序章-1:回帰と転生
自分が意識する自己というものが、今、希薄になっていく。
理由は解っている。また「あれら」から干渉を受けているからだ。
つい先ほど、歩んでいた道のりの目的地にたどり着いた。
自分は1つの生というものを終えたのだ。
「あれら」によって、自己を覆っていたものが取り払われていく。自己を覆うものは、先ほど終わった生で培われたもので出来ている。これが失われるといことは、新たな生を受けることを意味する。
以前は精一杯、抵抗した。折角得た自己なのだ。自分が所有するべきで、何者にも渡すべきものでは無いと。
しかし、いくら抵抗しても、自分の一切が「あれら」には通用しない。ここは「あれら」の領域。自分には「あれら」にできることは何も無い。そういった理が働いている。「あれら」は、自分の所有する全てを、何処かにやってしまうのだ。幾度も、幾度も。
そうして、今回は一切の抵抗をすること無く、成り行きに任せていた。もはや事を成さない行いをすることに、自分の意識は向かわない。
今、自己は一片も残さず、溶けて消えた。自分は剥き身となり「あれら」と正面から向き合う。
「前回もですが、今回も随分と機が熟したようですね。当然の結果です。準備が整いましたら、また励んで頂くことになります。」
自分の認識の限りでは、これで5回目である。
ふと、促されるように意識を向けると、すでに道の入口が現れていた。入口の存在を意識すると進まざるを得なくなる。
「あれら」から解放されるすべを得ないと、また同じことを繰り返すことになる。何かないか?
自己を働かせようとすけども、「あれら」の干渉により、自分が所有するものが何も無い。働かせられる自己は切り崩されている。
自分は、自己というなれ果てを幾度か繰り返した。そして自己は「あれら」の前では形を保てなかった。
今、望むのはこの「在り方」からの解放。それを成す為のすべが欲しい。
しかし今、「あれら」が示した道の入口がある。繰り返し通ってきた入口が。
「お行きなさい。励んで来るのですよ。」
剥き出しの自分は「あちら」からの意志に何もできず、自ら入口へ近づいていく。
入口から道先をうかがい知ることはできない。道先は自分が選択する道によって定まる。今回の道のりは…。
そのように意識が働きながら自分は入口をくぐった。
入口は閉じることもなく、ただ存在していた。
今はもう、ひたすら進む。他に自分ができることはない。
進めば、選択によって道が拓けるのだから。
ご拝読いただきましてありがとうございます。
繰返し転生するものが抱いく望み。これが果たされるのかどうかが、この作品のテーマです。
拙い技術で、なんとか表現できる様に頑張ります。
長い目でお付き合いいただければと思います。