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母親

リュシーの姿が見えなくなった手鏡を片手に、ディランはベッドに座り込んだ。


大きなため息を一つ吐くと、急な展開に根をあげそうになる心を何とか立て直した。


さて、差し当たっての問題は、どうやって仕事を休むか、だ。


ディランの父親のゴードンは、家具職人としてエリスで一番大きな工房で働いている。


ゴードンは優れた技術を持っており、腕を見込んだ貴族から指名の依頼も来るほどだ。


家具製作の依頼がひっきりなしにやってくるため常に忙しくしており、朝もディランより早く、すでに家にいない。


母レッテへの対処が、問題だ。


レッテは刺繍師だが、所属している刺繍工房で働いているのも子育て期の女性などが多いため、朝はそんなに早くない。


そのため母は、朝早く父を見送った後は、ディランを送り出し、最後に出勤している。


前回死んだ時は、職場に向かうのを嫌がるディランを、レッテは叱咤して家から叩き出した。


まあ、行ったら死んでしまう気がして行きたくないなんて変なこと説明できず、ただ仕事に行くのを嫌がっているように見えたディランが悪いのだが。


いかんせん、この家の権力者は母なので、リュシーが鏡に戻ってくるまで、どうにかしてこの家にいなければ。


仮病を使うしかないか?


――いや、ディランは自他共に認める超健康優良児だから難しい気がする。


子供の頃から周りで風邪か流行っていても、ディランだけは何故か全くかからずにピンピンしていた。


そんなディランが急に体調を崩すなんてものすごく驚かれそう、というか怪しまれそうだ。


顔色も悪くない、というかいつも通り健康的だし、小さい頃からディランを見てきた母の顔を誤魔化せるような演技ができる自信がない。


「まいったな……」


かといって、仮病以外にどうやって仕事を休んだものか、理由が思いつかない。


というかそろそろ、出勤するなら朝ごはんを食べなくてはならない時間だ。


このまま部屋に閉じこもっていたら、レッテが様子を見にきてしまう気がする。


「熱が出た……は無理か。すぐに測られたら嘘だってわかる。腹痛でトイレに篭るか……いや、でもそれもなぁ……」


どうしたものかと頭を悩ませていると、ついに母レッテの声が階下のリビングから聞こえてきた。


「――ディラン!いつまで寝てるの。遅刻するわよ、起きなさい!」


あぁ、やばい。

まだどうしたら良いか決まってないのに。

ディランは返事もできず、立ったり座ったり、おろおろとするしかない。

 

「ディラン、まだ寝てるの?早くしなさい!」


答えないディランが寝坊していると思ったのだろう。


母親が階段を登る足音がする。


ディランの部屋は階段を上がってすぐ右手の部屋だ。


焦るディランは、先ほどまでリュシーが写っていた手鏡を、とりあえず枕の下に隠した。


「やばいやばいやばい」


頭を抱えるが、母を騙す良い案が思いつかない。


もう怪しすぎる仮病で何とか煙に巻くしかないのか。





そのとき、枕の下から光の玉が飛び出してきた。





「ーーー!」






「えっ!?いやいやいや!!嘘だろ、戻れって!!」


枕の下にあるはずの手鏡と光の玉――すなわちリュシーの説明によるところの妖精――の間を二度見したディランは、あわてて妖精を掴もうとした。


しかし妖精は、俊敏な動きでディランの手の中からすり抜けて、一目散にドアに向かって飛んで行ったかと思うと、ドアの前で急停止した。


「おいっ、ええと、妖精さん?戻ってくれ、頼むから!」


妖精は、ディランの声が全く聞こえないような素振りで、ドアの前にふわふわと浮かんでいる。


妖精がこんな風に外に飛び出してしまったということは、手鏡はひょっとしてリュシーと繋がらなくなってしまったのだろうか。


思いもよらない事態にディランの額には冷や汗が吹き出してくる。


「ああ!もうどうしたら。戻ってくれよ!」


「ディラン!起きてるの?」


扉の向こう側から呼びかけてくる母と、扉の前に浮かぶ妖精に、ディランはパニック状態になった。


「ああっ!母さん!――やばい、どうしよう!」


「やばい……?起きてるのね?開けるわよ!」




まずい!




頭の中が真っ白になったディラン。





しかし、母の手により扉が薄く開いたその瞬間、浮かんでいた光の玉――妖精が急旋回して驚くべき速さで、ディランの顔に向かって飛んできた。





「――うわっ!!」


避けようとして後ろにのけぞったディランは、ぐらっと自分の体が傾くのを感じた。


バランスを崩したディランは、そのままベッドのふちに思い切り腰をぶつける形で倒れ込んだ。


「――いってぇ!」


ディランが倒れるのと同時に扉も完全に開く。


ドアノブを手にしたエプロン姿の母親のレッテは、唖然とした表情を浮かべてこちらを見ていた。


「あんた、大丈夫なの!?」


思い切りぶつけた腰も尻も痛くてたまらなかったが、その時ディランはハッと思いついた。


「い、いてててて!ごめん母さん、寝ぼけてベッドから落ちたみたいで………その、動けない」


「は?動けないって……」


「腰をやっちゃったかもしれない……どうしよう」


「どうしようって……立てないの?」


近づいてきたレッテが肩の下に入り込み、ディランを支えようとしてくるが、ディランは痛くて立ち上がることもままならない様にふるまった。


結構痛いので酷い打ち身にはなりそうだ。


とはいえ、実際のところ、立ち上がれない程の怪我ではない。


ないのだが、力仕事が主体の大工の仕事に行けない理由としては、怪我をしたということにするのはちょうどよかった。


ひとしきりディランを立たせようと試みたレッテは、どうやらディランが立ち上がれないようだと認識すると、小さくため息をついた後、堪えきれないといった風に笑い出した。


「ディラン、15才にもなって寝台から落ちて腰を痛めて動けないなんて……あ、あはは!ほんとに、な、情けない、むす、息子、だわ!」


「怒るか笑うかどっちかにしてくれよ、母さん……」


「アハハハ!」


情けない息子の言葉に、隠す事なく大笑いする母の姿に、ディランの眉がしょんぼりと下がる。


「はー!笑ったわ!ディラン、情けないわねぇ。そんなんじゃ仕事にならないでしょうし、大工工房には、ぎっくり腰で行けないって伝達鳥を送ってあげるわよ……ぷっ、アハハ!」


「――母さん!!」


ぎっくり腰で休暇なんて、後日死ぬほど職場の上司たちに揶揄われるだろうなとも思ったが、今日また死ぬかもしれないので、外聞を気にしても仕方ないか、とディランは渋々頷いた。


伝達鳥は、家で飼っている小さな黒い鳥だ。


決まった場所(父と母とディランの職場と家)を覚えさせてあるので、小さな手紙を足にくくりつけて飛ばせば、文のやり取りができる。


商人なんかはたくさん飼っているのだが、ディランの家でも、縁があって一匹飼っていた。


「痛みがひくまで、ベッドで休んどきなさいな。朝食持ってくるから」


ニマニマと笑いながら階下に降りて行く母親を見送ると、ディランは腹の底から大きなため息を一つ吐いた。


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