腰から失う事になった。
「今だ!」
戦士と魔道師が同時に叫んだ。
後方に控えていた勇者の剣が白く輝いていた。そして勇者はゆっくり目を開いた。その目には自信が漲っていた。
「ありがとう。準備は整った」
口にするや勇者は駆け出した。獅子のように力強く、鹿のように華麗で、鷹のように素早かった。
魔王、戦士、勇者が一直線に並んだ。勇者は真直ぐに進んだ。そして戦士の背中にぶつかると思った瞬間、戦士が振り向いた。
二人は笑顔を合わせた。直後勇者の体が宙に舞った。戦士が土台となり、勇者を打ち上げたのだ。
その高さは人の力で飛翔出来るよりずっと高かった。それもその筈、魔道師が風の魔法で補助をしていたからだ。
勇者が最高点に到達するのと、剣を振り上げるのが同時だった。剣が一層強く輝いた。
「神気一閃!」
掛け声と同時に勇者は剣を振り下ろした。剣閃が魔王の左肩から右腰に抜けた。
魔王に刻まれた白い線が拡がっていった。そして魔王は耳を塞ぎたくなるような、恨みと恐怖が混ざった断末魔を残し、光となって消滅した。
勇者一行は魔王を滅し、人々の世界に平和と安寧をもたらした。≫
これは勇者の物語。
青年は古びた革装幀の本を引き出しにしまい、ノートを持ってカウンターを出ていった。
店内には本棚がいくつもあり、中にはぎっしり本が詰まっていた。青年はノートと本棚の間に目を往復させていた。どうやら本の在庫を調べているのだろう。時折顔に指を伸ばし、ズレた眼鏡を直しながら。
店内には青年以外に誰もおらず、とても静かだった。ただ青年の革靴と石の床がぶつかる音が響いているだけだった。
無言で青年は歩いていき、店舗の入口の方へ近付いていった。その時、両開きの扉が内側に向かって開いた。激しい音を立てて。
「いらっしゃ……」
青年はチラリとそちらに目を向け、諦観のこもった溜息を吐いた。
入口に、長い髪の毛を後ろで一つに束ねている女性が立っていた。右足を上げている事から、扉を足で開けたのだろう。
「ロイ、お待たせ」
ロイと呼ばれた青年は最前より重い溜息を吐き出した。
「ハァ……、カナか……。ドアは手で開けてって、いつも言ってるだろ」
「仕方ないでしょ」
自分を正当化するかのように、カナと呼ばれた女性は両手を上げた。右手にはお盆、左手には金属製のポットを持っていた。
「あんたのお昼持ってきたんだから。ホラ、早く奥へ行って」
カナにせっつかれ、ロイは渋々カウンターに戻った。そしてカナはその上にお盆とポットを置き、お盆に伏せられていた半球形の金属カバーを持ち上げた。
中には白い麺に肉と野菜を乗せた料理が入っていた。ロイは添えられていたフォークを手にして料理を口に運んだ。
「どう?」
「うん、美味いよ」
「当たり前でしょ。あたしが作ったんだから」
カナは豊満な胸を誇示するかのように上体を反らせた。
「でもさ、あんた好き嫌い治そうとしないの? あんたの事知ってるあたしが作るからいいけど、外じゃ食べる時困るでしょ?」
「うん、そうかもしれないけど、外で食べるの好きじゃないから問題無し」
話しながらもロイはフォークと口を止めなかった。
「でも、あたしが居なくなったらこまるでしょ?」
「うーん、それも大丈夫かな。自分で料理も出来るしね」
「ロイ、そこは困るって言え」
そう言われ、ロイは顔をハッとさせた。口では強がっていたが、食事はとても美味しく、意識がそちらに取られていたのだった。
「そうだったかも……」
するとカナは頬を膨らませ、鼻から強く息を吐き出した。しかし、その表情を見る限り本気で怒っている訳ではないようだった。
「それにしても、相変わらずあんたのお店はヒマそうね」
誰も居ない店内を見回しながらカナは言った。
「仕方ないんだよ。ウチのお店は大衆的な本はあまり置いてないから。それに、ちゃんとお客さんだって来るよ。今丁度お昼だから、暇そうに見えるだけで。それに、カナが来るのだっていつもお昼だろ」
「そうね。こんな辛気臭いお店で本を探すより、家でご飯食べてる方がいいしね」
自分の大好きな店と本を馬鹿にされていると感じ、自分に対する悪態の時は見せなかったのに、ロイはあからさまにムッとした。
「カナ、君のお店は忙しい時間なんだろ。用が済んだら帰ったら。それとも、凶暴な店員が居るって噂が立って、昼時でも暇になったのかい?」
「忙しいわよ。あんたのお母さんに頼まれてるからこうして毎日持ってきてあげてるんでしょ。もういい、帰る」
さすがにカナも怒ったらしく、頬を膨らませ、石の床を踏み鳴らして出入口へ向かっていった。ロイも食べる手を止め、カナが出ていくまでとそっぽを向いた。
その時、時突然扉が開けられてロイは振り向いた。カナは立ち止まり。小馬鹿にしたような笑いを見せていた。
「ロイ、もの好きなお客さんがご来店よ~」
声を掛けられ、ロイは食事を客の目の届かない場所に隠した。ポットからお茶をカップに注いで一口飲んだ。
ロイは視線を上げ、徐々に開かれて外から入ってくる光が拡がる扉を見つめた。ただ『いらっしゃいませ』という言葉は飲み込んだ。
入口に立っていたのが、長いベールを被った見知らぬ人物だったからだ。更に、その身から放たれる神々しい雰囲気も手伝っていた。
ベールの女性は後ろに四人の女性を率いて進んできた。カナも尋常ならざるものを感じたのであろう、本棚に背をくっつけて道をあけ渡した。その顔は強張っていた。
ロイは金縛りにでもかかったかのように動けなかった。五人の女性が近付いてくるのを、額に汗を浮かばせながらただ見つめていた。
ベールの女性がロイの目の前にやってきた。ベールの奥の顔は皺一つ無い年齢不詳で、淡い紫色の目には感情が一片も無かった。それが突然消失した。
驚いたロイは目を丸くした。
「私は精霊ディロームに仕える巫女です」
下方から声が聞こえ、ロイは合点がいった。カウンターに手を掛けて下を覗き込んだ。案の定巫女が石の床に膝をついていた。
「あなたは新たに勇者に選ばれました。一緒に王宮へいらしてください」
巫女の発言に驚き、ロイは言葉を失って口をあんぐり開けた。それは少し離れた所に立っていたカナも同様だった。
すると巫女がスッと立ち上がり、ロイの方へ手を伸ばしてきて『さあ』と同行を促してきた。
「えっと、いや、あの、僕がですか? 僕はただの本屋ですよ。そんな勇者に選ばれる筈がないと思うんですけど……」
自分の言葉を否定されたにも関わらず巫女の表情は変わらなかった。
「私の中の精霊ディロームの一部が反応しているので間違いありません。信じられないのであれば、王宮で精剣継承の儀を受けてください。もしそこで失敗すれば。勇者とは認められませんので」
「いや、でも、僕は店番があるので……」
「安心してください。勇者の試練を受ける際には補償が出ます。さあ、行きましょう」
「あの、でも……」
勇者に選ばれるという事の意味は知っていたので、ロイはどうにか断れないかと理由を必死で探した。
ほんの少し巫女の目が細くなった。初めて感情の動きを目にし、ロイは巫女も同じ人間なのだと安心した。しかし直後の言葉で完全に希望を絶たれたと思った。
「念の為に言っておきますが、王宮への出頭はお願いではありません。この国に住む者達の義務です。手荒な事はしたくありませんので、言葉でこう頼んでいる間に同意して貰えませんか?」
氷の手で心臓を握られたように感じた。ロイは諦め、大慌てで首を縦に動かした。
「それは良かったです。さあ、行きましょう」
言葉とは裏腹に巫女は微笑む事すらしなかった。ロイは肚を決め、巫女の後ろへついていった。
「ロイ……」
隣を通り過ぎる時カナが心配そうな声を掛けてきた。
「大丈夫。僕が勇者なんて、何かの間違いだと思うよ。すぐ帰ってくるから心配無いよ。明日もお昼ご飯お願い。悪いんだけど、父さんと母さんに事情を説明しといて」
機械的に頷くカナを残し、ロイは巫女一行と一緒に町を出た。そしてそこで待っていた豪華な四頭立ての馬車に乗り込んだ。
馬車内にロイ、巫女、巫女のお供が二人、馭者台に馭者と巫女のお供が二人座った。間も無く馬車は動き出し、一路王宮へ向かった。
道中は誰も口を開かず、ロイはとても気詰まりを感じた。その為王宮前に着いて馬車から降りた時、肺に詰めていた空気を思いっきり吐き出した。
すると王宮の階段に待っていた四人の老人が頭を下げた。
「勇者の候補者を連れてきました。準備をさせ、すぐに、玉座の間へ案内してください。私は先に行って、陛下に帰還の報告をします」
そう言うや、巫女はロイに一瞥もくれず王宮の中へ消えていった。ロイは巫女に不満しかなかったが、姿が見えなくなると不安になった。
「さあ、こちらへ」
四人の老人と四人の巫女のお供に促され、ロイも王宮へ入った。そしてある一室で、用意されていた服に着替えた。
キーリエ王国の伝統的な勇者の装束だった。上下の服、ベルト、革のブーツ、マントというものだったが、どれも体格の良い者用に作られたものらしく、ロイにとっては少し大きかった。
「継承が上手くいきましたら、新しく作り直します」
巫女のお供の一人が囁いた。
四人の老人と巫女のお供に囲まれてロイは玉座の間へ続く扉の前にやってきた。
「勇者候補の者、参りました」
老人の一人が声を張り上げた。するとゆっくり扉が開けられた。そして四方に立つ老人と巫女のお供と一緒に、玉座の間へ進んでいった。
広い室内には玉座に座る王、階段に立つ宰相、部屋の中央に立つ巫女の三人しか居なかった。荘厳な雰囲気と、何が起こるか分からないといった恐怖に、ロイの喉は砂漠のように渇いた。
「さあ、こちらへ」
巫女が鈴のような声で言った。ロイはゴクリと喉を鳴らし、慄える足を励まして部屋の中央に向かった。
巫女とロイの間の床には、赤い宝石が輝く鍔まで刺さった剣があった。
「勇者候補者、名前は何という?」
宰相が言った。人に指示する事、人を己の意のままに従わせる事に慣れた声だった。それに対してロイは反発心を持たず、むしろ恐縮してしまった。
「くぁ……、よい。そのような者が勇者の筈は……、いや、勇者でなければ名前を聞くのも無駄だ。早く継承の儀を試させてみよ」
あくびをしながら王が言った。顎を拳で支えていて、目は半分閉じており、ロイに興味を毛程も感じていないようだった。
「やりかたはとても簡単です。柄を握って引き抜くだけです。抜ければ、あなたが勇者であると証明されます。さあ」
自分が勇者に選ばれても、選ばれなくてもどうでもいい。ロイは一刻も早くこの緊張から脱け出したいと思って剣の柄に手を伸ばした。
「ちょっと、待ってください」
小姓が制止するのも構わず、騎士の制服を着た大男が玉座の間に入ってきた。そして王の姿を見るや慌てて頭を下げた。
「陛下の御前だぞ、騒々しい。用件は何だ!」
宰相が叱責した。しかし騎士に怯んだ様子は見られなかった。
「ハッ。私は、我が国に有事があった時勇者に選んで頂けるよう日々鍛錬して参りました。勇者の出現を預言された巫女が出掛け、私ではないと落胆しておりました。やって来たのが屈強な武人であれば仕方ないと諦めるつもりでしたが、実際はこのような……」
明らかに侮蔑の込められた目で見られた。
「いや、失礼。この者の姿を見て私は思いました。私の方が勇者に相応しいのではないかと。どうか、この者より先に精剣継承の儀を私に試させてください。もし成功したら、私を勇者と認めてください」
巫女は表情一つ変えず、何を考えているか分からなかった。それに困ったのか、宰相は振り向いて王を見た。
王は心底どうでもいい様で、興味が無さそうに手を振った。
ロイは胸を撫で下ろした。
「よかろう。では試してみるがいい。時に、お主の所属は?」
「はっ、有り難き幸せ。私はファルコン騎士団の中隊長を拝命しております、ジル・A・ベイアと申します」
ジルの言葉を聞き、宰相の顔が明るくなった。
「ほう、あの勇猛果敢でならすファルコン騎士団の者か。陛下、これは期待出来ますね」
言外に、ロイには期待していないと言っている様であった。
これにも王は何も感じていないらしく、面倒そうに首を縦に動かしただけだった。
王の許可を貰えて嬉しかったのであろう、ジルは顔を笑顔にして進んできた。そして丸太のように太い腕でロイを押し退け、小声で『どけ、小僧』と言った。声には憎しみが込められていた。
しかし、ロイはこれ幸いと飛び退いた。
先程の宰相の言葉、ジルから与えられた不当な扱いにも関わらず、ロイは全く気分を悪くしていなかった。元々勇者になりたいとは思っておらず、むしろジルが横からかっさらってくれるのを期待していた。ジルの方が自分より勇者に相応しいし、彼が先に選ばれてしまえば、自分は重責から解放されると思った。
ジルが剣の真上に立ち、右手を柄に伸ばした。腕の筋肉が強張った。すると余裕の笑顔を浮かべていたジルの顔が、不安そうに変化した。
一度唇を舌で舐め、ジルは両手で柄を掴み、腰を落として剣を引き抜こうとした。息を止め、歯を食い縛り、顔を真赤に染めた。しかし剣は一ミリも持ち上がらなかった。
五分程そうしていただろうか、額から汗を滝のように流していた。そして溜息と共にジルは剣から手を放した。
「どうした、駄目なのか?」
怒りの混じった声で宰相が言った。
「いえ、これから本気でやります」
「選ばれた者でなければ剣は抜けません。残念ながらその者は勇者ではなかったのです。さあ、今度はあなたが試してみなさい」
「はい……」
感情に乏しい声で巫女に促され、ロイは暗鬱に返事をした。しかし、心の中は違って少し浮き立っていた。
何故ならジルが、自分がすればいい事を教えてくれたからだ。一応は剣に手を伸ばし、息を止めて顔を真赤にし、いかにも全力を尽くしたのに抜けなかったという演技をすればいいのだと。
ロイは躊躇いがちに、見えるように、進み出た。そして、恐れている、かのように、剣の柄に手を伸ばした。ロイは奥歯を噛み絞め、息を止めた。
しばらくの間『うーん』とでも唸り、尻餅でもついて『ダメでした』とでも演技すれば解放されると考えた。
その瞬間、何処からか『シャリン』という鈴のような音が聞こえた。
巫女の表情に変化はないが、宰相は目を大きく見開く口を開けていた。そして、王も玉座の肘置きを手で掴み、腰を浮かせてロイを見つめていた。
何が起きたのか分からなかった。しかしロイは自分の体に起きた変化に気付いた。自分の右手が上がっていた。
驚いたロイは右上方に視線を向けた。そこには天を衝くように屹立する白銀の剣があった。そして、それを掴んでいるのは自分の手だった。
素早く足下に視線を移した。当然と言おうか、床に刺さっている剣は無かった。
「おおっ、勇者の誕生だ……」
王が震える声で言った。
「いえ、これは無しで。もう一回やり直させてください。きっともう抜けませんから」
この場に居る者達を説得しようとロイは支離滅裂な言い訳を口にした。しかし誰も耳を貸そうともしなかった。
「精剣ディロームに選ばれた勇者よ、お祝いを申し上げます」
巫女が微笑み、フワリとベール翻してと跪いて頭を垂れた。
このままでは勇者にされてしまうと焦り、ロイも膝を屈して巫女を立たせようとした。
「ラズロ、皆を呼べ。勇者の誕生だ」
茫然自失していた宰相は王に声を掛けられハッとした。そして小姓に指示を出した。すると小姓は大慌てで玉座の間を駆け出ていった。
「勇者よ、名前を聞かせてくれぬか?」
先程は全く興味が無さそうだったのに、ロイが勇者だと分かるや目を輝かせ始めた。そればかりか笑顔すら見せていた。そのあまりの掌返しに、ロイは内心うんざりしていた。
「はい……、ロイ・カメーユです」
すると王の顔が訝しげに歪んだ。
「勇者よ、そなたには先祖から受け継いだ名は無いのか?」
「えっと……、あります」
「やはり! 本名を教えてくれ」
「はい……。ロイ・E・カメーユです」
子供の頃からこの名を口にするのが嫌でたまらなかった。
「ムッ? E? Eとはもしかして……」
「あー、エルフィンです」
ロイがその名を口にした瞬間王が手を打った。その顔は歓喜と期待で輝いていた。今まで何度も見てきたので、『またか』とうんざりした。
「おおっ、そなたは始まりの勇者の血筋であったか。精剣の最初の持ち主だからな。その子孫であれば剣を抜くのも当然か」
ロイは、止められず、こっそり溜息を吐いた。
先祖にエルフィンという勇者が居る。まだ物事の機微が分からない程小さい頃は誇りだった。しかし、過度にかけられる期待、先祖とは違い過ぎるロイに対する嘲笑に気付くようになると、エルフィンの名は重荷でしかなくなった。それ故にロイはいつも隠していたのだった。
王の反応はそれらの者達と同じようだった。
そうこうしている間に玉座の間には貴族達が集まってきた。彼等はロイを珍しそうに眺めてきた。ロイは良い気持ちがしなかった。
「陛下、儀式を続けたいと思います」
ザワザワする中巫女の凛とした声が響くと、王でさえ口をつぐんだ。
「う、うむ。そうしてくれ」
「はい。それでは精霊移譲を行います。勇者ロイよ、剣を見せてください」
巫女にそう言われ、ロイは右手で柄を握り、左手で刀身を支えて精剣ディロームを巫女に向けた。
巫女は一度目を瞑り、目を開くと右手の人差し指で剣に嵌められている赤い宝石に触れた。その瞬間、宝石の輝きが強くなった。
「これで私の中にあった精霊の力の欠片は精剣に戻りました。陛下、ロイ・エルフィン・カメーユを正式に勇者に任命してください」
巫女にそう言われると王は玉座から立ち上がって階段を下りてきた。そしてロイの立つ床より一段高い所に立ち、小姓が運んできた黒い革を貼った鞘を受け取った。
「ロイ・エルフィン・カメーユよ、お主を我がキーリエ王国の勇者に任命し、この鞘を与える。国民を徒に傷付けないようにこれに剣を納め、危機に対しては鞘を取り払ってそれを除くように」
王が差し出した鞘を恭しく受け取り、剣をそれに納めた。それと同時に室内で歓声と拍手が轟いた。
「ラズロ、勇者に旅の資金を」
そう言うと王は玉座に戻っていった。すると王に代わって宰相が進み出てきた。
「我が国の法に則り、勇者ロイに二十万ザラを与える。これを使い、我が国の危機を祓ってくれ。現在我が国は北方のギサーラの村が魔族の侵攻を受けている。そこへ向かい魔族からの被害を失くすのがこの度の任務だ」
居丈高に言う宰相の言葉を俯いて聞き、ロイは一拍置いて『はい』と返事をして玉座の間の出口の方へトボトボ歩いていった。文武百官の雨のような拍手を浴びながら。
玉座の間の敷居を越え、ロイはハッとして振り向いた。そして、したくもなかったが、儀礼的に室内の者達に頭を下げた。
既に扉が閉まりかけていて、その隙間から玉座の間の中央に新たな剣が刺されようとしているのが見えた。直後扉は完全に閉じ、ロイは誰に憚る事なく溜息を吐いた。
廊下に出ると、そこにはロイが出てくるのを待っていた者達が居た。彼等はすぐにロイを囲んできたので、ロイは面食らってしまった。
「勇者殿、私は魔族に対抗する武器の開発をしております。援助を」
「いや、私は魔法の開発中です。私の方に資金援助をお願いします」
「私は人間世界と魔界を行き来する方法を研究中です」
「魔族と対するには人や物の量が重要。新しい輸送法が頭にある私に是非」
「勇者様に万が一の事があった時の為、私は医療が重要だと思います。医学と薬学を研究しております。私に援助してください」
勇者の権限の一つに、興味のある分野に王国の資金を投資するというものがある。この五人の博士は自分の研究に資金を出して貰えるよう、ロイに陳情しに来たのだった。
この制度を知らなかったロイは混乱してしまった。どうしてよいか分からず、ロイは言葉を濁してその場から逃げた。
「勇者様、お待ちください」
声を掛けられてロイは足を止めた。それはロイを迎えにきた四人の巫女のお供だった。
「どちらへ行かれるのですか?」
「あの、とりあえず帰ろうかと」
「これから王宮前広場で、国王陛下による勇者のお披露目がありますよ」
ロイは背中が寒くなった。元々静かに暮らしたいと思っているロイは、人に注目されるなど考えるだけで恐ろしかった。
「そんなのお断りします。こっそりその……ギサーラへ向かいたいんです。
それには出ないといけませんか?」
すると巫女のお供の一人は少し悩んでから口を開いた。
「義務ではなかったと思うので可能かと。前例もありますので、私から巫女様に、巫女様から宰相に伝えて貰えばいいと思います」
衆人の目に晒され、何処に行っても落ち着かなくなるのは嫌だった。それが回避出来そうになり、ロイはホッと安堵の息を吐いた。
「それでは、気を付けてお出かけください」
四人は合わせたかのように同時に頭を下げた。
「ありがとうございます。いやいや、ちょっと待ってください。この格好で外に出たら勇者ってバレちゃうじゃないですか。ここに来る時に着てた服に着替えさせてください」
立ち去ろうとする四人を必死で呼び止めるロイに対し、四人はキョトンとした顔で立ち止まった。
「着替えるんですか? 勇者である事が分かれば、色々と優遇されると思いますけど……。何処にでも出入り出来たり……」
「とりあえず、家に一回帰って準備をします。その後優遇されたらいいです。僕はとにかく目立ちたくありませんので」
四人はロイの言葉をとりあえず理解し、着替えの出来る部屋に案内してくれた。そして王宮の裏口からロイを出してくれた。ただ四人は、ロイと気持ちを全く共感していないような顔をしていた。
ロイは粗末な服を身に付け、勇者の服は袋に入れ、精剣は布に包んで王宮を後にした。そして重い足を引きずり、三日かけて産まれた町へ帰っていった。
町に着くと、ロイは旅に必要な食糧、テント、寝袋、革の鎧、革の盾、革の兜を買って家に戻った。家が見える所までやって来て、ロイは驚きで足を止めた。
何と家の前には五人の女性が居たのだ。誰もが妙齢で、何故か顔が上気していた。そして母親が店の扉の前に立ち、ニコニコしながら女性達に対応していた。
ロイは気配を極限までに消し、店の裏口から中に入った。そして自室に戻り、使い慣れたベッドに横になった。精神も体も疲れていたらしく、目を瞑るや寝てしまった。
「うわっ、帰ってたの?」
母親の声でロイは目を覚ました。そして驚いてガバッと体を起こした。
「ああ、母さん、ただいま」
「あんた、勇者に選ばれたんだってね」
「……、やっぱり知ってるんだ……」
「うん、王都から早馬が来てあんたの名前を町中にふれ回っていったよ」
自分が考えうる限りで最悪の状況になったと知ったロイは、母親の言葉を聞いて重く長い溜息を吐き出した。
「でもさ~、勇者の母親ってやっぱりいいよね。隣の奥さんもさ、『あのロイ君が勇者に選ばれたんですね。子供の頃から違うと思っていたわ』なんて言っちゃってさ、私も鼻が高かったわよ。あなたも大勇者の血を引いてるんだから、自信持ちなさい」
「勇者の血? バカバカしい。そんなの全然珍しくないじゃん」
ロイはむくれて言った。
「そうよ。だからさっきの娘達も来てたんじゃない。皆そうしてきたんだから、出発を二日位遅らせて楽しんでいったら、あんたも男なんだから。戻ってくるまでもあっただろうし、これから先もちやほやされるんじゃない?」
母親の話を聞いてロイの顔が赤くなった。それは怒りではなく、恥ずかしさからであった。
「いや、僕はそういう事はしないから。それに、親がそれを勧める?」
「ん~、それも勇者の特権だからいいんじゃない。それに、あんたが功績あげたら、子供達も鼻が高いでしょ」
「僕は鼻が高くないよ」
「ま~、あんたはね。あっ、もしかしたらカナちゃんも来るかもよ?」
母親はニヤニヤしながら言った。
「カ、カナは関係無いじゃん。明日早朝に出るからもう寝る。出てって!」
追い立てられるように出ていった母親であったが、その顔は怒っていなかった。
身に降りかかった理不尽さに怒り、これから自分を待っているものに不安を覚え、ロイはベッドに横たわって身悶えした。そして、いつしか眠りに落ちてしまった。
部屋のドアが軽快に叩かれた。微かな物音であったがロイは飛び起きた。相当神経が過敏になっていたのであろう。
ロイはハッとして周りに目を向けた。十八年起居してきた家だと思い、ホッと胸を撫で下ろした。窓の外の空は夕暮れで青紫に染まっていた。
「何?」
「お客さんだよ」
また噂を聞きつけて集まった女性だろうと思った。
「また来たの? 帰って貰ってよ」
「昼間の人達にはもう出発したって言っておいたわよ」
「じゃあ誰?」
「カナちゃんよ」
まさか、あのカナまでが勇者の伝統に乗っかるのかと思った。ロイは緊張で喉が渇くのを感じた。
「カ、カナが……?」
「うん。それじゃ、呼んでくるわね」
そう言うとドアの向こうで足音が遠ざかっていった。ロイは立ち上がり、掌の汗を服で拭い、さっきまで寝ていたベッドの皺を伸ばした。
すると、背後でドアが豪快に開かれる音がした。こんな時は恥じらい、静かにドアを開けるものではないかと思ったが、むしろこっちの方がカナらしいと思った。
小さく喉を鳴らしながらロイは振り向いた。そして、カナの姿を見て唖然としてしまった。カナは自分の出来る限りのオシャレをした、のではなく旅装に近い格好をしていた。
「カナ……、どうしたの?」
覚悟をして男性の部屋を訪れた女性に掛ける言葉としては不合格だったが、この時のロイは本当に混乱していた。情事を求めてきたようにはまるで見えなかったから。
「ロイ、あんた明日の朝出発するんだって?」
「うん、そのつもり」
「じゃあさ……」
カナはニコッと笑った。
ロイの旅は安全が補償されたものではない。ここを出て帰ってこられるとは限らない。やはりカナも幼馴染として思い出を作りに来たのだろうか。
「あたしも一緒に連れていってよ」
ロイは口あんぐり開けて呆然としてしまった。言葉の意味が分からなかったのだ。それでも頑張って咀嚼し、必死で意味を読み取ろうとした。
「えーっと、ちょっと良く分からないんだけど……、僕と一緒に旅に出るって事?」
恐る恐るカナに尋ねてみた。『ハァ? 何言ってんの?』と笑い飛ばして欲しい気持ちと、『うん、そう』と言って欲しい気持ちがせめぎ合った。
「うん、そう」
予想し、待っていた言葉の一方ではあったが、実際に言われるとロイは困惑した。
「ど、どういう事? 僕、遊びに行くんじゃないんだよ。魔物と戦いに行くって分かってる?」
カナは『うん』と言って頷いた。意味も分かっていそうだし、気が触れている様子もなさそうだった。
「危ないんだよ。僕だって正直行きたくないんだ。カナ、いったい何を考えてるの?」
「理由は三つあるの」
カナは指を一本立てた。
「一つ目は旅に出たいって事。うちのお母さんもそうだけど、町の外にも出た事無いって人多いじゃない。あたし、そんなの絶対嫌。世界は広いんだから、色々自分の目で見てみたいの。噂に聞く“うみ”とかさ」
ロイとカナが住むキーリエ王国は内陸の国で、今回の問題は国内で起きた事。海のある地方までは絶対行かないと思ったが、カナの気分を害するまでもないと口をつぐんだ。
カナは二本目の指を立てた。
「二つ目は、あたしも歴史に名前を残してみたいって事。功績を遺した勇者はもちろん、一緒に旅した仲間も物語の中で語られるじゃない。あたしもそうなりたいの」
こっそりとロイは溜息を吐いた。上手くいけばそうなるだろうが、今自分が歩もうとしているのは未来の見えない旅路。無事帰ってこられるかどうか、ロイも不安だった。
短絡的なカナの主張を否定しようとした瞬間、カナが話し始めたのでロイは慌てて口を閉じた。
カナは三本目の指を立てた。
「三つ目はあんたにも関係があるのよ。それはね、あんたの旅の料理人として同行してあげようって思ってるの」
カナが言い終えるや、ロイは吠えるように喰らいついた。
「何言ってんの。そんな事の為に危ない旅に出ようとするなよ」
その瞬間カナの目が細くなり、雲行きが危うくなった。
「“そんな事”……? あんたね、日々の食事がどんなに大切か分かってないの? それが旅ってなったら尚更でしょ。旅の途中で栄養失調になったり、肝心のところで力が出なかったりね。最悪、途中で野垂れ死ぬかもしれないんだよ」
怒りの感情を含んだ言葉の応酬に驚き、ロイは言葉を失ってしまった。まだカナは
憤懣やる方ないらしく、ロイの発言を待たずに言葉を継いできた。
「それに、あんた食べ物の好き嫌いが多いでしょ。旅の途中の食事はどうするつもり?」
「そ、そんなの、僕はコレ食べれませんって言えばいいじゃん」
「ハッ、お店ではいいかもね。相手だって商売なんだし。でも、不機嫌な店主だった場合、あんたそれ言えるの? それにあたし以外の料理が出来る仲間と旅したとして、限られた食材の中でアレコレ注文出来ると思ってるの。めちゃくちゃ嫌がられるわよ」
「バカにするなよ。自分で作ればいいじゃん。僕だって料理くらい出来るよ。僕の店には料理の本だって沢山あるから、それ持っていけばいいから」
「バカにしてるのはあんたの方よ。売ってるお肉を使うだけならいいかもしれないけど、捕まえた鳥やウサギを、あんたは絞めて捌けるの?
それに外で料理するのよ。家の台所じゃないのよ」
さすがにロイは絶句した。カナの言う通りだと思った。世界の神羅万象を書き記していると信じている本だが、それを使いこなす為には人に資質、技術、経験が必要なのだと。
「その点あたしだったらどう思う。子供の頃から一緒に居て、あんたの好き嫌いは熟知してる。旅の途中、どんなに疲れてても安心して食事が出来ると思うよ」
カナがニヤリと笑った。そして、ロイは自分が陥落したのを感じた。
「うっ……、カナ……、君の言う通りだよ。一緒に行ってくれるかい?」
「頼まれたら仕方がない。一緒に行ってあげる」
これでは完全に立場が逆だと思った。
「それじゃ、明日ね。出発は何時?」
「人に見つかりたくないから、夜明け前を考えてる」
「そっ、それじゃその頃また来るね」
「あっ、カナ、テントとか寝袋とかも持ってきてよ」
「えーっ、寝袋はお父さんのがあるけど、テントは無いよ。そんな事言うならあんたは持ってるんでしょ。そこに入れてよ」
「ダ、ダメだよ、そんなの。し、仕方ないな、王様から貰ったおカネがあるからそれで買っておいてよ。テント一つと、カナも防具があった方がいいから、革の鎧と盾と兜を買ってきといて。食料はもう買ってあるから」
そう言うとロイはカナに九万ザラを手渡した。
「えっ、これだけ……? 無駄遣いしたの?」
「違うよ。二十万ザラだけだったんだ。なんか決まりらしくて。だから僕の分買ったら、それしか残ってないんだよ」
「そう、分かった。じゃあ行ってくるね。もう夕方だから早くしないとお店閉まっちゃうし。それじゃ、また明日ね」
そう言うとカナは出ていった。
ロイは溜息を吐いてベッドに仰向けに倒れ込んだ。そして天井を見つめながら考えた。カナの気持ちが変わって来なかったら、九万ザラは痛手だけどカナは安全だからいいかと思った。むしろ来ない方がいいとも。
気が重いままロイはベッドから立ち上がり、買ってきた物を荷物袋に入れていった。遠足や旅行の用意と違い、とてもノロノロと。
まだ空が暗い頃に起き、東の空の底辺が白くなってきたと思える時間に家を出た。さすがに両親も起きてきて、『頑張って』と送りだしてくれた。母親は、よなべして大きさを直してくれた勇者の服を渡してくれた。
誰かに気付かれるのを恐れ、ロイは音がしないように扉を開けた。隙間から身を滑り出させ、ロイは驚きで目を丸くした。
裏口の前に、旅装に身を整えたカナが立っていたのだ。黎明の空の下でも輝く白い歯を見せて。
「おはよう、ロイ」
「お、おはよう、カナ。き、来たんだ」
するとカナの顔が俄かに曇った。
「もしかして、あんた、あたしが来ないとか思ってた?」
図星を突かれ、ロイは苦々しい笑いを漏らした。
「そんな事ないよ。あっ、出発前にウチの本をいくつか持っていこうかな」
「早くしてね」
どっちが勇者なのか分からないように、ロイはカナに促された。ロイは店舗部に向かい、ロウソクを手にして本棚の間を歩いた。
毎日店の中を歩いていたのでロイは何処に自分の求めているものがあるか容易に分かった。そして『野外料理の食材と調理の全て』、『キーリエ王国詳細地図』、『キーリエ王国観光ガイド』、『魔族言語学』という本を手にした。本当は他にも持っていきたい本があったが、荷物が重くなるので諦めた。
出入口へ一歩進んだが、ロイは突如踵を返してカウンターへ向かった。そして引き出しから革装幀の古びた本を取り出した。
「お待たせ。カナにはこの本をプレゼントするよ」
「あ~、野外の料理本? うん、あたしも正直毒かそうじゃないか完全に見分けられないから助かる」
もしかしたら毒草を食べさせられる可能性があったのかと、ロイは全身が冷たくなった。
「ん? あんた、その勇者の物語も持ってくの?」
ロイがとても大事そうに両手で持っている革装幀の本を見てカナが言った。
「うん、最初の勇者の物語だからさ、何か旅のヒントになるかと思って」
「ふ~ん、あんたにしては冴えてるじゃない。あんたも頑張って本になったらいいね」
店の前でいつまでも話していても仕方ないという事になり、二人は誰も居ない通りを歩いて町の外へ出ていった。
ギサーラの村へ行くにはいくつかの町村を経なければいけない。次の村のラントは遠くなく、昼過ぎに到着した。
勇者として国内に知られていたロイが訪れると、やはり女性が集まってきた。しかし女性達はカナに睨まれて追い返された。
この村は魔族に襲われていない。しかし魔族が現れたという噂は届いており、村の有力者達はロイに早く魔族を退治してくれと頼んできた。
それらの顔を見てロイはうんざりした。村の有力者として村民に対する責任感ではなく、己が持っている権力や富を失う恐れからその言葉が出たと感じられたからだ。
ロイは村長から家に宿泊を誘われた。しかしロイは言下に断った。これ以上この村の権力者の毒気に当てられたくなかったのだ。カナからは好意を受けなかった事を非難されたが、説明すると渋々納得した。
村を出た二人は街道を外れた。カナは本を手に野草を集め、ロイは罠を作って鳥やウサギを獲った。
日が落ちる前に二人は焚火を燃やして野宿の準備をした。カナは背嚢から野宿用の鍋やフライパン、皿を取り出し、包丁を使って野草や肉を調理し始めた。本を見ながらでも見事な手捌きで、その日の夕食と携帯用の糧食も作り上げた。
焚火の明かりを前に、鳥の足を齧りながらカナが口を開いた。
「あんたさ、鳥とかウサギはどうやって獲ったの?」
「ん? 普通に罠だよ」
「もー、剣を持ってるんだからさ、それを使って格好良く獲ったらいいのに」
「いやいや、僕は剣を貰っただけで剣術とか出来ないから無理だよ」
「何言ってんの、あんた勇者でしょ。剣を光らせて、その力でズバーッと出来ないの?」
カナの言葉を聞き、ロイは俯いて溜息を吐いた。カナの無知に嘆いたのではなかった。
「うん、出来ない」
「勇者でしょ? そんな事も出来ないの? あっ。いつか出来るようになるとか?」
ロイは首を左右に振った。先程よりも表情が苦しそうだった。
「多分、このままだったら出来るようにならないと思う。だって、僕は本屋だから?」
カナは眉の間に皺を寄せた。全く意味が分かっていないようだった。
「勇者ってのはさ、いわゆる肩書なんだよ。例えばカナは“隣の食卓亭”の……、看板娘って肩書で、職業は料理人だ。看板娘なら花屋の店員を雇ったり、小さい子供を連れてきたり、極端な事を言えば猫でもいい。それらは看板娘としてお客を呼ぶ事は出来るけど、カナみたいに料理は出来ない。勇者も同じって事だよ」
「うん、そこまでは分かった。あんたはあくまで本屋としての能力しかないって事ね。だったらさ、勇者は何が出来るの? 看板娘がお客さんを呼ぶみたいに」
「勇者に選ばれた人が例外無く出来る事はこれ。精剣ディロームを扱える事」
言いながらロイは傍らに置いてある精剣を取り上げてカナに渡した。カナはそれを受け取り、訝しそうに見つめた。
「カナ、剣を抜いてみてよ」
ロイに促され、カナは柄を握って剣を引き抜いた。金属的な美しい鞘鳴りがした。
その刹那、カナは顔を引き攣らせながら腕を下げた。歯を食い縛り、剣を必死に落とさないようにしていた。
「くっ……、ロイ……」
「それじゃ貰うよ」
スッと柄に手を伸ばし、ロイは剣を受け取った。そして軽々と鞘に戻したのだった。
「ロイ、あんたいつの間にそんな力持ちになったの。やっぱり勇者としてもの力なんじゃないの?」
羨望の混じった目で見られ、この先を言おうかどうか本気で躊躇った。しかし公平ではないと口を開いた。
「いや、違うんだよ。はっきりは聞いていないんだけど、勇者じゃない人が抜き身の剣を持つとめちゃくちゃ重くなるみたいなんだ。僕の前にムキムキの騎士さんが力一杯持ち上げようとしてもダメだったんだ」
話の終わりの方でカナは頬を膨らませた。
「あんた、あたしで確かめたでしょ」
「……、あ……、うん。ごめん。正直確証はなかったからさ。でも、これで確信した。僕以外は持つのさえ辛いんだから、盗難の心配なんてないなって」
ロイは後頭部を掻きながら、申し訳なさそうな乾いた笑いを見せた。
「何だー、残念。あたしも勇者の血を引いてるんだけど使えないのかぁ。でも、この旅に関してはあんたより役に立つと思うわ」
「えっ? どんな根拠でそんな事言ってんだよ」
むくれたロイに対し、カナは得意そうな表情になった。
「あたしの祖先にセイ・F・ウルス様がいるんだけど、火と木と水の魔法を使った勇者なのよ。その子孫のあたしも魔道師の素質があると思うんだよね」
「今は使えるの?」
得意な顔が一転、バツの悪そうな顔に変化した。
「うっ……。い、今はまだ使えないけど……。だって勇者の血が流れてるから」
「そんなの自慢にならないってカナだって本当は分かってるんだろ。僕にだって始まりの勇者エルフィンの血が一滴くらい流れてるけど、そんなの何の価値も無いの分かってるし、国内にどれだけいるか分からないしね」
自分でも特別でないと分かっているし、こんな望んでいない運命に翻弄されて不満が募っていた。その為無意識に加虐的になっており、カナが小さくなっているのを見て気が付いた。そして小声で『ごめん』と謝った。
勇者に選ばれた時ロイの母親が言っていたが、勇者に選ばれると異性から無条件に好意を寄せられるようになる。
男性勇者と交わり子を生せば、もし父親の勇者が功績を上げた時に名誉の子になる。そして勇者の姓を引き継げば一族も血統を誇る事が出来る。また万が一父親の勇者が道半ばで野垂れ死んだとしたら、他に血を引く勇者の姓を選べばいいだけの事だ。
このような伝統がキーリエ王国にはあるので、男性は勇者に選ばれると立ち寄った町村で女性と契った。女性は何をしなくても集まってくるが、勇者が指名したら例え人妻であっても求めに応じるのは珍しくなかった。
もちろん女性も勇者に選ばれる事がある。最前カナが口にしたセイ・F・ウルスという者も女性勇者だった。男性勇者だけがこの魅力を利用出来る訳ではなく、女性勇者も男性を惹きつけた。
勇者に選ばれると死と隣り合わせの人生が始まるので、一般人にはその重圧は計り知れない。勇者が異性との、時には同性との、交わりで心の均衡を保とうとするのも当然と言えるだろう。
女性勇者も突如言い寄ってくる男性から夜の相手を選んだ。また昔から想いを寄せていた者を指名する事もあった。ただ、女性の場合一年に一人しか子を生せないし、旅をしなければいけないという事もあり、男性勇者より子孫の数は当然少なかった。
そのような訳で、キーリエ王国の約九割八分の国民が誰かしらの勇者の血を引いていると言われている。
気まずい雰囲気を残し、ロイとカナは別々のテントで夜を明かした。翌日の朝、さすが幼馴染だけあり、二人はしこりなどなく挨拶を交わした。
ただロイはテントのなかでまんじりとも出来ずに夜明けまで考えにふけっていた。
ラントからカカラの町までは少し離れていた。二日続けての野宿は避けたいと考え、二人は足を励まして道程を踏破した。
何事も無く町の門をくぐり、ロイはホッと安堵の息を吐いた。そして空が赤くなり始めていたので早目に宿を探そうと思った。
ただ、路銀は残りが二万ザラしかなかったし、増やす手立ても思い付かなかったので、ここで使ってしまっていいのか頭を悩ませた。
昨夜はほとんど眠れなかったので、とにかくロイは寝たかった。資金の事は後で考えようと思った。幸い、もう一つの問題の女性が集まってくる事に関しては、カナが睨みを効かせてくれているので解決していた。
「ロイ、とりあえずさ……」
もちろんカナに同意だった。一刻も早く体を横にしたかった。しかしロイの思惑とは違う言葉がカナの口から出てきた。
「町長さんの家に行こうよ。情報を仕入れに。どの勇者の物語にもあるでしょ、勇者は町や村に着いたらそれしてるからさ」
自分の疲労は寝不足とこれまでの運動不足がたたっていると分かっていたので、泣き言は口にしないでカナに従った。
しかし、これがロイにとって幸いになった。勇者の来訪を喜び、食事どころか宿泊していってくれと言われたからだ。ロイとカナは渡りに舟と、町長の申し出を有り難く受け取った。
これは勇者の特権の一つだった。王族貴族、町の有力者の家に泊めて貰えるという。
彼等は勇者を泊める事で王国から協力金を受け取れ、且つ勇者が功績を上げた場合『勇者到来の地』という栄誉が得られるからだ。
ただ、これは一般人の救済措置でもあった。過去、他人の家に強引に泊まったり、引き出ししやタンスを探ったり、壺や樽を壊して回る勇者が居た。そのような迷惑を被らない為、一般人が気安く断られるように、有力者達が一手に引き受ける事にしたのだ。
それ以外の特権に、国内を自由に歩けるというものもある。通行が制限されている場所、入場料が必要な場所、貴族の家、王宮の後宮でさえ精剣ディロームがあれば誰何される事はなかった。
しかし、一見良い事尽くしのようだが、もちろん負担や義務もある。それは宿泊以外の経費は自分で賄わなければならない事。勇者は国内の経済を回す存在でもあった。
そして、何か功績を上げるまで解任されないという事である。王に頼まれた問題を解決するのが主な目的だが、途中で別の功績を上げて引退した勇者も居た。ただ、圧倒的に道半ばで命を落とした勇者の方が多かった。
昼前までぐっすり眠り、慣れない野宿の疲れを抜いた二人は町長に礼を言って家を出た。そして目的地のギサーラの村へ続く街道を歩いていった。
「何だろう、あれ?」
前方を指差してカナが言った。カナより遠くを見通せないロイは目を細め、カナが示す方を凝視した。
少しすると、一人の少年が多数の犬を引き連れてやってきた。犬には紐がかけられていなかったが、不思議な事に犬達は少年の傍から離れようとしていなかった。
少年と犬達がロイとカナの横を通った。この不思議な光景に二人は目を奪われた。
犬が何匹か鳴き出すと少年はその犬達に顔を向け、何度も首を縦に動かした。そして突如ロイの方に視線を向けてきた。
「あの……、お兄さんとお姉さん、これからドコ行くんですか?」
「えっ? マーを通ってギサーラに向かおうと思ってるけど」
一瞬呆気にとられたロイだったが、すぐに自分を取り戻し、行く先を指差して言った。
「あの峠を越えるんですか?」
「うん」
「どうしても?」
ロイは不審に思いつつも首を縦に動かした。
「そっかぁ、そしたらさ、峠には気をつけてね。じゃあみんな行こうか」
質問しようと口を開いたロイを無視し、少年は去っていった。残された二人は顔を見合わせた。
「何だろう? 峠に何かあるのかな?」
「僕も分からない。どうする?」
「あの山を避けると遠回りになるよね。まだ昼前だから、急いで行けば明るいうちに越えられるよ。大丈夫じゃない?」
「うん、そうだよね」
そう話し合うと、ロイとカナは速足で進んでいったのだった。
二人は 山の麓に着いた。長年旅人の靴で磨かれた石畳の街道は左に折れ、山を大きくう回していた。そして山の方には踏みならされた土の道が続いていた。
その道は獣道というものではなく、人の手によって作られた道だった。恐らく、近隣の町村の者達が利便性を求めて切り開いたのだろう。
道の左右には高い木が聳えているが、間伐などで手入れされているので明るかった。ロイとカナは一度顔を見合わせて山道に踏み出した。
しばらく歩くと登山するような気持ちになり、ロイの足取りは軽くなった。
それ程高い山でもなかったので、一時間程度で頂上が見えてきた。ただ、平地に住んでいた二人の息は少々上がり気味だった。
その時、右手から物音がした。
ロイはカナを背後に隠し、右手の森を見つめた。大きな木の下には丈の高い草が生えており、奥の方が見通せなかった。
草が動き、鳥のつがいが飛び立った。背後でカナが安堵の息を吐く音が聞こえた。しかしロイはまだ緊張を解かずにいた。
ロイの判断が功を奏した。草が折れ、そこから黒い塊が飛び出してきたのだ。殺気を放つ視線を受け、ロイはカナの手を掴んで右に飛び退いた。その横を黒い塊が通過していった。
ロイの心臓は早鐘を打ち、非常事態を告げていた。
黒い塊が突っ込んでいった方の草がガサガサ動いていた。それはロイとカナが登ってきた、下方に向かっていた。
ロイとカナは道の真中に立ち、山の麓の方を見つめた。その瞬間、二十メートル位先に黒い塊が飛び出してきた。それは巨大な猪だった。
人間を恨んでいるのか、二人が持つ食料を狙っているのか、猪の目には殺気と狂気が宿り、口からは涎を垂らしていた。牙は鋭く長く、突かれたら無事ではいられないと感じられた。
猪が土をえぐりながら駆け上がってきた。安全が確保されないと知りつつも、猪の目から逃れる為、ロイは森の中へ逃げ込んだ。しかし、猪が一鳴きし、自分達の方へ向かってくるのが感じられた。
「カナ、荷物を捨てよう。食べ物を狙ってるのかもしれない」
言うが早いか二人は背嚢を脇に投げ捨てた。猪が草の間から飛び出してきた。しかし、猪は荷物に目もくれず、ロイとカナの方へ殺到してきた。
何らかの理由で猪は人間を恨んでいるという事が判明した。
ロイは猪が荷物をさぐるのではないかと期待していた。その期待が、一瞬逃げるのを遅らせた。
ロイの横を猪が駆け抜けた。身を捻るのが一瞬でも遅れたら大怪我をしていただろう。その硬い毛から立ち上る臭気に、ロイは恐怖をかき立てられた。
「ロイ、逃げるわよ」
カナに促されるまでもなかった。ロイは脇目も振らず駆けた。左脇腹が痛いような気がしたが、それを確認するなど出来なかった。
猪は真直ぐ突っ込んできて、大きくう回してまた突っ込んでくるを繰り返した。その習性を見抜き、二人はジグザグに走る事でかろうじて襲われずに済んでいた。
突然広い空間に出た。ロイとカナは走って反対の端まで行くと、青い顔をして振り返った。音がして、二人が出てきた所から猪が姿を現した。鼻息が荒く、猪の怒りは減じるどころか先程より高まっているように見えた。
ロイは背負っている剣の柄に手を伸ばした。しかし掴む前に手を下ろした。慣れない剣を手にして動きが鈍る事、変な自信が出て逃げる機会を失う事、猪を更に怒らせる事を恐れたからだった。
「ロイ……、何とかならない?」
「うん……、考えてるけど……。何とか町まで逃げるしかないと思う」
「そうよね……」
ロイの背中を冷たい汗が伝わった。背後で音が聞こえた気がした。しかしそちらに視線も注意も向けられない。目の前の恐怖と危険が大き過ぎた。
猪が前足で土を掻いた。突進が来ると思った。
その刹那、後方の草が大きく動いた。そして腹に何かが巻き付いてきた。こんな時に蛇まで現れたのであろうか。蛇と猪とで殺し合いをしてくれたら、自分達は逃げられるのにと祈った。
突然体が持ち上げられた。身の危険を感じてロイはもがいた。
「暴れるな。逃げるんだ。君達じゃ相手にならない」
明らかに人の声だった。こんな危機的状況ではあったがロイは少しホッとした。そして声のした方に首を捻った。
人の顔があった。自分の父親より少し下くらいの、しっかりした骨格をしている男だった。短い髪は後ろに撫で付けられ、自信のありそうな表情に勇気を貰えた。
男はロイとカナを抱えたまま森の中を走った。そして二人が元々歩いていた山道に出たのだった。男はそのまま山を登り始めた。
後ろで物音が聞こえた。この短時間で何度も聞いたので、それは猪の足音だと分かった。
「しつこい奴だ……」
諦めの混じった溜息を吐き、男はロイとカナを手放した。そして振り向きながら、全身鎧の腰に吊るしている大剣を抜いた。
男は両刃の大剣を正眼に構え、猪を睨みつけた。
「来い。勝負だ」
人間の言葉を理解した訳でもないだろうが、強く鼻息を吐き出すと、猪が真直ぐ疾走してきた。
男は身動き一つしなかった。
猪の目が光り、牙の先で男に狙いを付けたように見えた。
猪が突進してきて、男と猪がぶつかり合う距離まで近付いた。
「ジェットソード!」
男が気合の叫びを発した。銀光が猪の首に下から上に絡みついたように見えた。
その瞬間、猪の大きな頭が赤い線を宙に引きながら飛んだ。頭を失った体は突進の勢いのまま二、三歩進むとどうと横倒しになった。
男は息を一つ吐き、大剣を鞘に納めた。刃に血は付いていなかった。
「大丈夫か? 君達。どうしてこんな山道を歩いていたんだ」
「ありがとうございます。僕達、ギサーラの村へ向かっている途中だったんです」
ロイの言葉を聞き、男は眉を上げて驚いた。
「君達、報せを聞いてないのか? ギサーラに魔族が現れたんだぞ。それを勇者が退治に向かっているって……」
男の目が大きく開かれた。その目がロイの背に、剣の鍔に、吸い付けられた。
「も、もしかして、君は、いや、あなたは勇者のロイ・E・カメーユ様ですか?」
「あっ、ええ、一応、……勇者です」
ロイは恥ずかしさで頬を指で掻きながら言った。『様』を付けて名を呼ばれた事や、勇者なのに助けられたのが恥ずかしかったのだ。
すると突然男の姿が消失した。右拳と膝を地につけ、頭を垂れていた。その様子を見てロイは驚き当惑し、言葉を失った。
「私はジョー・ラウドと申します。勇者ロイ様、私も供に加えてください」
「えっ、僕達と一緒に旅をしてくれるって事ですか?」
「はい。私程度の実力では駄目でしょうか」
ロイは手を振った。
「そんな、というか、とても助かります。正直、僕は剣技がからっきしダメなんで」
「ありがとうございます。卑小な力しかありませんが、全力でお手伝いさせて頂きます」
ジョーは地面に額が触れんばかりに頭を下げた。しばしそうして、ジョーはスッと立ち上がった。表情は初夏の風のように爽やかだった。
「勇者様、それではそろそろ行きませんか?」
「ええ。ところでラウドさんは何でここに居たんですか?」
助けてくれたとはいえ、正体がはっきりしないジョーを手放しで信用する訳にはいかなかった。ジョーはこの山に巣くう山賊で、猪から助けられて安心するロイとカナを殺して金品を奪おうとしているというような話を何度も本で読んでいた。その疑いがまだ晴れていない以上素性を聞き出さない訳にはいかなかった。
「カカラの者に聞いたのです。勇者様が既に通過したと。ギサーラの村に向かっているのは分かっていたので、山道を使えば追い付くか、勇者様がう回していればマーの村でお待ち出来るだろうと思ったのです。また、カカラで猪の噂も聞いて退治も頼まれたので、もし遭遇したら退治しようと思っていたので一石二鳥でした」
二つの目的が同時に達成出来たのが嬉しかったようで、ジョーは白い歯を見せて笑った。
「そうでしたか。じゃあ、この猪どうしますか?」
ロイの問い掛けにジョーは顎を指で挟んで少し考えた。そして顔を明るくし、手を打って口を開いた。
「この猪には懸賞金が掛かっていました。首を持っていってそれを受け取りましょう。それとこの肉も売ってしまいましょう。旅の路銀になりますし」
「へ~、ラウドさんでしたっけ? それ、いいですね。それじゃ、倒したのはラウドさんなので首を持ってカカラの村へ知らせてください。その間にあたしがこの猪を捌いておきますので」
カナの話を聞くとジョーが目を丸くした。
「えっと……、こんな大きな猪ですが、大丈夫なんですか?」
「あたしが女だからですか? でも大丈夫です。あたし、料理人ですから」
腰から包丁を取り出してそう言った。先日ウサギと鳥を調理した後しっかり研いでいたので木漏れ日が当たって輝いていた。
「なるほど、それは安心ですね。それではよろしくお願いします」
ジョーは満足そうに笑い、恐れ気もなく猪の首を掴み上げた。そして、まだ傷口から滴り落ちる血で自分がよごれないように、少し体から離して山を下りていった。
「うわっ……、カナ、よく出来るな……」
血で手が汚れるのも気にせずどんどん作業を進めるのを見て、ロイは顔を白くした。
「豚も捌いてたから」
カナはニコリと笑った。
「それじゃさ、その包丁で猪を倒してくれたら良かったじゃん」
「はぁ? それはダメよ。あたしの包丁は料理にしか使わないから。武器としてなんて、絶対ダメ」
「それじゃさ、戦う時はどうしようと思ってたの?」
「木の棒持ってたでしょ、アレ。樫の木だから硬いしね。落としてきちゃったから後で取りにいかないと」
そう言うとカナは自分の作業に没頭していった。手持無沙汰なロイは足元の石を軽く蹴った。その瞬間、ロイの顔が訝し気に歪んだ。
革の鎧の腹の部分が裂けていた。驚いたロイは鎧を脱いでみた。何と、王宮で貰った勇者の服も破れていた。恐る恐る破れ目から手を入れてみた。
ロイはホッとした。手にヌルッとした感触が無かったからだ。一応その破れ目から腹を見てみた。日に当たっていない、白くてきれいな肌が見えた。
猪が鼻先を通った時のものだろう。ギリギリのところで無傷で済んだのだろうか。ロイは眉の間に皺を寄せて考え込んだ。しかし当然答えは出なかったので、ロイは悩む事を手放した。
剣を持っていても扱えない勇者、矜持が高いだけに包丁を武器として使えない料理人、この二人の旅がどうなるのか思いやられ、ロイは重い溜息を吐き出した。
しばらくして、登山道の下の方が騒がしくなってきた。ジョーを先頭にするカカラの村の住人達だった。彼等は硬い表情で荷車を曳いていた。
半ば捌かれている猪を見て、村人達の顔が驚愕から安堵に変化した。ジョーの持ってきた首だけでは、当該の猪が本当に討たれたのか半信半疑だったのだろう。
住人達は猪に群がり、力を合わせて荷車に乗せた。そしてこれから村が安全になる事、猪肉をどうして食べようかなどを話しながら山を下りていった。
村に着くと肉屋が待っており、猪を見るなりホクホク顔になった。そしてジョーにカネを渡すと、猪を自分の店へ持っていった。
「勇者様、猪退治の懸賞金が七万ザラ、猪肉が七万ザラで売れました。どうぞお受け取りください」
裏表の無い笑顔を見せながらジョーが言った。それに対してロイは手を振って断った。
「いやいや受け取れませんよ。僕達何もしてないんですから。ジョーさんが全部貰ってください」
あまりにも良い人過ぎると思った。これすらも演技なのではないかとロイは疑った。ここの判断を誤ったら、山中に屍を晒す事になるかもしれない。
「そんな事言わずに」
「こんな事言うのも何ですが、ラウドさんは何故ここまでしてくれるんですか? 僕なら自分の手柄にしますよ」
言い終えるやロイはジッとジョーを観察した。表情や体の変化の全てを見逃さないように。
ジョーの顔が苦悶に歪んだ。
「うっ……、実は、私は名誉が欲しいのです。あなたに同行すれば勇者の仲間という名誉、功績を上げたら更なる名誉が得られると思いまして」
そう言うと、小さくなったと見える程肩を落とし、顔を俯かせた。
「そうですか……。それなら、一緒に旅をしましょう。むしろ、こっちからお願いしたいくらいです」
「そ、そうですよね……、失礼しました。それじゃって、ええっ、今、何と?」
笑わせにきているのかと誤解するような反応に、ロイは思わず笑ってしまった。しかし真剣なジョーが気を悪くしないよう、口に拳を当てて咳払いでごまかした。
「ですから、同行をこちらからお願いします」
「ありがとうございます、と言いたいところですが、私が言うのも何ですが会って間もない怪しい男ですよ。そんな男と何で旅をしようと思ったのですか?」
「本当に自分で言いますね。ラウドさんは名誉が欲しいと言いました。損得勘定があった方がむしろ信用出来ます。無償で身を奉げると言われていたら、絶対断っていたと思います。そんな事をするのは、王宮勤めの青年騎士ぐらいですよ。ところでラウドさん、外国の方ですよね?」
ロイの最後の一言に、ジョーは口を横に引いて一歩下がった。こめかみに汗が一筋流れていた。
「いえ……、いや、確かにそうです……」
一瞬嘘をつこうとしたのをロイは看破した。しかしすぐに正直に認めた。これも誠実さの顕れと、ロイはジョーへの心証を更に良いものにした。
「けれど……、何故それが分かったのですか?」
ロイを魔族とでも疑っているかのような表情でそう言った。
「理由は二つあります。ラウドさんに名前の間に過去の勇者の姓が入っていなかった事です。この国の人はほとんどが持っているので」
「なるほど、私はキーリエ王国に知り合いは居ないし、この国に来てからそんなに時間が経っていなかったので知りませんでした」
「でも、それが良かったです。むしろ取り繕って偽名を使っていたら、僕はラウドさんを疑っていたと思います。それともう一つの理由は、言葉の癖です。何処の国か分かりませんが、明らかにキーリエのではありません。過去の勇者の血を引いていないから名誉を求めているのかと一瞬思いましたが、それは違うんですよね?」
「な、なるほど……」
ジョーはその一言の後絶句した。
「あ~、そういう事だったんだ。あたしも何か気になってたんだよね」
見直したとばかりにカナがロイの背中を叩いた。ロイは飛びそうになった眼鏡を押さえ、ヨロヨロと前に押し出された。そして恥ずかしそうな笑顔を見せた。
「よしっ、心強い仲間も出来たし、もう怖い猪も居ないから、改めて出発しよう!」